1920年6月14日は社会科学者・マックス・ヴェーバーの命日です。今日でちょうど没後100年になります。ドイツ、ハイデルベルクにあるお墓にはゲーテの「ファウスト」にある、「移ろいゆくものは、永遠なるものの比喩に過ぎない」の言葉が刻まれているそうです。
「移ろいゆくものは、永遠なるものの比喩に過ぎない」とはつまり、命に限りある私たちのうたかたの人生にも、永遠なる神の意思が表れている、そういうことを言っているのでしょうか。だからこそ、神を信じれば最終的には神の国に導かれる、の意へもつながっていきます。
ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の著者であることに引き寄せて、この墓碑銘の意味を見てみたいと思います。プロテスタンティズムの根幹をなす予定説は、救済されるかどうかはあらかじめ決まっており、善行の積み重ねで得られるものではないという考えです。自分の人生は永遠なる神の意思の影だったと墓に刻んだということは、自分は救済される人間だ、神の栄光を増すための存在だった、と信じていたように思えます。「永遠なるものの比喩」と刻んだことは、神に選ばれたことへの確証のなせる業だったのではないでしょうか。
ところで、100年の歳月を経た今、学者ヴェーバーの墓碑銘が私たちに与える意味をキリスト教の立場から離れて考えるとどうでしょうか。先ず、永遠なるものを神ではなく真理と読み替えてみます。学問の上で諸説が現れ、あるものは認められ、あるものは消えて忘れ去られていきますが、真理を希求する精神、それ自体は永遠でかけがえのないものであると捉えた時、学問の永遠性が何に基づくかが見えてきます。
さて、ここでまたヴェーバーに戻ります。彼の数ある業績のひとつに無くなる1年前に行った「職業としての学問」と題した講演があります。この講演において、Beruf=天職として学問に仕える者に不可欠な要素として情熱を挙げています。彼の言葉を引くと、「なにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中するといった心構え」、と言っています。情熱を持って真理を希求する学問人としても、恥じない自負があったのではないかと考えてみたくなります。
そんなこんなを考えつつ、今宵、マックス・ヴェーバーに献杯。
「移ろいゆくものは、永遠なるものの比喩に過ぎない」とはつまり、命に限りある私たちのうたかたの人生にも、永遠なる神の意思が表れている、そういうことを言っているのでしょうか。だからこそ、神を信じれば最終的には神の国に導かれる、の意へもつながっていきます。
ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の著者であることに引き寄せて、この墓碑銘の意味を見てみたいと思います。プロテスタンティズムの根幹をなす予定説は、救済されるかどうかはあらかじめ決まっており、善行の積み重ねで得られるものではないという考えです。自分の人生は永遠なる神の意思の影だったと墓に刻んだということは、自分は救済される人間だ、神の栄光を増すための存在だった、と信じていたように思えます。「永遠なるものの比喩」と刻んだことは、神に選ばれたことへの確証のなせる業だったのではないでしょうか。
ところで、100年の歳月を経た今、学者ヴェーバーの墓碑銘が私たちに与える意味をキリスト教の立場から離れて考えるとどうでしょうか。先ず、永遠なるものを神ではなく真理と読み替えてみます。学問の上で諸説が現れ、あるものは認められ、あるものは消えて忘れ去られていきますが、真理を希求する精神、それ自体は永遠でかけがえのないものであると捉えた時、学問の永遠性が何に基づくかが見えてきます。
さて、ここでまたヴェーバーに戻ります。彼の数ある業績のひとつに無くなる1年前に行った「職業としての学問」と題した講演があります。この講演において、Beruf=天職として学問に仕える者に不可欠な要素として情熱を挙げています。彼の言葉を引くと、「なにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中するといった心構え」、と言っています。情熱を持って真理を希求する学問人としても、恥じない自負があったのではないかと考えてみたくなります。
そんなこんなを考えつつ、今宵、マックス・ヴェーバーに献杯。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます