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私は世界だ

私は世界だ

〈私〉というのは、とてもやっかいなものです。 朝起きても〈私〉、一日中ずっと 〈私〉、そして夜意識を失うまで、とことん〈私〉。ここからは、逃れようがない。た しかに、〈私〉以外の人は、たくさんいます。 これは、誰でも(といっても、この 「誰でも」は、〈私〉の推測ですが)わかります。ただ、〈私〉以外のたくさんの人は、 この〈私〉からしか見えません。 〈私〉以外の人たちに、〈私〉は、なることはできま せん。だって、この世界に 〈私〉は、一人だけだからです。 このことは、よくよく考えると、とても恐ろしいことです。

どういうところが恐ろしいかというと、他の人間、他の動物、さまざまな無限の可 能性がある(ように〈私〉からは見える)のに、それらの可能性を〈私〉が試すこと はできないということです。 時代も地域も人種も生まれる家庭も、自分では決められ ない(この世界は、〈私〉だけなのに、何も決められない)。そして、いったん〈私〉 になると、それ以外の可能性は、すべて消えてしまう。他人(やほかの動植鉱物) どんな気持ちで生きているのか、自分とは異なるジェンダーである女性(男性)でい るとは、どのようなことなのか、ほんの少しも経験できない。可能性は、無数にある のに、それにまったく関与せずに一生を〈私〉で終えるのです。とてつもない世界で す。何とむなしいことでしょう。

ウィトゲンシュタインが言うように、 「主体〔私〕は、世界の一部ではない。そう ではなく世界の境界」 (「論理哲学論考」 5.632) なのです。世界をつくりあげている のは、〈私〉という領域なのです。世界そのものが、〈私〉だから、この〈私〉の外側 には、なにもない。無世界と言っていいでしょう。

なぜか無印でまな板を2枚買った なんか使えそうな予感
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