人間も自然の一部である。
昨日、山の木々を見ていて、
ふと、木は寂しくないのだろうかと思った。
おそらく寂しくはないのだろう。
ほかの木々や虫や鳥や風や雨たちが、
つまり、生きとし生けるものたちが、いつもそばにいる。
無論、それが、生存を脅かす存在であることもあるだろうが。
しかし、種としての存続ができれば良いと、
彼らは思っているのかもしれない。
それに比べて、人間はなんと利己的であり、
その側には、無生物の物の多いことか。
テレビやパソコンの類いは言うまでも無く、
日々の食べ物までもが無生物になってきている。
うっかりすると、
自分が自然の一部であることも、
自然の恵みによって生かされている存在であることも、
忘れてしまうのではないか。
そうした感謝心などは、
情緒の部類に含まれよう。
だから、大人が幼子と共にあって、
草花の美しさや、山に雲が降りてきている趣深さなど、
豊かな自然、美しき自然、そして、厳しき自然を、
喜んで見せ、畏れ敬って見せることが、
何よりの教育なのだと思う。
昨日、山の木々を見ていて、
ふと、木は寂しくないのだろうかと思った。
おそらく寂しくはないのだろう。
ほかの木々や虫や鳥や風や雨たちが、
つまり、生きとし生けるものたちが、いつもそばにいる。
無論、それが、生存を脅かす存在であることもあるだろうが。
しかし、種としての存続ができれば良いと、
彼らは思っているのかもしれない。
それに比べて、人間はなんと利己的であり、
その側には、無生物の物の多いことか。
テレビやパソコンの類いは言うまでも無く、
日々の食べ物までもが無生物になってきている。
うっかりすると、
自分が自然の一部であることも、
自然の恵みによって生かされている存在であることも、
忘れてしまうのではないか。
そうした感謝心などは、
情緒の部類に含まれよう。
だから、大人が幼子と共にあって、
草花の美しさや、山に雲が降りてきている趣深さなど、
豊かな自然、美しき自然、そして、厳しき自然を、
喜んで見せ、畏れ敬って見せることが、
何よりの教育なのだと思う。