命を粗末にする若者が増えている。
そこで、「生命尊重の教育」をということが叫ばれている。
しかし、私は、「生命を尊重する感覚」を身につけるためには、
「生命を捨てる覚悟を持つ感覚」をこそ、
体感してもらう必要があるのではないかと思う。
一見矛盾しているようだが、
例えば私たちは、
落としても割れない大量生産したプラスチックの茶碗より、
陶芸家が心血を注いで創った二つと無い茶碗を大切に扱う。
それは、割れてしまえば修復は出来ないし、
同じものを二度と手に入れることができないということを
誰もが知悉しているからであろう。
一回性のかけがえのないものであるという自覚があるからこそ、
人はその器を大切にする。
今、大人は子どもたちを
大量生産のプラスチックの器のように見てはいないか。
いや、それよりも、
自分自身をそう見てはいないか。
大人自身が、一回きりの人生にどれだけ挑み、
人生の儚さという壁に果敢にぶつかったり、
希望を失わせる「虚無感」という大きな敵に、
正面から立ち向かおうとしているのだろうか。
人は命がけで何かをやろうとする中で、
はじめて、命の儚さに気付き、
同時に、命のかけがえのなさに気がついていくのではないか。
そして、その姿にかけがえのなさを感じたときに、
子どもたちは命の大切さということを
初めて実感できるのではないだろうか。
「今は命を大切にすることより、
酒でも遊びでも恋愛でも良い、
命がけで何かを実行してみることだ。
その時初めて命の尊さと、
この世のはかなさを実感することだろう」(白洲正子)