山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

水戸行寸感

2010-01-10 06:29:52 | 宵宵妄話

昨日は、高校時代の最終学年時のクラスの新年会があり、久しぶりに水戸へ行きました。水戸は茨城県の県庁所在地であり、徳川御三家の一つの水戸藩があった所です。現在水戸を一番有名にしているのは、何といっても「この印籠が目に入らぬか!」の2代目藩主光圀公の諸国漫遊の話かと思います。しかし、あれは殆ど全部インチキであることは明らかで、但し内容が封建時代の体制側の権力者でありながら、勧善懲悪教導のモデルとなっているものですから、誰も文句を言わずに観ているわけですが、もしその反対の意図でのストーリーであれば、水戸っぽは断じて嘘のストーリーの放映を許さないのではないかと思います。

守谷からの往路は、倅の車で送ってもらったのですが、常磐道を使うと、我が家からは1時間足らずで行くことができます。予定よりもかなり早く着いてしまったものですから、少し手前で降ろしてもらい、そこからは駅前にあるホテルの会場まで歩いてゆくことにしました。2km足らずの僅かな距離でしたので、些か物足りなさはありましたが、新年会に配付するために持参した資料がかなりの重さのため、我慢して、その分じっくり久しぶりの街中を歩くことにしました。

歩くといえば、勿論表通りではなく、裏通りの方です。街の本当の姿は、表側ではなく、裏通りにあるというのが私の信念のようなものとなっていますが、大小のビルで固められている表通りは、下ろしているシャッターが増えつつあるということを除けば、どう飾っても色褪せた賑わいしかなく、昔の思い出につながる店も風景も殆どなく、あまり心を打つものが少ないからです。これは、初めて訪ねる地方の都市でも共通している事象のような気がします。

というわけで裏通りを30分ほど歩いたのでした。水戸は細長い鯨の背中のような丘に昔の城下町が形成されており、海側(と言っても海までは大分距離がありますが)に近い方を下市、丘の方を上市と呼んでいます。昔の城はその中間くらいに位置し、その北西側を那珂川が流れ、反対の南東側には千波湖を中心とする湖沼エリアがあり、その昔の築城の条件に叶った地形となっていると思います。下市は町人の居住エリア、上市は武家の居住エリアに大別できます。わが母校はそのお城の本丸跡に校舎があり、いうなれば昔の殿様と同じ城下の景色を見ながら学び、遊んだということなのですが、さて、その当時その様な気分で景色を眺めていた人が何人いたことやら。勿論、私なんぞは授業中は寝てばかり、授業が終われば放課後のクラブ活動(バスケ部)で夜遅くまで汗を流し、ついぞ景色など見たこともありませんでした。

昨日歩いたのは、その上市の方から城跡の方に向うコースで、そのメインの建物に水戸芸術館があります。その道は今は芸術館通りと呼ばれているようです。芸術館通りを真っ直ぐに城跡の方に向って歩くと、県庁のあったエリアにぶつかり、この辺りが昔の行政の中心地で、藩校の弘道館などがあります。そのエリアの坂を下った所が水戸駅で、‥‥と、ざっとこのようなことを書いてもなかなか判りにくいのではないかと思いますが、今日は私の勝手な独り言を聞くつもりでお読み頂きたいと思います。

水戸といえば観梅の偕楽園が有名ですが、昨日はその偕楽園の近くの大工町という所で降りて歩いたのでした。裏通りの最初は歓楽街の一つでしたが、昼間の歓楽街には夜の疲れと不景気の滓(おり)みたいなものしか漂っていませんでした。今頃は社用族が交際費等の旨い汁にあやかる余裕などないことでしょうから、厳しいことかと思います。高校時代にこのような場所を通ったことはありませんでしたが、今は過去の世界として歓楽街を見る年齢となってしまいました。チョッピリ複雑な気持ちの散策でした。

少し歩くと芸術館が近くなりました。芸術館には、三角錐なのか四角の箱なのかよく解りませんが、それらの箱を幾つかくっつけたような感じのシンボルタワーが銀色に輝いて空に向って伸びています。なかなか写真に収めにくい建物です。しかし遠くから見ても直ぐそれと判るもので、見事なアイデアだなと思います。

    

左は水戸芸術館のシンボルタワー。どこからでも望見できる象徴的な建造物である、この中をエレベーターが稼動している。右は水戸芸術館の建物。

この芸術館は、今日のクラス会のメンバーの一人である佐川一信さんが水戸市長だった時に、彼の発案で建築されたものと聞いています。佐川さんは若干40歳代初めの頃、全国で最も若くして県都の首長に選ばれたということで話題となったのですが、行政に安易なる功利を求めるのではなく、生活の質の向上をも考えることのできる重厚な人物であり、我々のクラスの期待の星であり、誇りでもありました。惜しむらくはこれからという時に病魔に冒されて不帰の人となりましたが、彼が存命であったなら、茨城県はもっと充実した内政が行なわれていたにに違いありません。県知事に立候補して一敗地にまみれた中での他界でしたので、返す返すも残念です。茨城空港などという愚の骨頂とも言うべき施策などは断じて行なわなかったと思います。

水戸には、芸術館を造るなどという発想は、それまで殆どなかったのではないかと思います。その様なものを造るよりも水戸駅東側の土地開発を優先すべきなどという土建屋発想の方が優先する雰囲気が強かったのではないかと思います。そのような古い保守行政環境の中で、若い時から世界の都市を幾つか見聞している彼は、優れた都市には優れた文化が息づいており、その一つに芸術に係わる発信基地があることをしっかり行政の視野に入れて、古い街に新しい生命を吹き込もうとしたのだと思います。シンボルタワーだけではなく、今後100年以上はそのまま使えると思われるホールなどのある重厚な建物を見ながら、亡き友の思いを改めて確認したのでした。これから先、彼の生前の発想と行為が、水戸市にとって価値あるものであったことが、証明されて行くに違いないと思っています。

芸術館近くにはマンションや人家が多いのですが、所々枯れ草が風にそよぐ空き地もあって、その様な空間に何故かホッとするのは、懐古の念に浸る老人の感傷なのかもしれません。表通りで無い場所に、立派な建物ばかりでは、何だか救われない気分になるのです。私がマンションをあまり好きになれないのは、マンションという住まいには枯れ草の生える(?)余裕がなく、そうかといって住人が無関心で敷地内を荒れ放題にしていると、一挙にスラム化が進むような感じがして、落ち着かないのです。ま、これは余計なことです。

旧県庁の建物が見える辺りまで来た時には、もうあまり時間がなくなってきて、駅に向う銀杏坂と呼ばれる坂道を急いだのでした。坂の取り付き口にある2本の銀杏の木は、50数年前よりも相当に悪化している住環境にも拘らず、健在で春を待っているのを見て、思わず嬉しくなりました。周辺が何もかも変わってしまった中で、静かにその変わり様の来し方を見守っている生き物の存在は、それが樹木であってもとても大切だと思います。

新年会は今年が51回目。その中で私が出席できたのは半分くらいでしょうか。勿論皆出席の人もおり、今回は全メンバーの半数近い20名の出席でしたから、これはもう全国でも数少ない存在ではないかと思います。今回は古希を迎えての記念文集も作りましたし、今は亡き恩師の奥様にもご出席を賜わり、楽しいひと時を過ごすことができました。年一回の集まりですが、メンバーの命の続く限りこの集まりも続いてゆくのだと思います。

コメント
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