只今、馬骨老人は下あごに半端な白い髭をたくわえ、頭に手製の頭巾のようなものを被っています。この頃はどこへ行くにも頭巾を多用するようになりました。
このような妙な風体(=ふうてい=身なり)を見たら、10年前の私を知っている人は「あいつ、歳を取り出してから少しおかしくなったんじゃないの?」と思うかもしれません。
10年前の私はごく真面目な形振(なりふ)りのビジネスマンでした。しかし、会社を辞してからの仕事では、ネクタイをつけることは殆どなく、自らの首を絞めることだけは、極力避けようと考えていました。祝儀と不祝儀の時以外は、以来ネクタイを占めたことはありません。
ネクタイというのは、知らずサラリーマンを仕事に縛り付ける紐のような感じがします。今頃、ネクタイを締めてスーツ姿で歩いている人を見ますと、若くても年配者であっても、あれは仕事に縛られている柵(しがらみ)の証だと思って、ちょっぴり気の毒さを感じてしまいます。 一体いつ頃からあのようなものを身につける習慣が生まれてしまったのでしょうか? ま、このようなことを言ってはいるものの、私自身を振り返ってみれば、22歳で就職して58歳で会社を辞するまでの間、殆ど毎日ネクタイを締めて職場までを往復していたのですから、嗤ってしまいます。
その嗤いを引っ込めて今頃思うのは、嵌った型から抜け出して、新たな自分の生き方のスタイルを作るというのは、結構難しいということです。私が思うには、生計の原資を得るためのビジネスに取り組んでいる世代(リタイア前という意味)では、誰しも自分の個性を自分なりに主張するような生活スタイルが取れるのは、特殊な仕事に係わっている人だけで、その殆どは右に倣(なら)えの生き方を余儀なくされているのではないかということです。服装一つ取ってみても、殆どが右に倣えの中の狭い範囲で、小さな自己主張をしているという程度ではないでしょうか。ネクタイを締めて仕事をしている職場に、着物を着て出勤したり、或いは頭巾や帽子を被って椅子に坐っていたら、周囲から違和感を持って見られるだけではなく、上司や同僚から注意を受けるのが普通だと思います。
そのような時代を過ぎて、リタイア後は、極端に言えばあらゆる生活スタイルを自分の考えで、自分の好きなように変更し、作ってゆける自由裁量権がもたらされるわけです。着物が好きなら朝から晩までそのスタイルで過せばいいし、下駄が履きたければ下駄履きでどこを歩いたっていいわけです。しかし、自分の好きなようにといっても、現実にはそれを実現・実行することは難しいのです。
何が難しいかといって、主張する自分が何なのかが見つからないことほど難しいことはありません。ネクタイを外すことは出来ても、そこから先は今までと何も変わらないのが現実です。何か変わったことでもして見ようと思っても、パジャマのままで街の中を歩くわけには行かず、主張などということよりもその反対の行動の方が遙かに多くなるように思います。つまり、没個性的世界に沈没してゆくということです。別の言い方をすると、覇気のない老人の世界に埋没してゆくのです。
どんなに歳をとっても活き活きと生きている人は、没個性的ではありません。生きる喜びを知っている人は、単にその喜びを味わっているだけではなく、何らかの形でそれを表現していると思います。それが素敵な個性となって他人には映るのではないかと私は思っています。旅の中で出会う魅力的な人物に共通しているのは、ネクタイを首に締める時代を遠くに放り投げて、本物の自分の自由を手にした生き生きとした表情です。くるま旅の全員が皆そうだとはいいませんが、多いのは疑いもない事実です。
さて、もう一度我が身を振り返って現実を見てみますと、ネクタイのくびきからは解放されたものの、主張するようなことは何もなく、以前と変わったことといえば、3年ほど前から髭を中途半端に伸ばし出したことと室内帽として頭巾風の手づくりの布の帽子を被り出したということくらいです。これらの風体は、主張などではなく髭は全部剃るのが面倒なので、少しだけバリカンで刈れば済むようにしたいという発想が原点であり、まあついでにおつむの方が次第になくなって来たので、せめて顔の下の方の髭だけでもちゃんとあることを証明しておきたいということくらいなのです。頭巾というのは、これはもうてっぺんが光って周囲に迷惑をかけてはいけないということと、寒さ対策などの実利的な面を思って、家内に幾つか作って欲しいと懇願(?)して出来上がったものを載せているだけなのです。
最初は何だか恥ずかしいような気分でいましたが、今では元に戻す方が具合が悪いといった感じです。と言いますのも、最近の旅の間に出会った方は、皆さん私のそういう風体を当たり前と見ておられますので、てっぺんピカピカで白髭もない姿では、偽者と思われてしまいそうだからです。でも昔の自分を知っている職場関係の人からは、もしかしたら別人だと思われてしまうかも知れません。
どうでもいいようなことなのですが、最近では、もしかしたらこれが自分の新しい主張の一つなのかなと思ったりしています。考えてみれば、これらの風体所業は、右に倣えから始めたわけではなく、ごく自然にそう思って始めたことなのですから。恐らくこの二つは、これから後も髭が生えなくなるまで続けるような気がしますし、現在4個の頭巾帽子は、家内にはあと20個くらいは作って欲しいと思っています。
今日は終日本の作り直しに取り組み、疲れました。疲れたついでに、頭と髭を撫でながら、つまらぬ思いに時間を過ごしたのでした。