花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

市場主義の陥穽 (後編) -‘だんじり’化する社会の中で-

2006-05-12 22:57:57 | Weblog
 ヴェブレンは、投資とその実現の間のタイムラグ、そして投資の結果である生産設備が固定化する性質を持つことに注目し、需要と供給の均衡の形成における市場の働きが万全ではないことを見て取った。このことは今でも当てはまり、需要と供給のミスマッチは起こっている。
 一方、ヴェブレンが見たものとは別の落とし穴も、市場原理に潜んでいるように思われる。「市場に委ねさえすれば、市場原理が効率性を発揮し、優勝劣敗が進んで、世の中は上手くいく」、と考える人が巷にはいるようだ。うんと長い目で見れば確かに非効率なもの、劣悪なものは市場から退場していくのであろうが、投資とその実現の間と同様にこれにもタイムラグがある。非効率なものならまだしも、不適格なプレイヤーが退場させられるまでの間にさんざんフェアーではないプレイを行ったとしたら、どうだろうか。マンションの耐震強度偽装問題を思い浮かべて頂きたい。ヒューザーは市場から姿を消したが、残した傷跡はあまりに大きい。市場から退場こそしていないものの、昨年のJR西日本・宝塚線の事故は、経済効率の名のもとに、いともたやすく安全性がないがしろにされることを教えてくれる。
 さらに私が心配なのは、今の世の中はかつてとは比べものにもならないパワーを持っているということだ。一見、社会は秩序を保っているように見えるが、ちょっと油断すると凄まじいエネルギーの奔流が私たちを蹂躙するだろう。言うなれば、現代社会は岸和田だんじり祭りのだんじりのようなものである。引き手はかろうじてだんじりをコントロール出来ているだけで、一旦隙をみせた途端、だんじりは引き手も観客も薙ぎ倒していく。死者がでることさえある。現代社会は、人間が充分にコントロールすることが出来ないほど巨大かつ複雑で、それでありながら世の中に害毒を流すエネルギーは計り知れない、便利さの裏に危うさも併せ持っている社会だと言えよう。そんな、だんじり化した社会にあって、「市場に任せれば上手くいく」といった楽観論は危険なのではないか。市場が退場を命じる前に、取り返しのつかないことをやられる恐れがあるからだ。考えたくないことだが、電力供給会社が経済効率に走るあまり、原子力発電所の安全面を軽視したらどうなるだろうか。災いは孫子の代まで及ぶであろう。私には、安易に市場主義に幻想を抱くことは、社会を良くしていく努力の放棄であって、時間の流れに身を任せる単なる丸投げとしか見えない。さらには、一山当てようという山師を生む温床にも思える。

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