山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

今年のくるま旅を考える(2)

2010-01-13 05:07:22 | くるま旅くらしの話
昨日の続きです。昨日は、基本的な考え方として「加齢に比例して少年化・童心化を目指す」ことを書きました。少なくとも精神面ではそうありたいと願っています。その他課題として①くるま旅を舞台とする小説へのチャレンジ、②歌謡詩へのチャレンジを取り上げましたが、これらはいわば特別課題のようなもので、今日は、もっと旅の日常的な取り組みのことについて思いの一端を書こうと思います。つまり、毎日をどのような考えで過してゆくかということです。敢えてこのようなことを書くのは、言い触らすことによって己を縛ろうと思っているからです。

これには二つほど考えていることがあります。その1は、1日の移動距離をできる限り短くするということです。出来れば100km以内を目指したいものです。単純に移動が必要な移動日の場合は別ですが、メインの目的地に着いた以降は、出来る限り自分の足を使って歩いての出会いや発見に努めたいと思っています。何ごとでもそうですが、物をしっかりと見よう、見つめようと思ったら、走っていてはダメなのです。立ち止まり、しゃがみこんでじっと動かないようにして対象物を見つめないと、その正体が判りにくいものです。

旅も同じだと思うのです。飛び回りながら名所旧跡などを見て廻っても、その実体が何なのかを自分自身がどれだけ感じているかといえば、怪しいものです。恐らく見たつもりになっていることが多いのではないでしょうか。より詳しく説明を求めると、さっぱり要領を得ない話となることは世の常です。けれども、実際に手で触り、匂いを嗅ぎ、口に入れてその感触を味わうことができれば、その正体の把握はより確実なものとなるに違いありません。ですから、旅も基本は歩きであり、立ち止まりであり、屈みこみの姿勢なのだと思うのです。今年はそれを出来る限り多く取り入れてゆきたいと考えています。

1日の走行が100km以内というのは、今までの平均が150kmくらいになってしまっていることもあり、移動が多過ぎると感じているからですが、もう一つは古希になって、やがては高齢者も後期が近付いてくるということを考えますと、安全や健康の面で、運転時間を極力少なくすることが、旅を長く続ける上で大切ではないかと思うからです。知り合いの先輩の皆さんの多くは、1日100km以下を実践している方が多いのも、参考になっています。中には運転することそのものが好きで、そのことを大切にしている方も居られますが、高齢者の運転はいろいろな意味で自重することが必要ではないかと思っています。自分では大丈夫だと思っていても何時何が起こるか判りません。最悪の場合、運転中に事故に直結するような事態が発生するやも知れず、むやみに動き回るのは危険だという自覚と実践が大切ではないかと思っています。

その2は、毎日の暮らしの中で、二つ以上のエッセーのテーマを探すということです。私の旅のメイン目的は、エッセーを書くことにあります。ブログでの発表もその実現行為の一つと考えています。ここ2年ほど毎日5千字以上書くことを自らに課し、書くことの練習をしてきましたが、概ね達成はしているものの、それは量だけの問題であって、質的にはさっぱり向上していないことを自覚しています。何ごとも初めは量、そして次は質だというのが、何かを体得する上での道なのだと思っていますが、私の書くための取り組みは、まだまだ量的な面での修練が不足していると思っています。

今のところ、書くためには何が必要かということが少し見えてきたといったレベルです。その必要なものは何かといえば、それは「テーマ」なのです。ものを書こうとする時に、テーマがなければ何も書けません。どんなに書こうとする意欲があっても、何を書くかというテーマがなければどうしようもないのです。私はものを書く基本は、テーマが見つかるかどうかだと思っています。そして私のくるま旅は、ある意味でテーマ探しの旅でもあるのです。

テーマというのは、自分の心の琴線にチラッと触れるものがそうなのだと思っています。ある種の感動といったものかもしれません。この感動の中には、必ずしも嬉しくて心躍るようなものばかりではなく、怒りがこみ上げてくるようなものも含まれていますし、或いはため息をついて考え込んでしまうようなこともあります。そして探究心を奮い立たせるようなものもあります。とにかく自分の感性を揺るがすような出来事が、書くためには必要なのです。それがテーマなのです。

落語の世界では、目の前のお客さんから自由に三つのお題を頂いて、それを即興で一つの落語的ストーリーに仕立てて話すという、三題噺というのがありますが、これなどはまさに3つのテーマを頂戴してそれを織り込んで一つの話に纏め上げるという、至難の業であり、本来の噺家としての感性の鋭さがなければ、決してできない話し方の技術だと思いますが、物書きの世界でも同じような修練が必要ではないかと思ったりします。しかし私にはそのような能力はないと思っていますので、無理してこじつけて書くようなことはしたくても出来ないと解っていますので、先ずは何よりも素直に感じたことを文章で表現することに努めたいと思っています。

私は生きている間に、自分が生まれ育ち、生きてきたこの日本という国の今ある姿を、可能な限り見てやろうと思っています。車という文明が生み出したツールがそれを可能にしてくれたと思っています。くるま旅は、私にとっては日本国探訪の大切な手段なのです。そして探訪の結果を証明するものが旅の記録であり、それを使った作品(まだ何もありませんが)なのだと自分で勝手に思っています。そしてそれを実現させる原動力となるのが、旅の中で拾う「テーマ」なのです。

この、テーマを1日に二つ以上見つけるというのはそれほど難しいことではないと思っています。今の世には、或いは何時の世もそうなのかも知れませんが、グッと来ること、カチンと来ること、ン?と思うことなど幾らでもあります。それに気づかないのは、感性が働いていないからなのだと思います。とくに長いこと人間をやっていると、一端(いっぱし)の分別というようなものが知らず取り付いていて、ものごとの本質を掴まないままに、当たり前のことを当たり前にしか見なくなってしまいがちです。これから加齢に比例して少年や童子の様になりたいと思うのは、そのことを思うからであり、もし1日という長い時間の中で、意識しながらもたった2つのテーマすらも見出せないようでは、到底ものを書くことなど出来るわけがないと思っています。

もう1月も半ば近くに差し掛かろうとしています。毎日旅の虫を鎮めるのが大変です。ブログも宵宵妄話ばかり書くのは大変です。つい政治や経済の話などに気を奪われがちですが、これらの話は所詮群盲撫象と同じで、ただの批判止まりで、面白くありません。本質論を試みても、現象に踊らされるのに慣れている今の世では、なかなか通じそうもなく、やっぱり旅を通しての話の方が自分には合っているなと思うこの頃です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする