花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

「水のような」と「水のように」

2006-05-01 22:39:08 | Weblog
 よく美味しいお酒を表現する時、「水のような」という言い方をする。例えば、久保田の万寿であったり、越乃影虎であったり、十四代であったり、そういったお酒は「水のような」と形容されることが多い。
 しかし、「水のような」と言いながらも、実際「水のように」飲むことは出来ないのではないだろうか。先にあげたお酒は値段が張るので、当然「ぐびぐび」と飲むのはちょっと勇気が要る。そんなしみったれたことはさて置くとしても、どうしも味わいながら飲もうと思うので、そこには幾許かの緊張感が生じてしまう。もっとも、杯が重なるに連れてやや気持ちもルーズになり、ピッチがあがり「くっくっ」と飲むことはあるかもしれないが、水を飲むように喉を鳴らしながら「ぐびぐび」、あるいは「ごくごく」と飲むまでには至らない。ましてや、「水のように」毎日飲む代物ではない。
 では、いったい「水のように」飲めるお酒とはどんなものだろうか? この問いに対して、私はいくつかのお酒がすぐさま頭に浮かぶ。例えば、佐賀の東長(あずまちょう)であり、同じく佐賀の東一(あずまいち)である。これらのお酒は、「フルーティー」とか「ワインのような」といった味ではないが、しっかりとお米の味がするお酒である。ありきたりの、ただただ真っ当なお酒である。ちょいと甘口だが(特に東長)、口蓋にベタっとした感じが残る訳でもなく、変な癖もない。冷やでも、温燗でも、熱燗でもいける。思うに、お酒を飲むという意識すらなく(もちろん緊張感もなく)飲める酒と言えるだろう。ガラスのコップに「どぼどぼ」と注いで、何の気なしに「ごくっ」と飲むのが自然であり、言わばお茶代わり、水代わりに毎日飲んでも、ちっとも飽きないと言っても言い過ぎではない。
 コップに注がれた東長が当然のように日々の夕餉の卓に置かれ、ごはんを食べながら、それこそ「水のように」飲むことが出来る佐賀の人たちを、とても羨ましく思う。