花・伊太利

日々の生活に関する備忘録です。

‘on demand’化と象徴の貧困

2006-09-25 21:32:13 | Weblog
 先日のブログで引用した『「安楽」への全体主義』の続きの文章はこうなっている。「それに対して、ただ一つの効用のためにだけ使われる場合の物は、平ぺったい単一の相貌とたった一つの性質だけを私たちに示すに過ぎない。それは一切の包含性を欠いている。「使用価値」の極限の形が恐らくそこにあり、私たちはそれに対しては使いそして捨てる他ない。それと相互的な交渉をする余地はもはやない。完成された製品によって営まれる生活圏が経験を生まないのはその事に由来する。そうして、そういう単一の効用をもたらす「物」を手に入れた時、その事が私たちにもたらす感情は、或る種の「享受」の楽しみである。(中略)しかし、次々と使い捨てていく単一効用を「享受」する楽しみは、そういう自然な接続の内にあるものではない。事の性質から見て当然のことであるが、それはただ一回的な「享受」に過ぎない。次の瞬間にはまた別の一回的な「享受」がやって来るだけである。時間は分断されて何の継続も何の結実ももたらさない。かくて苦しみとも喜びとも結
合しない享受の楽しみは、空しい同一感情の分断された反復にしか過ぎない。その分断された反復が、激しく繰り返されればされる程空しさも又激しい空しさとなってますます平静な落着きから遠ざかっていく。」
 さて、随分長く引用してしまったが、最近この文章に似た文章を読んだので、懲りずにそちらも抜書きしてみたい。「工業大国の都市部に住む人々の大多数は、ますます耐え難くなる一方の状態で暮らしています。それらの人々の果たす仕事はますますやりがいのない、働く人にとって何の意味のないものとなっています。それは意義とはかけ離れたもので、彼らの仕事の目的はたいていは極めて俗悪なものです。労働によって得る収入で彼らは消費という行動を取り入れるのですが、それらの行動はますます規格統一されたもので、消費されたものは消費者にほとんど何の存在感ももたらさないため、そこから生じるのはつねに深まるばかりの底なしの欲求不満であり、その結果つねにもっと消費に熱中することになるのです。つまり募る一方の欲求不満は失墜そのものに加速度的に向かっている傾斜のようなもので、問題はしたがって、いつどこでそれが止まるのかを知ることなのです。「自分自身の自己生産」とは程遠い状態です。」 これは、ベルナール・スティグレール著「象徴の貧困」(新評論刊)からの引用である。スティグレールは、『「安楽」への全体主義』で言うところの成就の「喜び」から遠ざけられる現在の状況を、「象徴の貧困」と呼んでいる。ここでの象徴とは、私たちが作り出す「意味」のことを指しており、私たちは与えられたものを消費するだけの存在に過ぎないと危ぶみ、そんな時代状況に対して警鐘を鳴らしている。
 二人とも、思想的バックボーンが全然異なるにも関わらず、同じようなことを危惧し、文章を著している。このような発見をすることは、読書の楽しみのひとつであり、決して‘on demand’で得られるものではない。

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