山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

相撲道を嘆く

2010-01-30 01:34:31 | 宵宵妄話

昔から相撲が好きでした。今でもそれは変わっていませんが、自分の身体で相撲を取ったのは、中学生くらいまでで、それ以降は専ら見る方に専念しています。その相撲といえば、やはり大相撲です。日本国を代表する国技として大相撲は存在していると今でも思っています。

その大相撲のことですが、最近は真に嘆かわしい惨状にあるように思い、一言苦言を呈したいと思いこれを書き始めています。本当は、今日から旅で拾ったテーマについて書くつもりだったのですが、旅をしている間に、又々不祥事が起ったようで、この世界の生ぬるい対応に些かむかっ腹が立ち、黙っては居れない気持ちなのです。

大相撲界の幾つかの話題の中で、理事の選挙などについては、どうでもよろしいのですが、相撲道に反する事件に関しては、放置できないように思います。端的にいえば、横綱朝青龍の振る舞いです。即刻綱を取り上げ、謹慎・降格等の処断を行なうべきです。相撲道の最高実践者としての横綱の責任を果たすどころか、その名を地に貶め続けているという振る舞いは、真に言語道断です。

相撲道というのは、武士道に繋がる人間としてのあり方・生き方を示すものであり、それは単に勝負に勝つというレベルに止まらず、人間・人物としての範たる振る舞いの全てが含まれるものと考えます。厳しい勝負の世界に生きる者の人間としての品格を高らかにうたったのもが相撲道なのであり、それ故に国技なのだと思うのです。そして、それは、日本人であるとか外国人であるとかを問わず、この道に関る全ての人たちに求められているものなのです。

大相撲が単なるショービジネス、エンターティメントならば、横綱の振る舞いが地に堕ちるだの品格がどうだのなどという必要はなく、大衆は気ままに楽しみ、相撲取りもまた好きなように酒を飲んで、時に傍若無人の振る舞いをしてところで、大して責められる話でもないと思います。勿論そうなれば国技などではなくなるのは当然のことです。

今の相撲界を見ていると、相撲道を守るなどということよりも、懸命にショービジネス化への道を急いでおり、何でもいいから話題を作って、客を場所の観客席に呼び込めば良いという発想がありありの感じがします。その中心となっているのが、とにかく形振り構わず強い力士を見出し、これをビジネスの核に置くという発想です。国内にそのような素材がいなければ輸入してでも補填し、とにかく横綱や大関に相応しい勝ち星を挙げ得る力士に縋るといった風潮がこの世界には満ちている感じがします。しかし発生する話題は、マイナスの部類のものが圧倒的に多く、時代の狭間の中で国技などという厄介な頚木に振り回されているばかりの感じがします。

朝青龍はそのような協会の体制を見透かしているようです。要するに強ければいいんだ、文句があるなら頸にでも何にでもして見ろ!困るのはあんたたちじゃないの?という考えが心の半ばを占めており、何か批判を受ければ、一応は反省の素振りは示すものの、その芸は下手という感じがします。要するに協会は舐められており、言い換えれば本当の相撲ファン(相撲道を大事に思っている人たち)をも舐めているということです。

幼稚で愚かな振る舞いが話題となる度に、最も腑に落ちないのは、朝青龍の師匠・親方の存在です。最も舐められ、蔑まれている人物はこの親方に違いありません。親方というのはその名の通り親を代行する存在なのに、この親方は弟子の業績(?)に圧倒されて、もはや親方としての自分を失くしてしまっているようです。このような人物には、相撲道などというのは迷惑千万な話だと思いますが、相撲道の側から見れば、こんな意気地なしの人物が親方をやる資格など無い様に思います。部屋ごと協会から脱退して、別の事業でも起こした方がいいのではないかと思うほどです。

相撲だけではなく、今の世の中全体が、トチ狂っている感じがします。ある意味で末世なのかも知れません。何か正体不明のものに阿(おも)ねて、中途半端なことばかりを行なっている感じがします。その最たるものが政治であることは明らかですが、元を糾(ただ)せば主体者・当事者の己の信念が脆弱であることに尽きる感じがします。大相撲で言えば、朝青龍の方が親方や協会よりも信念の強さで勝っているということでありましょう。相撲道などチャンチャラ可笑しいという信念の方が勝っているというのでは、大相撲には国技としての未来はなく、早々にそのような看板を外して楽になるべきです。

私から見ると、横綱審議会などというのも、いい加減な感じがします。本当に横綱の審議をしているのか疑問です。いろんなルールのようなものを作ったりしているようですが、その中心は勝敗のことばかりで、相撲人としての人間をどれだけ論じ、見ているのか疑問です。本当に見識のある人物が委員をしているのか疑問です。横綱の審議というのであれば、勝敗のみならず綱を締めるに相応しい人物であるのかを、常時審議すべきであり、相応しくなければ直ちに綱を外させる力がなければ、横審などというのはおこがましい感じがします。上っ面のコメントしか出来ないような人物が委員をしていたとしたら、大相撲は遠からず協会共々沈没するのは明らかな感じがします。

何だか無性に腹が立って、このようなことを書いても子犬(否、老犬)の遠吠えにもならないのに、妙に意気がってしまいました。でも私はやっぱり相撲が好きなので、関係者にはしっかりして欲しいと思います。横綱が居らず、大関も一人しかいないような番付であっても、本物の相撲が見られると大勢が押しかけるような真剣勝負の世界が、本当に相撲道を体現している姿なのではないかと思っています。今のように粗製乱造の横綱大関陣では、TVを見る気にもなれず、わずかに懸命に土俵を努めている何人かの力士の姿に慰められるだけの場所が増えています。1年6場所というのも、ショービジネスへ擦り寄っている証のような気がします。地方巡業を充実させ、本場所は年に2回くらいでも営業が成り立つような体制を協会は工夫すべきと思うのですが。さて、元横綱の貴乃花などはどう考えているのやら。

とにもかくにも、今回の事件がうやむやに済まされたならば、もはや相撲道は朽ち果てたと見切りをつけなければならないと思っています。

コメント
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