去年の今頃は紅葉を見る旅に出かけていた。10月末にNHKの取材があり、磐梯山方面へ行くことにしていたので、それに合わせて裏磐梯から米沢の方に向かい、飯豊連峰の麓を走って越後に行き、寺泊の魚市場などを訪ねたあと、再び会津の山峡を通って那須に抜けて我が家に戻る一週間ほどの旅だった。
裏磐梯の紅葉は既に最盛期を過ぎて、鮮やかさを保つ樹木はまばらとなっていた。五色沼の中の柳沼を中心に取材が行われたが、カメラさんはいろいろとご苦労されていたようだった。その夜は喜多方の道の駅泊まりだったが、スタッフの人たちはあれこれと頑張っておられて、我々が解放されたのは20時を過ぎていた。後の放映時間は2分足らずだったから、報道番組というのは、突発の事件でもない限りかなり時間を使って慎重に制作がなされているのだなというのを実感したのだった。
年々紅葉の時期が遅れてきていたり、或いは紅葉のキレというか鮮やかさにかける気候となっている感じがする。我が家の庭に植えた山もみじの木は、植えて三年になるけどまだ一度も紅葉したのを見たことが無い。ただ葉が枯れるだけである。この辺は寒暖の差の厳しい季節は失われてしまったのかもしれない。庭先で紅葉を眺めようとするなんて、この地ではもはや叶わぬ夢なのかもしれない。
紅(黄)葉を見せてくれる樹木というのは、不思議な生き物で、それぞれのやり方で、季節に合わせて生命の表現を見事に変化させながら生長している。落葉樹の葉っぱだけを見ていると、1年毎に生死を繰り返しているように見え、それは人間の1日の繰り返し(目覚めから眠りまで)に似ているようにも思える。生き物に与えられた命の時間は様々で、樹木には比較的長い時間が与えられているようだ。それらの樹木が毎年紅葉を見せてくれるのは不思議というしかない。科学的にいえば葉の中に含まれる澱粉質だとかアントシアンがどうのこうのということになるのだろうが、そのような説明では不思議は理解できない。
理屈のことは措くとして、私は全山紅葉を見るのが好きだ。一本の木の鮮やかな紅葉も見事であり、賞賛を惜しまないけど、唸るほど感動するのは全山紅葉である。山全体が樹木たちの生命の炎で染め上げられるのである。山峡の道を走ると、この季節には至る所に全山紅葉を見ることが出来る。全山紅葉は、樹木たちの生命だけではなく彼らを生かしている山そのものの生命の輝きのようにも思えるのだ。
無機質の岩石や土壌に生命があるなどと考えるのはナンセンスだなどと本気で思っている人は、気の毒な人だと思う。気に毒が入ってしまって気の毒となるが、本当は私のような人間の方が気に毒が入っているのかもしれない。私は時には山にも生命があると信じているのである。古来からの山岳宗教などは山の生命を信じて疑わない。そこにこそ弱い人間の素直な人間らしさを感ずるのである。全山紅葉は樹木を養う山そのものの、一年の中の僅かな時期にしか見られない生命の輝きなのだと思う。
少し冷静になって、紅葉を見ると思うことがある。紅葉は美しいけど終わりが早い。それはあたかも自分と同じ世代を象徴しているように思える。長いこと仕事中心の生活を送ってきて、やがて定年を迎えて現役を引退し、一時(ひととき)の安楽の条件を備えている今の時が、人生の紅葉期のように思えるのである。山もみじや楓や漆のような鮮やかさは無いかもしれないが、さし当たっての大きな不安も少なく、まだ老いるには早い、定年後間もない時期から古希を迎える前くらいまでの世代は、人生の紅葉期を迎えているのではないか。
木々が紅葉を誇り、謳歌しているのと同じように、我々世代も紅葉期を大いに楽しむべきではないかと思っている。楽しみを明日に残す生き方も必要だとは思うけど、紅葉の先にあるものを考えると、明日を考えることにあまり意義があるようには思えない。特に明日のことを心配し続けるような人生は敬遠したい。どんなに労苦が付きまとっても、この年になれば楽しみをものにしなければ、それこそ生きてきた甲斐が無いようにも思えるのである。
私の紅葉期の楽しみは、勿論くるま旅くらしの中にある。その中には無限といっていいほどの楽しみが詰まっている。紅葉期の人間が紅葉を楽しむだけではなく、時には若葉の緑春を思わせる楽しみだって体験できるのだ。どうやら来週末辺りから全山紅葉を見ながらの旅が出来そうである。旅の予楽は自分にとって、今が最盛期なのである。(笑)