花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

市場主義の陥穽 (前編)

2006-05-06 23:38:03 | Weblog
 ソースティン・ヴェブレンは20世紀初めのアメリカの経済学者である。彼は前世紀の初頭において、いち早く市場経済の問題点に気づいていた。それまでの経済学理論が、市場均衡の安定性を前提としていたのに対して、ヴェブレンは需要と供給を調節する市場の働きに懐疑の眼を向けていた。
 仮に、ある需要を見越して投資をし、雇用を拡大したとする。投資を決定してからそのインフラが実際に整うまでには、決して短くは無い時間を要する。その間に、当初目論んでいた需要自体が変わっている可能性があり、そうなると、需要に対して最適では無いインフラが、企業の固定的な資産となって残っていく。例えば、リゾート需要を見込んで大規模なリゾート開発をした場合、用地の確保からホテルやゴルフ場、その他の遊興施設などの稼動まで数年は掛かる。その間に経済が後退し、人々の余暇活動に対するニーズが冷え込めば、せっかく作った諸施設は投資に見合わないお荷物となってしまう。
 ヴェブレンが私たちに教えるところは、「投資を決定する時点では、投資が実現した時点の需要や企業を取り巻く経済的要素を完全に把握することが出来ない」、ということである。需要と供給の調節機能や経済活動の運営に関して、市場原理は相対的に効率の良い原理ではあっても、それは絶対の原理ではないということである。需要と供給のバランスがとれるまでにはタイムラグがあり、そのタイムラグは投資効率を下げる可能性を秘め、投資の結果、生産設備が需要と釣り合わないものであった時、それはその後の企業活動の足枷となることを、ヴェブレンは見抜いていた。
 確かに、人間の営利心をたくみに調節し、活力を失わず経済活動を運営していく原理として、市場原理は力を発揮している。20世紀の実験により、計画経済より市場経済が優れていることは実証済みである。ただ、ヴェブレンが指摘したように、企業は過ちを犯す可能性を潜在的に持っており、神の見えざる手から滑り落ちているものも、少なからず存在する。そこで、次回は、神の手ですくえなかったもの、あるいは、市場の調節弁からこぼれ落ちたもの、そういった市場原理の鬼子たちのもたらす影響を考えてみたい。

「水のような」と「水のように」

2006-05-01 22:39:08 | Weblog
 よく美味しいお酒を表現する時、「水のような」という言い方をする。例えば、久保田の万寿であったり、越乃影虎であったり、十四代であったり、そういったお酒は「水のような」と形容されることが多い。
 しかし、「水のような」と言いながらも、実際「水のように」飲むことは出来ないのではないだろうか。先にあげたお酒は値段が張るので、当然「ぐびぐび」と飲むのはちょっと勇気が要る。そんなしみったれたことはさて置くとしても、どうしも味わいながら飲もうと思うので、そこには幾許かの緊張感が生じてしまう。もっとも、杯が重なるに連れてやや気持ちもルーズになり、ピッチがあがり「くっくっ」と飲むことはあるかもしれないが、水を飲むように喉を鳴らしながら「ぐびぐび」、あるいは「ごくごく」と飲むまでには至らない。ましてや、「水のように」毎日飲む代物ではない。
 では、いったい「水のように」飲めるお酒とはどんなものだろうか? この問いに対して、私はいくつかのお酒がすぐさま頭に浮かぶ。例えば、佐賀の東長(あずまちょう)であり、同じく佐賀の東一(あずまいち)である。これらのお酒は、「フルーティー」とか「ワインのような」といった味ではないが、しっかりとお米の味がするお酒である。ありきたりの、ただただ真っ当なお酒である。ちょいと甘口だが(特に東長)、口蓋にベタっとした感じが残る訳でもなく、変な癖もない。冷やでも、温燗でも、熱燗でもいける。思うに、お酒を飲むという意識すらなく(もちろん緊張感もなく)飲める酒と言えるだろう。ガラスのコップに「どぼどぼ」と注いで、何の気なしに「ごくっ」と飲むのが自然であり、言わばお茶代わり、水代わりに毎日飲んでも、ちっとも飽きないと言っても言い過ぎではない。
 コップに注がれた東長が当然のように日々の夕餉の卓に置かれ、ごはんを食べながら、それこそ「水のように」飲むことが出来る佐賀の人たちを、とても羨ましく思う。