日本の中で一番歴史が詰まって残っている所といえば、京都と奈良だと思う。その他にも独特の文化風土の残っている所はたくさんあるとは思うが、何といっても京都と奈良だ。私は馬の骨を自認しているので、本当はどうでもいいことのようにも思えるのだが、奈良や京都を歩くと、自分の遠い祖先もやっぱりこの辺りに住んでいたのかなと、心が騒いだりするのである。
この頃は奈良に行くと必ず山の辺の道を歩くことにしている。天理市の石上(いそのかみ)神宮から桜井市の大神(おおみわ)神社までの10kmほどを、ゆっくり時間をかけて歩くのだが、その道を歩いていると、眼下に広がる奈良平野の古(いにしえ)の集落から立つ昼餉(ひるげ)の炊煙が見えるような気がするのである。ご先祖がその中で何をしていたのかは知らないけど、少なくとも中流階層以下であったことは間違いないように思える。自分の中に流れている馬の骨意識はそれを伝えているような気がするのだ。
一昨年だったか、藤原の鎌足を祀る淡山神社に参拝したが、そこには藤原一族の流れを汲む姓の中に山本というのが入っていた。大いなる疑問を感じた。明治の初めのドサクサにまぎれて用いた姓の中には、山本がたくさんあったに違いない。山の多い日本なのだから、山の麓辺りに住んでいた百姓の人たちは、山本とか山下とか横山とかを正直に使った人が多いように思う。そのような人でも藤原一族ならば、世の中のすべてが藤原一族の流れを汲むといってもいいことになってしまう。家柄などというものは、ごく一部の限られた連中を除けば、殆どはっきりしないことが多い。その方が普通なのだと思っている。
少し話がズレて始まったが、今月はその奈良と京都を訪ねる予定にしている。楽しみだ。といっても2週間のうちに北陸を経由して帰ってこなければならないので、駆け足の旅となってしまうのは必定だ。今回は奈良では山の辺の道をやっぱり歩きたい。桜井でそうめんを買うのも忘れてはならない。それ以外は行ってから決めることにしている。銘酒春鹿も1本ゲットしたい。どこかで茶粥を一杯所望したい、などなど結構欲張っている。
京都は高尾の紅葉を見る以外は、まだ予定が無い。相棒が南禅寺に行きたいといっているので、それだけは何とかしなければならないだろう。しかし、京都というのはくるま旅の者にとっては、訪ねにくいところである。駐車場が無い。あっても超高額だ。それに拝観料とやらを取られる寺が多い。一つのお寺を訪ねるたびに駐車料と合わせて三千円もとられていたのでは、たまったものではない。そのようなことから、京都は表側の中心街には最近殆ど行っていない。その分、裏側の日本海側の方はかなり詳しくなった。京都の文化や食を支えてきた力のかなりの部分が日本海側にあることもわかるようになった。
今回は、どうしようかと迷っている。高雄と南禅寺はかなり離れているから、日にちは別にしなければならないだろう。とすると2日必要になり、奈良とあわせると4日くらいになってしまう。その他に大阪の二人の知人にも会いたいし、それぞれ住まいが離れているので、調整が難しそうだ。贅沢な悩みが続いているのである。
旅の前の迷いや悩みは立派な楽しみである。予楽というのは、それをいうのである。旅先での目的や用件などのアイテムを思いつくままたくさん挙げておいて、幾つかを決めただけで出発し、あとはその場が来た時に判断して決めるというのが、自分たちの旅のやり方である。
今回は、本当は今週末辺りに出発できるかなと思っていたのだが、1週間遅らせ、来週末になりそうである。何人かの知人に予めのお知らせをしておかなければならないのだが、まだ少し時間がかかりそうである。もう少し悩む楽しみを味わってから決めることにしたい。