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『数学者たちの黒板』

数学者は数学が何かを知っているが、 彼らにとって、それを説明 するのは難しい。 私が数学について見聞したことを挙げてみよう。 数字は、演繹法と抽象化を用い、古い知識から新しい知識を創造す る技術だ 形式的なパターンの理論」 「数学は数の学問」 「自然数や、 平面と立体の幾何学を含む分野」 「必要な結論を導き出す科学」 「記 論理学」 「構造に関する学問」 「時を超えた宇宙の構造を説明する 「論理的なアイデアの詩」 「公理の集合から、 命題あるいはそ れらの否定の集合までに至る、 演繹的な経路を探す手段」 「目に見え ない、想像の中にしか存在しないものに関する科学」 「正確な概念装 実在のものであるかのように扱うことができるアイデアの学問」 「明示的な構文規則に従い、一次言語の無意味な記号を操作すること」 「理想化された対象の性質とその相互作用を調べる分野」 「目的のた めに発明された概念と規則を用いた、巧みな演算の科学」 「何がおそらく正しいのかに関する予想、 問い 知的な推測、発見的な議論」 「多大な労力の上に作られた直観」 「我々の文明によって構築された、 貫性のある、 最大の人工物」 「完成に向かうにつれて、あらゆる科学 がそうなるもの」 「理想的な現実」 「たかだか形式的なゲームにすぎ 「ないもの」 「音楽家が演奏をするように、 数学者がすること」。
数学のことを、「何千年にもわたって書き綴られてきた物語で、常 に加筆され、決して完成することのないもの」と捉える数学者もいる。 これほど古い『経典』はないだろう。数学は、人類が自身について書き残している記録であり、歴史以上の長さを持つ。歴史には、修正さ れたり、改ざんされたり、消されたり、失われる可能性がある。でも、 数学はずっと変わらない。 A-B-Cは、ピタゴラスが彼の名前をつ ける以前から真であり、太陽がなくなっても、そのことを考える人 が誰もいなくなっても真だ。そのことを考えるかもしれない、いか なる地球外生命にとっても真であり、彼らがそれについて考えるか どうかに関係なく、真だ。数学を変えることはできない。上下左右、 空と水平線のある世界がある限り、それは侵すことのできない存在 であり、いかなるものよりも真だ。
バートランド・ラッセルは数学のことを、「私たちが何について話 しているのかも、私たちの言っていることが正しいのかどうかも、 「分からない学問」と言った。 他の科学者の言葉についても言及しよう。 ダーウィンは、「数学者とは、真っ暗な部屋で、 そこにいない黒猫を 「探している盲人だ」と言った。 ルイス・キャロルは、 四則演算(足し 算、引き算、掛け算、割り算) を、 打算、 注意散漫、醜怪化、 あざけりと 書いている。 状況を複雑にしているのは、 数学を、 特に高等な範囲で、 理解するのが難しいことだ。 それは、単純な共通言語 (数を数える ことは誰にでもできる)として始まったが、 専門化された方言に変わり、あまりにも難解になったため、世界で数人しか話せなくなってしまったのだ。
これらはいずれも、私自身の考えではなく、常套句のようなものだが、 そうだとしても私は数学に惹かれる。数学者たちは、確かな世界の 中で生きている。 他の分野の科学者も含め、残りの人が住んでいる 世界において、確実性とは、「自分の知る限り、ほとんどの場合は、こ のような結果が起こること」を示す。証明に対するユークリッドの 主張のお陰で、数学では、分かっている範囲内で、 毎回、何が起こる かが分かる。
数学は、謎を説明するために私たちが持っている、最も明示的な 言語だ。 物理学の言語としての数学は、 実際の謎 (自然界で、はっき りとは分からないが、 正しいと推測し、その後、正しいと確認される謎) 架空の謎 (数学者の心の中にのみ存在するもの) を記述するものだ。
では、これらの抽象的な謎はどこに存在するのだろう? その縄 張りはどこか? 人の心の中に住んでいると言う人もいるだろう。
つまり、数学的対象 (数字や、 方程式、 公式など、 数学の用語集や装置 全体を意味する) と呼ばれるものを思いつき、それらを存在せしめ ているのは、人の心であり、 それらの振る舞いは、私たちの心の構造 を反映したもの、ということだ。 私たちは、 自分の持っているツー ルと整合する形で、世界を検証するように導かれている (例えば、 私 たちに色が見えるのは、 表面からの光の反射をそう捉えるように脳 が構造化されているからだ)。 これは、確かな情報に基づいてはいる が、少数派の見方であり、神経科学者や、 根本原理に偏った一定数の 哲学者や数学者が、 主に持つ考えだ。 (ほんの少しかもしれないが) より広く支持されているのは、 数学がどこに存在するのかは、誰も 知らない、という見方だ。 どこかを指さして、「数学はそこから来た」、 と言える数学者や自然主義者はいない。 数学は、 私たちの内面以外 のどこかに存在し、 創造されるものではなく発見されるものだとい う信念は、プラトンの信念にちなんで、 プラトン主義と呼ばれる。 彼は、 時空を超えた、 完璧な形をとる領域が存在し、 地球上に存在するも のは、その不完全なコピーにすぎないと信じた。 定義上、時空を超え た領域は常に存在してきたもので、 時間と空間の外側にあり、いか なる神が創造したものでもない。 第3の見方は、 数学は神の心の中 に宿るというもので、歴史的にも現在においても、少数ではあるが 無視できない数の数学者がそう考えている。 集合論の創始者である ゲオルク・カントールは、「神の持つ最上の完璧さは、無限集合を創造する力にあり、それを可能たらしめるのは、その計り知れない高 「潔さだ」と述べている。 そしてシュリニヴァーサ・ラマヌジャンは、「神 の考えを表すものでなければ、 方程式は私にとって意味をなさない」 と言った。
芸術家のように、数学者はしばしば、 自分の知識の縁、 すなわち、 薄明かりしか差し込まない領域で研究する。 取り組む価値のある問題に到達することは、時に、内面の冒険であり、多くの努力を必要とし、 多くの領域を包括する。 すべての冒険が意識的なものではない。 古 くて、由緒ある問題に向き合うのは、 最後の砦に立ち、(それを試み た他の多くの人たちの報告によると)不可能に見える状況で、 攻撃 の計画を立てるのと少し似ている。
ワインの写真は、 複雑な数学的推論の領域から厳選されたものの 集まりだ。 人間の思考の最前線、すなわち、 まだ検討中で、 現在進行 形の問題を表した写真もある。 説明的な写真や、物語的な写真、推測 を含んだ写真もある。 数式や描画は、あたかもそれ自身が生きてい るかのように揺れている。 若い頃に LSDを服用し、 小さな木片に書 かれた、かろうじて読める文字を見て、「これが理解できれば、 すべ てが理解できるだろう」と考えたときの幻覚を思い出す。
これらの図を描き、公式や説明を書いた人々は、 すべてを理解し ているわけではないとしても、 新しい知識を追究している。 追究の 多くは、数学を拡張する以外に実用上の目的はないかもしれない。 とはいえ、控えめに言っても、彼らが研究していることは、これまで に誰も知らなかった何かである可能性がある。
黒板に書かれたものは、記号であり、これらの記号に残された指 針を辿れば、そのときの思考の結論に戻ることができるし、一連の 思考を再構築することもできる。 黒板に書かれた文書は、数学とい う普遍的な言語以外では互いに話すことができない人々によって、 世界中のどこででも再構築することができる。 黒板に書かれたもの を消してしまっても、それらは、 数学という大薯の中の項目として、 依然として存在するだろう。
これらの写真は、 何年にもわたる研鑽と思考を記録したものだ。 肖像画がそうであるように、そこには、心の状態や性格、内面の働き に関する何かが体現されている。 飾り気のないこれらの写真を見ると、20世紀初頭にディスファーマーがアーカンソー州のアトリエで撮 影した、農家と農作業員、 その家族の写真を思い起こす。 ワインの撮 影した、 これらの図表や方程式は、 ディスファーマーの写真のように、 あなたを見つめ返す。 まるで撮影されたものの本質を明らかにする かのように、余分なものを取り除いた質を帯びている。 あたかもワ インがダンスの流れを辿ったかのように、そこには、思考が行われた、 活気に満ちた様子が描かれている。 彼女は目を閉じて、1行1行を追っ ているようだ。 写真には、文書のような固定化された感覚があるが、 その文書を書いた手の動きも感じ取ることができる。 それらはすべ て、数学者が、 歴史的に、 美と関わりを持ってきたことを象徴している。 ある生き物と、そのホームグラウンドで遭遇したような臨場感もあ る。 あまりにも魅力的で、 ワインが最初に見たときに息を呑むほど だったであろうと思える黒板の写真もある。 彼女の関心は、 形式的 な外観だけでなく、それぞれの黒板が示唆する意味の層にも及んで いる。 それらの第一印象には、 はっきりした意味があるが、 消去され た跡や、描き直されたもの、推論が進展してゆく過程には、 さらなる 意味があり、時間の経過とともに明らかになってゆくかのようだ。
全体として、これらの写真はある種の証言であり、 人の思考がよ り高い能力を持つことを信じた記録だ。 ほとんどの抽象的な数学 がそうであるように、たとえ明確な形で役に立たなくても、そのよ らな推論的な思考には価値がある。 時に詩人が、 自分の文章を、 散 文よりも高尚なものと見なしたように、 純粋数学という呼び名には、 19世紀の俗物性の意味合いが (おそらく意図的に)含まれる。 そう は言っても、純粋な思考と実践的な思考は区別しなければならない。 それは、例えば、詩と簡単な報告書の間に存在する区別のようなも ので、プラトンも同様の区別をしたであろう。 数学が芸術なのか科 学なのか、あるいはその両方なのかを判断するのは難しい。
数学者のアラン・コンヌは、 数学において 「存在する」 という語は、 矛盾の対象とならないことを意味する、 と言った。 これらのエレガ ントな写真には、 人の厳密な思考というキャンバスに描かれた絵が、 詳細に保存されている。

 ダンボール なら レーザーには引っかかりにくい 武器がどんどん原始化していく

 せーらがなんか一般化してきている いい意味で! #早川聖来

 奥さんへの買い物依頼
ししゃもフライ     299
握り寿司   499
お茶       128
ジンジャエール     148
はごろも煮  328
レンジでごちそう3つ       998
玉子がゆ   98
ネーブルオレンジ7個       498
テリヤキチキン     358
ざるラーメン       198
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月の光が部屋に入り込んでる

月の光が部屋に入り込んでる

 家族制度崩壊への道のりをつけられるか

第二次世界大戦後に欧米諸国で確立された社会保障制度は、「男性稼ぎ主モデル」に基づいたものであり、その後 の福祉国家の変容は、そのモデルからの離脱の歴史だった。設立当初、社会保障制度は、拠出制の社会保険と税を財 源とする公的扶助という、二つの異なるプログラムから構成されていた。その後一九六〇年代に入り、家族形態の変 化や女性の方率の上昇が進むと、既存の二層構造の制度では対応しきれない 「新しいリスク」が注目を集になった。女性や子どもの経済的な困窮が深刻な問題として受け止められ、家族手当や児童手当といった、それまで重視されてこなかった所得保障プログラムの整備が急がれた。

一九七〇年代以降の経済状況の悪化や、新自由主義的なイデオロギーの台頭によって、福祉国家の再編が進められ る中で、各国の政策的な対応は政治的な要因に大きく左右され、多岐にわたった。だが、大きな潮流としては、家族 政策への関心が高まり、その一環として子どものいる家庭への経済支援が重点化されていく動きが見られた。

こうした状況の下で、本稿で取り上げた事例の中では、スウェーデンの社会保障制度が、一九九〇年代までに最も 「男性稼ぎ主モデル」から離れ、「共働き家族モデル」へと移行した。 それに対し、フランスとドイツでは、普遍性が 高い家族・児童手当が導入され、子どもを持つ家庭への支援は進んだが、一九九〇年代までは、女性の完全な労働参 加を促すような政策への転換は行われず、「男性稼ぎ主モデル」が部分的に修正されるにとどまった。こうした特徴 は、脱商品化に加えて脱家族化という指標を用いたイエスタ・ エスピン=アンデルセンの福祉レジーム論においても 指摘されている(Esping-Andersen 2000)。
一方、エスピン=アンデルセンが自由主義レジームとして括っているイギリスとアメリカは、一九九〇年代に福祉 改革が進み、母子家庭など特定のターゲットを持つプログラムの受給資格が厳格化され、ワークフェアへの動きが見られたという点では類似している。しかしアメリカでは家族・児童手当が存在しないのに対し、財政規模が小さいとはいえ、イギリスでは、子どものいる家庭への経済支援が重視されており、その点において両国は大きく異なっている。

「男性稼ぎ主モデル」が変容を遂げて行き着く先として展望されているのは、家族を単位とせず、 ジェンダーによる差異を生み出さない個人モデルである。ダイアン・セインズベリーが提唱する稼得とケアの個人モデルでは、ジェ ンダーに関わりなく稼得とケアの提供者となり、そのことが社会権として認められ、個人の主体性が尊重されるような政策が必要であるとされている (Sainsbury 1999: Chapter 8; 田中 二〇一七:四三頁)。最も先進的なスウェーデンにおいても、労働市場への女性の参加は進められてきたが、無償のケア労働に対する責任はいまだ女性が主に担っていることが指摘されている (Lewis 1992: 169; 深澤 一九九四:一四頁)。ジェンダー中立的な形で稼得とケアの提供を可能にするようなシステムを組み込んだ社会保障制度が確立されてはじめて、福祉国家は「男性稼ぎ主モデル」からの離脱 を完了するのである。

『図書館情報学事典』
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