花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

個人における態度決定

2024-08-03 09:24:00 | Weblog
 かつてあった「リベラル・コミュニタリアン論争」のことを不勉強のためよく知りませんでしたが、最近どんな論争だったのかちょっと気になり、ネットをチラ見してみました。極々大雑把ながら、リベラルとコミュニタリアン、それぞれの言い分をチラ見した内容を基に比較してみました。

■両者の言い分
・リベラル:個人の自由と権利を最優先する。国家は自由と権利を保障する制度である。個人は自由かつ自律的に合理的判断を行う。

・コミュニタリアン:一見個人の自由かつ自律的な合理的判断と見えるものも、自分が属する共同体や社会の価値観や思考の枠組みの影響を受けている。だから共同体や社会の善をないがしろにして、個人の自由と権利の伸長を過度に追求すれば、自分たちの足元を掘り崩すことになりかねない。

 さて、ネットでほんの表面をなでただけなので論争自体にコメントを差し挟もうとは思いません。ここからはチラ見した後の感想です。

 「個人の自由や権利が大切」と言われれば、「そうだよなぁ」と思います。そして、「社会的な善が大事」と言われれば、これまた「そりゃそうだ」と思います。私たちが政治的判断や何らかの態度決定を行う際、自分の頭で考え、その考えに責任を持つことを求められています。他人からの干渉を排除して、自律的で合理的に判断を下すことが当然視されます。一方、何も無いところからいきなり考えが浮かぶ訳ではなく、私たちの脳味噌は経験や環境、他人との関係性などから影響を受けながら形作られます。そのことからも、リベラル、コミュニタリアン、双方が重要視するものはともに不可欠であり、どちらの言い分にも頷けます。

 ここでふと思うのは、「個人」と「社会的なもの」は全く別のものとして対立するのではなく、同時共存的に層をなしているのではないかと。思考を紡ぐ主体には、自分自身が自由に考えていると意識している表層、共同体や社会の常識、通念、エートスなどが溶け込んで、知らず知らずのうちに考えを方向付けている中層、そして丸山眞男さんが言うバッソ・オスティナート(通奏低音)のように、私たちが生まれるずっと前から続いている歴史的なものによって成り立つ社会認識や状況への反応のパターンである深層、この3つの層を持っているのかもしれません。

 これら3つの層が、同一主体の中で、強弱や濃淡を変えながら、あるいはお互いに影響し、されながら、ものごとに対する判断や態度決定を形成していると考えてみたくなりました。もしこの考えに立つならば、「自分を大切にする」ということは、私と社会と歴史を大切にすることになります(注)。エゴイズムに対する防波堤になりそうでもあり、私たちと社会との関りを考えるうえで、ほかにも広がりを示してくれそうでもあります。

(注)
 私と社会と歴史を大切にすると言っても、無批判的金科玉条的に大切にする訳ではなく、大切にするからこそより良いものにしていこうとするのは当然であります。

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