年末から正月にかけては、真にグータラな暮らしぶりでしたが、あれこれと考えることは割りとマトモだったと思います。この頃の正月は休む人と働く人とがくっきりと分かれており、働く人が次第に増えてきているのが判ります。昭和の中ごろまでは、正月元旦といえば特殊な仕事に係わる人以外は、皆休むのが当然で、商店街も店を開いているのは風呂屋と煙草屋さんくらいのものでした。2日は初荷で、少しずつ活動が再開され、普通に戻るのは早くても3日目辺りでした。
それが現在では大晦日も元旦も店は開きっぱなしで、休みといえばシャッター通りのいつも閉まっている店ぐらいの状況となりました。年末大売出しが終れば、翌日から初売りとなって、新年の情緒などどこかに吹き飛んでしまい、コマーシャリズムが作る年末と新年が踊りまくっている感じがします。何時のころからこうなってしまったのか判りませんが、本当にこのようなことでいいのでしょうか?
ちょっぴり(いや、それ以上に)今の世の中に、そしてこれからの世の中に不安を感じています。どう考えてもこれから先、この世が素晴らしい未来を展開して行くとは思えないのです。今日はそのことについて触れて見たいと思います。
経済に関する学問を学んだ人ならば常識の範囲に入ると思いますが、「悪貨は良貨を駆逐する」という言葉があります。グレシャムの法則と呼ばれるものですが、これは金本位制をとっていた古典経済体制について述べたもので、今日の紙幣を通貨とする経済体制においては当て嵌まらない理論ですが、悪貨というものを貨幣でないものに置き換えれば、何やら当て嵌まるものが幾つかあるように思います。
世の中が良いか悪いかという判断は、その基準が何かによって大きく変動するものだと思いますから、仮に今の世の中を軽便な暮らしを楽しめるという物差しで計るなら、決して悪いという判定は下せないと思います。しかし、貧富の差などはともかく、心身共に安定感のある一生を送るという物差しで計るならば、決して良い世の中には向かっていないように思います。
人間が人間らしくその一生を全うするということはどういうことなのでしょうか?古希を迎えて人生の終章に足を突っ込んだ者として、過去の69年間の時代の変化とその前の祖父母たちの明治・大正時代の生き方の流れを思うとき、何か大切なものがいつの間にか失われてきていることを思わすにはいられません。何がそれを失わせ続けているのかを、つまり「悪貨」に相当するものが何なのかを見ておく必要があると思うのです。
私的に一挙に結論を言うならば、「世の中全体が、私(=自己)中心に今を楽しむ生き方を最優先するようになった」ということではないかと思います。昨日のことも明日のことも、勿論多少は気にしたとしても、今現在を如何に屈託なく楽しんで生きてゆくかが大切なのであり、極めて短期的な見方での生き方が主流を為して来たのだと思います。この考え方が「悪貨」に相当するように思うのです。そうです「悪貨」というのは物ではなく、考え方なのです。世の中の良し悪しは、物が決めるのではなく生きようとする考え方が決めるのです。
例えば人が生きるためには他人との係わり合いが不可欠ですが、その親密にして最小の単位は家族だと思います。この家族すらも、今の世の中の「私中心の考え方」は破壊しています。家族関係の基本は親子関係ですが、私が中心となるがゆえに、この家族関係があやしくなっています。それは我が家においても同じような気がします。家族の結びつきというか絆は、家族同士のコミュニケーションのあり方によって成り立っていると思いますが、我が家においてもそれは極めてプワーとなっているのを実感します。解っていて話さないのならいいのですが、自分中心のために話さないということになると、親子であっても信頼関係は揺らぎ、結局最後は肉親の情とかいうものが僅かに力を発揮するだけになるのだと思いますが、そうなっては時すでに遅しです。このような家族が世の中には溢れかえっているように思います。
このような「悪貨」に相当するものが何故、どこから生まれてきたのかといえば、それは日本国が「軽薄な豊かさ」を求め続けてきた結果からだと思います。日本国の求めた豊かさは、社会を豊かにするという発想が欠落していたような気がします。個々人が豊かになれば世の中全体が豊かになるという考え方で戦後の数十年間はひたすら働いてきました。私も勿論その中の一人ですが、その結果今豊かになったのかといえば、これから先を安心して生き抜く自信が持ちにくい現実です。私が求めてきた豊かさは、今となってみればやっぱり「軽薄な豊かさ」だったような気がします。
長生きすることに価値が見出しにくい世界が生まれつつあります。高齢者は世の中の破壊者となりかねない存在です。これもまた軽薄な豊かさを求め続けた結果だったような気がします。もっと世の中全体のことを考えた豊かさを追求すべきだったと思うのです。世の中全体の豊かさというのは、個人の短期的な発想からは生まれません。全体を見る発想が基本になければならないのですが、戦後の日本には戦前の明治時代のような国を思う気持ちがなくなりました。
これを生み出したのは、勿論太平洋戦争における敗北だと思いますが、その根底にはアメリカの占領政策が潜んでいると思います。今の日本を作り出したのは、勿論日本人自身ですが、そのように巧みに仕向けたのはアメリカの占領政策だったのです。そのようなことはホンの少し戦後のGHQなどの関連文書や占領政策に関して書かれた著作などを読めば想像がつくことです。アメリカは二度と日本人が大和魂などという国民意識を持たないように、深く静かに戦後の日本に様々な施策を浸透させました。それが概ね成功して、今の日本人は、日本という自国をバカにするほどいい加減な国民が増えてしまったのです。
グローバリズムとか言う発想がありますが、世界中が仲良く一つになって付き合ってゆくというような安易な受け止め方を日本人の殆どが持っているのだと思いますが、それは幻想です。グローバリズムというのは、自分の住んでいる国の命運をかけたプライドがあって初めて成り立つものだと思います。人類は基本的に皆同じであることは明らかですが、地球上では様々な歴史・条件によって同じにはなれない現実が厳然として存在します。日本国がどのような国なのかをはっきり自覚し、プライドを持って世界に乗り出した時に、グローバルな世界が開け、それ故に日本国を超えた発想が生まれるのだと思います。最初から自分の母国を軽蔑し、バカにするような人間が世界に乗り出しても笑い者になるだけでしょう。
少し話が大きくなり過ぎました。お断りしておきますが、私は国粋主義者ではありません。単なる国を大事と思う者です。一言いいたかったのは、悪貨の根源がアメリカという国に深く係わっているということです。しかし、21世紀にはアメリカのリーダーシップは大きく減少すると思います。アメリカを支えてきたものは、大量生産・大量消費に代表される経済体制と、あやしげな信用経済が蔓延る金融市場でした。それらを上手く機能させることによって、それを背景として武力を確保し、世界の政治をも動かしてきたのですが、今はそれが根っ子のところで崩れ出している感じがします。
大量生産・大量消費というのは、使い捨てを生み出し、ものを大切にしないという考え方を育て、それは人間までも物と同じという発想すら生み出しています。この軽便な豊かさは、人間までをも使い捨てにするという経営を生み出して平気でいます。また信用経済はいわば博打のようなもので、ありもしない信用(=給付と反対給付のズレ)を売買した結果、世界中を混乱に陥れています。
ま、アメリカのことを悪し様に言うのは、必ずしもフェアではないと思います。利とするところも多大だったのですから。もし占領軍がアメリカでなかったとしたら、日本はもっと惨めな国となっていたかも知れません。しかし、重ねて言えば、日本はアメリカには十二分に恩返しをしていると思います。それは例えば平和憲法を守っているだけでも証明されていると思います。憲法を変えるべきと思っているのは自民党や民主党ではなく、アメリカなのではないかと思うくらいです。(ちょっと危ないことを言い過ぎた嫌いがあります。どうせボケ老人の戯言ですから、大した根拠があるわけでもなく、殆どが勝手な想像です)
さて、何はともあれ悪貨を駆逐しましょう。悪貨は人それぞれの心の中に、しっかり潜んでいます。特に高齢者は、己の悪貨が何なのかをしっかり捕まえ、駆逐することが大切ではないかと思います。軽便な豊かさ、すなわちホンの少しばかり楽をして、得したような気持ちになって、大事なものを失っていないか。特に健康のことなどでは心に巣食っている悪貨を駆逐する必要があるように思います。そして、これは私自身のこれからの重大テーマの一つです。