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vFlatによって再燃

ハイデガーのこと

 ウィトゲンシュタインが言いたいのは、こういう言語の本質的特徴から考えると、 ハイデガー哲学は、多くの無意味な問いから成りたっているということだと思いま す。「存在」という語を考えてみましょう。 この世界は、「存在」に満ち溢れています。 「存在」以外には、それこそ存在していません。それなのに、「存在とは何か」という問いをたてるのは、明らかにおかしいのです。 「存在」という語の否定の状態がどこにもないのに、「存在とは何か」と問うてみても、最初から答がでないのは、わかりきっているのです。この場合の「存在」には、意味がないのです。 存在に対してただ 驚くことしか、われわれにはできないのです。

べつの言い方をすると、この「存在」という語は、絶対的な領域を指しています。 この世界のありとあらゆるものは、 問答無用で「存在している」のですから、「存在」 は、われわれには、手がつけられない 絶対的領域」なのです。議論のしようがない というわけです。 「存在している、以上」といった感じでしょうか。 それに対して言 語は、相対的道具です。いまも説明したように、かならず比較や否定が、語の裏面にくっついています。 「山」と言えば、 「山でないもの」、 たとえば、 「川」「丘」「平野」などなど、いくらでもその背景には存在しています。だからこそ、「山」という語は、 意味をもつのです。ところが、「存在」は、そうではない。その反対語は、「無」で しょうか。しかし、この世界のどこをさがしても、「無」はない。そうなると、「存在」という語を、この世界では使えないことになってしまいます。世界の外側に立た なければ、「存在と無」という相対的対立は、意味をもたないからです。

 ちょうど1年前にスキャナを捨てた そして vFlatによって再燃した 本は捨てられない
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