未唯への手紙
未唯への手紙
スンナ派とシーア派の対立の21世紀
『帝国の復興と啓蒙の未来』より
イスラーム史においてシーア派の全盛期は10~11世紀にかけてであった。10世紀後半にはエジプトを本拠とするシーア派イスマーイール派のファーティマ朝がエルサレムやマッカ、マディーナの両聖地を支配下におさめ、またイランに生まれた12イマーム派のブワイフ朝が945年にバグダードに入場し、アッバース朝カリフから大アミールに任命され政治の実権を握った。
スンナ派が勢力を回復するのは1055年にセルジューク朝がバグダードを取り戻し1062年にブワイフ朝を滅ぼしてからであり、ファーティマ朝も12世紀には弱体化し1171年にはアイューブ朝を建てたサラディンによって滅ぼされる。
以後、1501年にタブリーズを首都に建国したサファヴィー朝が12イマーム派を国教に定めて以降、イランは住民の大多数がシーア派に改宗し、従来のレバノンや南部のシーア派の聖地ナジャフ、カルバラーに加え、イランのコム、マシュハドがシーア派の学問の中心になる。16世紀には中東のオスマン帝国、サファヴィー朝イラン帝国、インドのムガール帝国が鼎立することになり、現在のスンナ派とシーア派の政治、人口布置はほぼとの時代の状況を踏襲している。サファヴィー朝の創設者イスマーイール1世(1524年没)とオスマン朝のセリム1世が戦った1514年のチャルディランの戦いでセリム1世(1520年没)が勝利したことで、バグダードとシーア派の聖地ナジャフ、カルバラーはオスマン帝国の支配地となったが、オスマン帝国の滅亡後はイラク領となった。つまりシーア派が人口の多数派を占め政治的実権を握るのはイランのみであり、その他の地域ではスンナ派が多数派であり、シーア派は抑圧された少数派として存在していたのである。
既に述べたように20世紀のイスラーム世界の最大の対立軸は、イスラーム世界全域で抗争を繰り広げられるワッハーブ派を中心とするサラフィー主義者とスンナ派伝統主義者との間、スンナ派内部の内部対立にあった。ところが21世紀になると対立軸はスンナ派内部対立からスンナ派とシーア派の宗派閥対立にシフトすることになる。
シーア派にとっての最大の政治的転機は、思いもかけないところからやってきた。2003年、アメリカが指導する有志連合軍が大量破壊兵器の隠匿を口実にイラクに侵攻し、イラン・イラク戦争以来のイランの宿敵サダム・フセイン政権を崩壊させたのである。
バアス党(アラブ社会主義)のサダム・フセイン(元イラク大統領2006年没)は元来世俗主義者でありイスラームの教義には無関心であったが自らと同じエスニックなスンナ派を優遇しており、特にイラン革命の影響を受け南部のシーア派住民の間で反政府運動が高まり、湾岸戦争で多国籍軍に呼応して南部のシーア派が蜂起した後は、スンナ派色を強めていた。それゆえサダム・フセイン政権を倒したアメリカが2004年に主権を連合国暫定占領統治局からイラクに移譲し傀儡暫定政権を樹立した時、サダム・フセインとバアス党の独裁政権を追放したアメリカが頼れる政治勢力は、サダム・フセイン政権時代に海外に亡命し反体制運動を行っていたダウワ党や、イラク・イスラーム革命最高評議会など、イランの息がかかったシーア派の宗教政党の政治家しかいなかったのである。こうして漁夫の利を得たイラクのシーア派は、労せずして政権と、国際社会からの膨大な復興援助とを手に入れることになった。
イラクでシーア派が政権を握ったことは決定的な意味を持つ。シーア派が住民の多数派を占めるのみならず、政権を握る国家がイラン以外に生まれたのは、領域国民国家システムの誕生以来初めてであるばかりでなく、アッバース朝の首都であり、イスラーム世界の中核都市の一つバグダードがシーア派の政治的支配の下に置かれたのは、サーマーン朝がセルジューク朝に追われて以来であった。またイランのコムだけでなく、シーア派の聖地であり、シーア派イスラーム学の中心地でもあるイラクのナジャフとカルバラーがシーア派の支配に入ったことは、政治的弾圧を恐れることなく、シーア派がその教義を実践し発展させる自由を得たことを意味するからである。
一方、イラクの隣国シリアは、同じバアス党でありながら、サダム・フセイン元大統領とハーフィズ・アサド前大統領(2000年没)の確執から、イラン・イラク戦争ではイランを支援した。「異端」アラウィー(ヌサィリ-)派を出自とするシリアのアサド政権は、イラン支持の見返りに、イランの12イマーム派からアラウィー派が12イマーム派に属するとの認証を取り付けることができた。2011年、「アラブの春」がシリアに波及すると軍事的に劣勢に立だされたバッシャール・アサド政権はレバノンのヒズブッラー、イランの革命防衛隊への依存を深めていった。また「アラブの春」の余波で2011年にバーレーンでシーア派住民が反体制デモを起こすと、危機感に駆られたGCCは合同軍「半島の盾」を派遣してデモを力づくで鎮圧した。
イラクでは、歴代シーア派政権はスンナ派を権力から排除しただけでなく、アメリカにならったテロ対策の口実の下に、サダム・フセイン政権のシーア派弾圧への報復としてスンナ派住民を不当に拘束、暴行、殺害し、土地、家屋、財産を奪うなどの悪政を行っていた。その結果としてスンナ派の不満を背景に、2014年にはサラフィー・ジハード主義組織「イラクのアルカーイダ」から分派した「イラクとシリアのイスラーム国」がイラク第二の都市モスルを攻略し、シリアとイラクの国境の大半を支配下に置くとサイクス・ピコ協定を無効化し「イスラーム国」と改称し、指導者アブー・バクル・バグダとアィーをカリフに推戴し、カリフ制の復活を宣言することになった。「イスラーム国」の攻勢に対し為す術のないイラク政府は欧米に軍事財政支援を求めると同時に、シーア派民兵組織、イラン革命防衛隊への依存を強めることになった。
しかしイランの影響によるシーア派の伸長を決定づけた出来事は、2015年にイラン革命の影響を受けたイエメンのシーア派ザイド派の一派のフーシー派が首都サナアを攻略しハーディー大統領を追放し、ついで南部のアデンまで侵攻したことである。
これに対してサウジアラビアを中心とするスンナ派諸国は有志連合を組織しフーシー派に激しい攻撃を加えると同時に、イランの脅威に対抗してアラブ連盟の合同軍を創設すること決議した。
イラン・イスラム共和国を中心とするシーア派とスンナ派との中東における政治的対立は、シリア、イラク、イエメンが宗派間の武力抗争の戦場となることで決定的になったが、21世紀のスンナ派とシーア派の対立の深刻さはそれが政治の領域にとどまらないことにある。
パキスタンやアフガニスタンのように伝統的にスンナ派とシーア派のコミュニティーが混在し散発的抗争が常態であった地域ではなく、2012年以降、エジプトやインドネシアやナイジェリアのように従来シーア派がほとんど存在しなかった国々でもシーア派(12ィマーム派)の宣教が行われてスンナ派住民がシーア派に改宗することで、シーア派とスンナ派の間に軋蝶が生じ流血の抗争にまで発展しているのが、21世紀のスンナ派とシーア派の宗派閥抗争の特徴である。
伝統的にスンナ派4法学派は、教友、特に正統カリフ初代アブー・バクルと第2代ウマルを誹誇するシーア派を敵視してきたことは疑念の余地はないが、異端の背教者とまでみなすか否かについては学説が分かれており、サラフィー主義者、ワッハーブ派を除き、概して教友の誹誇問題から目を逸らし「寛容」に放置してきた。
ところが、近年になって、アラブ世界のスンナ派伝統派の牙城と目されるエジプトのアズハルまでもがシーア派を異端宣告し、反シーア派キャンペーンを繰り広げるようになり、その動きはマレーシアやインドネシアなど東南アジアのムスリム諸国にまで広がっている。
シーア派は、イマーム不在期にはイマームの代理人としてのイスラーム法学者の指導下に纏まるとの「イスラーム法学者の権威(ウィラーヤ・ファキーフ)」論を国是とするイランーイスラム共和国を中心に教勢を拡大してきた。スンナ派が、スンナ派法学が定める唯一の合法政体であるカリフ制再興の義務を蔑ろにし、シーア派の脅威を言い立てるばかりで、私利私欲に基づき野合するのみの現状から抜け出さない限り、スンナ派とシーア派が歴史的な敵対的共存の均衡関係を取り戻すことは難しいように思われる。
イスラーム史においてシーア派の全盛期は10~11世紀にかけてであった。10世紀後半にはエジプトを本拠とするシーア派イスマーイール派のファーティマ朝がエルサレムやマッカ、マディーナの両聖地を支配下におさめ、またイランに生まれた12イマーム派のブワイフ朝が945年にバグダードに入場し、アッバース朝カリフから大アミールに任命され政治の実権を握った。
スンナ派が勢力を回復するのは1055年にセルジューク朝がバグダードを取り戻し1062年にブワイフ朝を滅ぼしてからであり、ファーティマ朝も12世紀には弱体化し1171年にはアイューブ朝を建てたサラディンによって滅ぼされる。
以後、1501年にタブリーズを首都に建国したサファヴィー朝が12イマーム派を国教に定めて以降、イランは住民の大多数がシーア派に改宗し、従来のレバノンや南部のシーア派の聖地ナジャフ、カルバラーに加え、イランのコム、マシュハドがシーア派の学問の中心になる。16世紀には中東のオスマン帝国、サファヴィー朝イラン帝国、インドのムガール帝国が鼎立することになり、現在のスンナ派とシーア派の政治、人口布置はほぼとの時代の状況を踏襲している。サファヴィー朝の創設者イスマーイール1世(1524年没)とオスマン朝のセリム1世が戦った1514年のチャルディランの戦いでセリム1世(1520年没)が勝利したことで、バグダードとシーア派の聖地ナジャフ、カルバラーはオスマン帝国の支配地となったが、オスマン帝国の滅亡後はイラク領となった。つまりシーア派が人口の多数派を占め政治的実権を握るのはイランのみであり、その他の地域ではスンナ派が多数派であり、シーア派は抑圧された少数派として存在していたのである。
既に述べたように20世紀のイスラーム世界の最大の対立軸は、イスラーム世界全域で抗争を繰り広げられるワッハーブ派を中心とするサラフィー主義者とスンナ派伝統主義者との間、スンナ派内部の内部対立にあった。ところが21世紀になると対立軸はスンナ派内部対立からスンナ派とシーア派の宗派閥対立にシフトすることになる。
シーア派にとっての最大の政治的転機は、思いもかけないところからやってきた。2003年、アメリカが指導する有志連合軍が大量破壊兵器の隠匿を口実にイラクに侵攻し、イラン・イラク戦争以来のイランの宿敵サダム・フセイン政権を崩壊させたのである。
バアス党(アラブ社会主義)のサダム・フセイン(元イラク大統領2006年没)は元来世俗主義者でありイスラームの教義には無関心であったが自らと同じエスニックなスンナ派を優遇しており、特にイラン革命の影響を受け南部のシーア派住民の間で反政府運動が高まり、湾岸戦争で多国籍軍に呼応して南部のシーア派が蜂起した後は、スンナ派色を強めていた。それゆえサダム・フセイン政権を倒したアメリカが2004年に主権を連合国暫定占領統治局からイラクに移譲し傀儡暫定政権を樹立した時、サダム・フセインとバアス党の独裁政権を追放したアメリカが頼れる政治勢力は、サダム・フセイン政権時代に海外に亡命し反体制運動を行っていたダウワ党や、イラク・イスラーム革命最高評議会など、イランの息がかかったシーア派の宗教政党の政治家しかいなかったのである。こうして漁夫の利を得たイラクのシーア派は、労せずして政権と、国際社会からの膨大な復興援助とを手に入れることになった。
イラクでシーア派が政権を握ったことは決定的な意味を持つ。シーア派が住民の多数派を占めるのみならず、政権を握る国家がイラン以外に生まれたのは、領域国民国家システムの誕生以来初めてであるばかりでなく、アッバース朝の首都であり、イスラーム世界の中核都市の一つバグダードがシーア派の政治的支配の下に置かれたのは、サーマーン朝がセルジューク朝に追われて以来であった。またイランのコムだけでなく、シーア派の聖地であり、シーア派イスラーム学の中心地でもあるイラクのナジャフとカルバラーがシーア派の支配に入ったことは、政治的弾圧を恐れることなく、シーア派がその教義を実践し発展させる自由を得たことを意味するからである。
一方、イラクの隣国シリアは、同じバアス党でありながら、サダム・フセイン元大統領とハーフィズ・アサド前大統領(2000年没)の確執から、イラン・イラク戦争ではイランを支援した。「異端」アラウィー(ヌサィリ-)派を出自とするシリアのアサド政権は、イラン支持の見返りに、イランの12イマーム派からアラウィー派が12イマーム派に属するとの認証を取り付けることができた。2011年、「アラブの春」がシリアに波及すると軍事的に劣勢に立だされたバッシャール・アサド政権はレバノンのヒズブッラー、イランの革命防衛隊への依存を深めていった。また「アラブの春」の余波で2011年にバーレーンでシーア派住民が反体制デモを起こすと、危機感に駆られたGCCは合同軍「半島の盾」を派遣してデモを力づくで鎮圧した。
イラクでは、歴代シーア派政権はスンナ派を権力から排除しただけでなく、アメリカにならったテロ対策の口実の下に、サダム・フセイン政権のシーア派弾圧への報復としてスンナ派住民を不当に拘束、暴行、殺害し、土地、家屋、財産を奪うなどの悪政を行っていた。その結果としてスンナ派の不満を背景に、2014年にはサラフィー・ジハード主義組織「イラクのアルカーイダ」から分派した「イラクとシリアのイスラーム国」がイラク第二の都市モスルを攻略し、シリアとイラクの国境の大半を支配下に置くとサイクス・ピコ協定を無効化し「イスラーム国」と改称し、指導者アブー・バクル・バグダとアィーをカリフに推戴し、カリフ制の復活を宣言することになった。「イスラーム国」の攻勢に対し為す術のないイラク政府は欧米に軍事財政支援を求めると同時に、シーア派民兵組織、イラン革命防衛隊への依存を強めることになった。
しかしイランの影響によるシーア派の伸長を決定づけた出来事は、2015年にイラン革命の影響を受けたイエメンのシーア派ザイド派の一派のフーシー派が首都サナアを攻略しハーディー大統領を追放し、ついで南部のアデンまで侵攻したことである。
これに対してサウジアラビアを中心とするスンナ派諸国は有志連合を組織しフーシー派に激しい攻撃を加えると同時に、イランの脅威に対抗してアラブ連盟の合同軍を創設すること決議した。
イラン・イスラム共和国を中心とするシーア派とスンナ派との中東における政治的対立は、シリア、イラク、イエメンが宗派間の武力抗争の戦場となることで決定的になったが、21世紀のスンナ派とシーア派の対立の深刻さはそれが政治の領域にとどまらないことにある。
パキスタンやアフガニスタンのように伝統的にスンナ派とシーア派のコミュニティーが混在し散発的抗争が常態であった地域ではなく、2012年以降、エジプトやインドネシアやナイジェリアのように従来シーア派がほとんど存在しなかった国々でもシーア派(12ィマーム派)の宣教が行われてスンナ派住民がシーア派に改宗することで、シーア派とスンナ派の間に軋蝶が生じ流血の抗争にまで発展しているのが、21世紀のスンナ派とシーア派の宗派閥抗争の特徴である。
伝統的にスンナ派4法学派は、教友、特に正統カリフ初代アブー・バクルと第2代ウマルを誹誇するシーア派を敵視してきたことは疑念の余地はないが、異端の背教者とまでみなすか否かについては学説が分かれており、サラフィー主義者、ワッハーブ派を除き、概して教友の誹誇問題から目を逸らし「寛容」に放置してきた。
ところが、近年になって、アラブ世界のスンナ派伝統派の牙城と目されるエジプトのアズハルまでもがシーア派を異端宣告し、反シーア派キャンペーンを繰り広げるようになり、その動きはマレーシアやインドネシアなど東南アジアのムスリム諸国にまで広がっている。
シーア派は、イマーム不在期にはイマームの代理人としてのイスラーム法学者の指導下に纏まるとの「イスラーム法学者の権威(ウィラーヤ・ファキーフ)」論を国是とするイランーイスラム共和国を中心に教勢を拡大してきた。スンナ派が、スンナ派法学が定める唯一の合法政体であるカリフ制再興の義務を蔑ろにし、シーア派の脅威を言い立てるばかりで、私利私欲に基づき野合するのみの現状から抜け出さない限り、スンナ派とシーア派が歴史的な敵対的共存の均衡関係を取り戻すことは難しいように思われる。
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私のために作られたスマホにどう応えるか
未唯宇宙をどう表現するか
未唯宇宙、どのように表現するか、どう作るか、それによって何を表わすのか。
それと本棚システムのオープン。人類が生き残るために必要なシステム、それが本棚システムです。
私のために作られたスマホにどう応えるか
私のためにスマホができて、アプリが作られた。それに私が応えられるか。何を期待されているのか。まず、一番はスケジュール管理でしょう。
哲学で言うところの“今”
哲学で言うところの“今”というのは、TVを見ているとき、ゲームをしているとき、スマホをしているとき、それが今なのか。
“今”を感じているときが“今”なんでしょう。そう考えるとほとんどが“今”ではない。
お金がない
あと5日間もあるのに、3千円では暮らしていくのは無理さんでしょう。
未唯宇宙、どのように表現するか、どう作るか、それによって何を表わすのか。
それと本棚システムのオープン。人類が生き残るために必要なシステム、それが本棚システムです。
私のために作られたスマホにどう応えるか
私のためにスマホができて、アプリが作られた。それに私が応えられるか。何を期待されているのか。まず、一番はスケジュール管理でしょう。
哲学で言うところの“今”
哲学で言うところの“今”というのは、TVを見ているとき、ゲームをしているとき、スマホをしているとき、それが今なのか。
“今”を感じているときが“今”なんでしょう。そう考えるとほとんどが“今”ではない。
お金がない
あと5日間もあるのに、3千円では暮らしていくのは無理さんでしょう。
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キリスト教の神の国とイスラームのウンマ
『帝国の復興と啓蒙の未来』より
西ローマ帝国の晩期に生きたラテン教父アウグスティヌス(430年没)はその大著『神の国』の中で、神の国と地の国を対立させる二国論を展開し、後の西欧キリスト教思想に大きな影響を与えた。
アウグスティヌスは聖書の記述を元に、教会がキリストを頭とするキリストの身体であるとみなす。アウグスティヌスは教会を「キリストとその教会なる神の国」「聖なる教会である神の国」「この世において遍歴している神の国、即ち教会」などと呼んでおり、キリストに従順な「神の国」を代表するものは教会であり、「地の国」の覇権を代表するのがローマ帝国であった。しかし真の神の国は天上的なものであり、地上の可視的教会には、地の国が入り込んでおり、この世の教会には悪人が善人の間に混ざっており、最後の審判にふるい分けられる。(松田禎二「アウグスティヌスにおける『神の国』の意義」『中世思想研究』第21号、中世哲学会、75~76頁、加藤信朗「アウグスティヌス『神の国』における二つの国の理」(『中世思想研究』第45号、中世哲学会、15頁)
このアウグスティヌスの二国論に基づく西欧中世のキリスト教の世界観は、「教会の外に救いなし」(キプリアヌス)との立場から、異教世界に対しては、西欧、神の国を代表する即ち(ローマ・カトリック)教会と(西/神聖)ローマ帝国と、地の国を代表する異教の諸国を対立させるものであると同時に、西欧内部では神の国の地上における代表である可視的(ローマ・カトリック)教会と、地の国である(西/神聖)ローマ帝国を並立させる二重構造の二元論的なものであったが、「地上における神の国」の政治権力の所在をめぐってローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝の間で所謂教権と俗権の対立が生ずることになる。そして宗教改革後、西欧で教皇権が弱まり、ついにはカトリックのキリスト教の独占が崩れると、キリスト教系のカルト諸宗派までもが自宗派を神の国を代表する教会とみなすようになり可視的教会は内実を失い、政教分離が既成事実化し、世俗化の進展、教会人口の減少とそれに反比例する主権国家の権力の肥大化に伴い教会は世俗国家と対抗する実体であることをやめることになる。
キリスト教によると「教会の外に救いなし」との原理により、全ての異教徒の支配は「地の国」の覇権として範喘的に悪であるばかりか、可視的教会による統治ですら、「地の国」の悪による汚染を免れない。ところがその一方でキリスト教は「神のものは神にカエサルのものはカエサルに」との福音書のイエスの言葉、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」との「ローマ人への手紙」13章1節のパウロの言葉によって、キリスト教が覇権を握っている限り、たとえ悪であろうとも「地の国」の支配には服従が義務であると説く。
西欧中世においては、コンスタンティヌス一世(337年没)が313年にミラノ勅令でキリスト教を公認し、392年にはテオドシウスー世(395年没)はキリスト教を国教化した。コンスタンティヌスー世は325年に第1回ニカイア公会議を開き、三位一体説を正統と公認し、以降、キリスト教の教義への国家の干渉が常態化する。それゆえこれ以降の政治化したキリスト教をコンスタンティヌス体制とも呼ぶが、このコンスタンティヌス体制下の中世西欧はカトリック教会がローマ帝国を利用し、異教徒を殲滅し、臣民にカトリックを強制する全体主義的社会となった。
しかしこの西欧のコンスタンティヌス体制のカトリック全体主義体制は、ルネサンス、宗教改革、それらの結果としての社会の世俗化の進展により崩壊し、アウグスティヌスの二世界論に基づき、キリスト教の諸宗派が、自分たちの教会こそが真の「神の国」であると自任しつつ、現世ではそれぞれの「地の国」の覇権を追認し、その下にある他の諸々の可視的教会と異教、無神論とも共存する近代的政教分離の多元社会に変質するのである。
イスラームにおいてキリスト教の教会におおまかに対応する概念はウンマである。クルアーンにおいては「ウンマ」は人間のみならず動物に対しても用いられる「集団」を指す語であったが、イスラーム学の用語としては、宗教集団、特に定冠詞を付して「アル=ウンマ」といった場合には、ムスリムの集団を指すことになる。
カトリック教会は1869~70年の第1回バチカン公会議で教皇の無謬を正式に決定したが、伝統的に教皇、公会議の総意、全ての司教の総意、全ての教会員の総意の無謬を認めてきた。一方、イスラームにおいては、預言者ムハンマドの無謬性については合意が存在するが、ムハンマドの没後については見解が分かれている。スンナ派法学は、「私のウンマは誤謬において合意することはない」とのハディースに基づき、ウンマの総意(イジュマー)は無謬とされ、イジュマーはイスラーム法のクルアーン、ハディースに次ぐ第三法源となる。他方、シーア派は、預言者ムハンマドの後継者に指名したイマームが預言者ムハンマドの無謬性を継承したものと考える。
つまりキリスト教の教皇とシーア派のイマームが共に無謬の教主であるのに対して、その総意において無謬である、との意味にいて、キリスト教の教会の概念とスンナ派イスラムのウンマの概念は、真理の護持者としての共同体という性格において共通性を有している。
確かにキリスト教の教会とスンナ派のウンマは、共に無謬の共同体である点においては類似しているが、実は似て非なるものである。キリスト教の「教会」は「地の国」が混じることでより善人に紛れて悪人が入り込んでいるため、地上の可視的教会が「天の国」と同一視されることはない。しかし、キリスト教には、キリスト教徒になるために資格のある聖職者によって公式に洗礼を施される必要があり、それゆえメンバーシップが明確で外延が定まった可視的教会といったものが成立しうるのに対し、イスラームには誰かをムスリムと認可する資格がある聖職者もいなければ、認可の手続きもなく、それを登録する機関もないため、ウンマにはそもそもメンバーシップもなく、外延もはっきりと定まらないため、可視的ウンマなどという概念そのものがそもそも成立しないのである。
信仰がないのにムスリムを自称する者は、クルアーンの中でも「偽信者たちは獄火の最下層にいる」(クルアーン4章145節)と言われており、預言者ムハンマドの時代にも存在したが、ムハンマドは彼らが表面的にイスラームの規則を守り自分でムスリムを名乗っている以上、獄火の住人である偽信者であっても現世では法的にムスリムとして扱うべきと定めた。
預言者ムハンマドの没後、第4代正統カリフーアリーの時代に、カリフ・アリーを認めないシリア総督ムアーウィヤとの内戦が起き、ムアーウィヤの反乱へのアリーの対応をめぐって、イスラーム史上最初の分派が現れる。罪を犯したムスリムは背教者として処刑すべきである、と考える「聖徒の共同体」ハワーリジュ派である。
ハワーリジュ派はアリーに反旗を翻して粉砕されるが、後にカリフーアリーはその刺客の手で暗殺される。その後、ハワーリジュ派は分裂を繰り返し最終的に殲滅されるが、他宗派を全て異端視し殺害する「過激派」、「テロリスト」、「狂信的カルト」ともいうべきこのハワーリジュ派の出現とそれによるカリフの暗殺というスキャンダルにもかかわらず、イスラームは、正統教義を決める資格のある聖職者制度を設けることもせず、カリフが教学に介入し正統教義を定めるといったことは生じなかった。
つまり、キリスト教の教会に生じたように俗人の上に立つ霊的権威を有する聖職者階級が公式に信徒のメンバーシップの内包と外延を定め、世俗権力が聖職者階級の人事や彼らによる教義の決定に公式に介入する、といった制度は、イスラームのウンマには成立せず、誰がムスリムであるのか、イスラームの正しい教義は何であるか、についての判断は、神の前に一人立つムスリム個々人に委ねられる、とのイスラームの理念は、預言者の高弟たちの時代に早くも生じた内戦と暗殺の混乱にもかかわらず維持されたのである。
イスラーム法学の多数説では、ムスリムになるためには、イスラームの証言法の一般規定に基づき2人の証人の前に「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒なり」と唱えればよく、承認が制度的に認められた聖職者である必要もなく、裁判所など公的機関に届ける必要もない。どこで誰がムスリムになったか、を統括する者も機関も存在しないのである。またハナフィー派の少数説では、多神教徒や無神論者がムスリムになるのは神の唯一性だけを信ずれば十分であり、証言をしなくても、ムスリムの真似をして礼拝をしただけでもムスリムとみなすことができるとされる。インドやチュルク系諸民族の間ではハナフィー派が大多数であるが、彼らの改宗にあたっては、入信のハードルが低いこのハナフィー派の入信規定が有用であったと考えることもできよう。
イスラームは全人口のおよそ8~9割を占める多数派のスンナ派、1~2割のシーア派に大別されるが、シーア派も9割以上を占める12イマーム派、その他ザイド派、イスマーイール派に分かれ、また300万人弱のハワーリジュ派の流れを引くとも言われるイバード派、更にはイスラーム教の一派か否かが曖昧なアラウィー派、ドルーズ派などの分派が存在する。しかしウンマは、その内部で分派が時に殺し合いに至る争いを繰り返しながらも、ついに1000年以上にわたって一度もその内包(教義)と外延(メンバーシップ)を公式に制度化してどれか二つを正統としそれ以外の諸分派を異端として排斥することなく、いわばこの世における「不可視的教会」として存続してきたのである。
西ローマ帝国の晩期に生きたラテン教父アウグスティヌス(430年没)はその大著『神の国』の中で、神の国と地の国を対立させる二国論を展開し、後の西欧キリスト教思想に大きな影響を与えた。
アウグスティヌスは聖書の記述を元に、教会がキリストを頭とするキリストの身体であるとみなす。アウグスティヌスは教会を「キリストとその教会なる神の国」「聖なる教会である神の国」「この世において遍歴している神の国、即ち教会」などと呼んでおり、キリストに従順な「神の国」を代表するものは教会であり、「地の国」の覇権を代表するのがローマ帝国であった。しかし真の神の国は天上的なものであり、地上の可視的教会には、地の国が入り込んでおり、この世の教会には悪人が善人の間に混ざっており、最後の審判にふるい分けられる。(松田禎二「アウグスティヌスにおける『神の国』の意義」『中世思想研究』第21号、中世哲学会、75~76頁、加藤信朗「アウグスティヌス『神の国』における二つの国の理」(『中世思想研究』第45号、中世哲学会、15頁)
このアウグスティヌスの二国論に基づく西欧中世のキリスト教の世界観は、「教会の外に救いなし」(キプリアヌス)との立場から、異教世界に対しては、西欧、神の国を代表する即ち(ローマ・カトリック)教会と(西/神聖)ローマ帝国と、地の国を代表する異教の諸国を対立させるものであると同時に、西欧内部では神の国の地上における代表である可視的(ローマ・カトリック)教会と、地の国である(西/神聖)ローマ帝国を並立させる二重構造の二元論的なものであったが、「地上における神の国」の政治権力の所在をめぐってローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝の間で所謂教権と俗権の対立が生ずることになる。そして宗教改革後、西欧で教皇権が弱まり、ついにはカトリックのキリスト教の独占が崩れると、キリスト教系のカルト諸宗派までもが自宗派を神の国を代表する教会とみなすようになり可視的教会は内実を失い、政教分離が既成事実化し、世俗化の進展、教会人口の減少とそれに反比例する主権国家の権力の肥大化に伴い教会は世俗国家と対抗する実体であることをやめることになる。
キリスト教によると「教会の外に救いなし」との原理により、全ての異教徒の支配は「地の国」の覇権として範喘的に悪であるばかりか、可視的教会による統治ですら、「地の国」の悪による汚染を免れない。ところがその一方でキリスト教は「神のものは神にカエサルのものはカエサルに」との福音書のイエスの言葉、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」との「ローマ人への手紙」13章1節のパウロの言葉によって、キリスト教が覇権を握っている限り、たとえ悪であろうとも「地の国」の支配には服従が義務であると説く。
西欧中世においては、コンスタンティヌス一世(337年没)が313年にミラノ勅令でキリスト教を公認し、392年にはテオドシウスー世(395年没)はキリスト教を国教化した。コンスタンティヌスー世は325年に第1回ニカイア公会議を開き、三位一体説を正統と公認し、以降、キリスト教の教義への国家の干渉が常態化する。それゆえこれ以降の政治化したキリスト教をコンスタンティヌス体制とも呼ぶが、このコンスタンティヌス体制下の中世西欧はカトリック教会がローマ帝国を利用し、異教徒を殲滅し、臣民にカトリックを強制する全体主義的社会となった。
しかしこの西欧のコンスタンティヌス体制のカトリック全体主義体制は、ルネサンス、宗教改革、それらの結果としての社会の世俗化の進展により崩壊し、アウグスティヌスの二世界論に基づき、キリスト教の諸宗派が、自分たちの教会こそが真の「神の国」であると自任しつつ、現世ではそれぞれの「地の国」の覇権を追認し、その下にある他の諸々の可視的教会と異教、無神論とも共存する近代的政教分離の多元社会に変質するのである。
イスラームにおいてキリスト教の教会におおまかに対応する概念はウンマである。クルアーンにおいては「ウンマ」は人間のみならず動物に対しても用いられる「集団」を指す語であったが、イスラーム学の用語としては、宗教集団、特に定冠詞を付して「アル=ウンマ」といった場合には、ムスリムの集団を指すことになる。
カトリック教会は1869~70年の第1回バチカン公会議で教皇の無謬を正式に決定したが、伝統的に教皇、公会議の総意、全ての司教の総意、全ての教会員の総意の無謬を認めてきた。一方、イスラームにおいては、預言者ムハンマドの無謬性については合意が存在するが、ムハンマドの没後については見解が分かれている。スンナ派法学は、「私のウンマは誤謬において合意することはない」とのハディースに基づき、ウンマの総意(イジュマー)は無謬とされ、イジュマーはイスラーム法のクルアーン、ハディースに次ぐ第三法源となる。他方、シーア派は、預言者ムハンマドの後継者に指名したイマームが預言者ムハンマドの無謬性を継承したものと考える。
つまりキリスト教の教皇とシーア派のイマームが共に無謬の教主であるのに対して、その総意において無謬である、との意味にいて、キリスト教の教会の概念とスンナ派イスラムのウンマの概念は、真理の護持者としての共同体という性格において共通性を有している。
確かにキリスト教の教会とスンナ派のウンマは、共に無謬の共同体である点においては類似しているが、実は似て非なるものである。キリスト教の「教会」は「地の国」が混じることでより善人に紛れて悪人が入り込んでいるため、地上の可視的教会が「天の国」と同一視されることはない。しかし、キリスト教には、キリスト教徒になるために資格のある聖職者によって公式に洗礼を施される必要があり、それゆえメンバーシップが明確で外延が定まった可視的教会といったものが成立しうるのに対し、イスラームには誰かをムスリムと認可する資格がある聖職者もいなければ、認可の手続きもなく、それを登録する機関もないため、ウンマにはそもそもメンバーシップもなく、外延もはっきりと定まらないため、可視的ウンマなどという概念そのものがそもそも成立しないのである。
信仰がないのにムスリムを自称する者は、クルアーンの中でも「偽信者たちは獄火の最下層にいる」(クルアーン4章145節)と言われており、預言者ムハンマドの時代にも存在したが、ムハンマドは彼らが表面的にイスラームの規則を守り自分でムスリムを名乗っている以上、獄火の住人である偽信者であっても現世では法的にムスリムとして扱うべきと定めた。
預言者ムハンマドの没後、第4代正統カリフーアリーの時代に、カリフ・アリーを認めないシリア総督ムアーウィヤとの内戦が起き、ムアーウィヤの反乱へのアリーの対応をめぐって、イスラーム史上最初の分派が現れる。罪を犯したムスリムは背教者として処刑すべきである、と考える「聖徒の共同体」ハワーリジュ派である。
ハワーリジュ派はアリーに反旗を翻して粉砕されるが、後にカリフーアリーはその刺客の手で暗殺される。その後、ハワーリジュ派は分裂を繰り返し最終的に殲滅されるが、他宗派を全て異端視し殺害する「過激派」、「テロリスト」、「狂信的カルト」ともいうべきこのハワーリジュ派の出現とそれによるカリフの暗殺というスキャンダルにもかかわらず、イスラームは、正統教義を決める資格のある聖職者制度を設けることもせず、カリフが教学に介入し正統教義を定めるといったことは生じなかった。
つまり、キリスト教の教会に生じたように俗人の上に立つ霊的権威を有する聖職者階級が公式に信徒のメンバーシップの内包と外延を定め、世俗権力が聖職者階級の人事や彼らによる教義の決定に公式に介入する、といった制度は、イスラームのウンマには成立せず、誰がムスリムであるのか、イスラームの正しい教義は何であるか、についての判断は、神の前に一人立つムスリム個々人に委ねられる、とのイスラームの理念は、預言者の高弟たちの時代に早くも生じた内戦と暗殺の混乱にもかかわらず維持されたのである。
イスラーム法学の多数説では、ムスリムになるためには、イスラームの証言法の一般規定に基づき2人の証人の前に「アッラーの他に神はなく、ムハンマドはアッラーの使徒なり」と唱えればよく、承認が制度的に認められた聖職者である必要もなく、裁判所など公的機関に届ける必要もない。どこで誰がムスリムになったか、を統括する者も機関も存在しないのである。またハナフィー派の少数説では、多神教徒や無神論者がムスリムになるのは神の唯一性だけを信ずれば十分であり、証言をしなくても、ムスリムの真似をして礼拝をしただけでもムスリムとみなすことができるとされる。インドやチュルク系諸民族の間ではハナフィー派が大多数であるが、彼らの改宗にあたっては、入信のハードルが低いこのハナフィー派の入信規定が有用であったと考えることもできよう。
イスラームは全人口のおよそ8~9割を占める多数派のスンナ派、1~2割のシーア派に大別されるが、シーア派も9割以上を占める12イマーム派、その他ザイド派、イスマーイール派に分かれ、また300万人弱のハワーリジュ派の流れを引くとも言われるイバード派、更にはイスラーム教の一派か否かが曖昧なアラウィー派、ドルーズ派などの分派が存在する。しかしウンマは、その内部で分派が時に殺し合いに至る争いを繰り返しながらも、ついに1000年以上にわたって一度もその内包(教義)と外延(メンバーシップ)を公式に制度化してどれか二つを正統としそれ以外の諸分派を異端として排斥することなく、いわばこの世における「不可視的教会」として存続してきたのである。
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戦場に行った哲学者たち
『私たち、戦争人間について』より
トヨタ戦争
本来は武器ではないものが、武器として利用されることも珍しくない。
海外の一部の紛争地域では、しばしば頑丈な日本製のピックアップトラックの後部に重機関銃が積み込まれ、実質的に戦闘車両として利用されている。一九八〇年代のチャド・リビア紛争では、そうした例が多く見られたため「トヨタ戦争」という言葉も生まれたほどである。
武器・兵器だけでなく、いわゆる土木工事技術もまた、軍事の根幹であるとも言える。陣営を築いたり、橋をかけたり、壕、柵、落とし穴、あるいは地下トンネルを掘ったりするなどの作業は、古代から現代にいたるまで兵士たちの重要な仕事である。
攻城塔など大型の兵器は、それが必要な場所に来てから製造や組み立てがなされたので、兵士たちにはちょっとした大工仕事も求められた。
敵との直接的な戦闘をうまくやることが重要なのはもちろんだが、土木工事や大工仕事を手早く効率的にすすめる技術や組織があることは、そのままその軍隊の強さの一部なのである。また、作戦立案のみならず、兵員や物資の輸送計画を正確にたてるためには、「地図」の精度を向上させることも極めて重要になっていった。測量技術や地理情報は、古代から現代にいたるまで、軍事において欠かせないものである。
第二次大戦中の日本軍の「風船爆弾」は、一見したところ原始的で滑稽なものにも思われるが、実はジェット気流などに関するかなり高度な科学知識に裏打ちされたものであった。各地域の天候がどうであるかという情報もまた、戦闘から災害派遣まで、あらゆる軍事行動において重要となる。
戦争が気象条件によって大きく影響を受けることは、元寇における「神風」が典型例としてあげられる。日本では、太平洋戦争中にあたる一九四一年から一九四五年までの問、天気予報は機密情報として発表が中断された。
物理学者で、随筆家としても知られる寺田寅彦は、「戦争と気象学」というエッセーのなかで、戦史の事例をいくつか示しながら、戦争において気象学がいかに重要であるかを語っている。
寺田寅彦の弟子である中谷宇吉郎も、戦争と無縁ではない。中谷は世界で初めて人工雪の製作に成功し、「雪は天から送られた手紙である」というロマンチックな言葉を残したことでも知られている科学者だ。
だが中谷は、航空機の翼への着氷に関する研究や、霧を消去する研究なども行った。翼への着氷や霧は、。軍用機の飛行や離着陸に関する極めて重要な問題だからである。軍用機を山頂まで運び、風洞を作って雪を含んだ風を航空機に当てるという実験を行ったという記録も残っている。
戦場に行った哲学者たち
戦争は「悪」とされている。だが、これまでさまざまな人が、直接的、間接的に戦争にかかわってきた。
哲学史に名を残している天才の一人に、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインがいる。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という有名な言葉で終わる『論理哲学論考』の著者として知られている人物だ。そんな彼も、第一次大戦時にオーストリア=ハンガリー帝国軍で任務についている。
軍隊の仕事といってもさまざまな職種があるが、ウィトゲンシュタインは事務仕事でも後方支援でもなく、戦闘員であった。一九一四年にドイツ軍がベルギーに侵攻すると、ウィトゲンシュタインはすぐに志願し、クラクフの第二砲兵連隊に配属された。彼は当時、二五歳であった。
彼はそこで探照灯を扱い、観測手としても活躍し、河川で活動する小型砲艦にも乗った。砲兵隊作業所ではエンジニアとしても評価され、後にサノックの第五曲射砲連隊に転出して最前線に送られたときには激戦を体験し、複数の勲章を受けている。
ウィトゲンシュタインは伍長に昇進した後、士官としての訓練を受けるために砲兵隊士官学校に派遣され、二九歳のときに少尉に任官された。その数ヶ月後にも戦闘に参加し、「金の勇敢章」にも推挙されている。
彼は、こうした軍務のかたわらで、トルストイの『要約福音書』に夢中になり、信仰について考え、そして二〇世紀を代表する哲学書となる『論理哲学論考』の草稿を準備していたのである。
『ウィトゲンシュタイン「秘密の日記」--第一次世界大戦と「論理哲学論考」(春秋社)によれば、ウィトゲンシュタインの属していた第二四歩兵師団の兵士の生還率は二〇%程度で、曲射砲連隊所属時のブルシーロフ攻勢も激戦だったので、彼が無事に生還できたことは「一種の奇跡」であるという。
同じ哲学者としては、「我思う、ゆえに我あり」という言葉で有名な、一七世紀のルネ・デカルトも軍人であった。彼は三十年戦争に従軍している。さらに遡るなら、紀元前のソクラテスも、重装歩兵として幾度かの戦闘を経験している。
ソクラテス、デカルト、ウィトゲンシュタインという大物哲学者は、いずれも志願して戦場へ向かった。ウィトゲンシュタインにいたっては、両側鼠径ヘルニア、および近視のため、「兵役不適格」とされたにもかかわらず、それでも自ら望んで戦争に行ったのである。
小泉義之は『兵士デカルト--戦いから祈りへ』(勁草書房)のなかで、戦争に参加した哲学者としてこの三名をあげ、戦争から生還したソクラテスは「いかに善く生きるか」を考え、デカルトは「いかに魂を鍛えるか」を考え、ウィトゲンシュタインは「いかに祈るか」を考えたのだと述べている。
だが、ここにあげた人々のなかに、戦争や軍事を哲学の主題としたり、自らの戦争への関わりを後悔・反省したりするような文言を残した者はいない。
人間やこの世の真理を探求しようとする哲学者が、しかも戦争を経験した哲学者白身が、
直接的には戦争についてほとんど考察を深めておらず、具体的な反戦運動をした形跡もない
というのは、現代の平和主義者の方々からすると少々不可解なのではないだろうか。
トヨタ戦争
本来は武器ではないものが、武器として利用されることも珍しくない。
海外の一部の紛争地域では、しばしば頑丈な日本製のピックアップトラックの後部に重機関銃が積み込まれ、実質的に戦闘車両として利用されている。一九八〇年代のチャド・リビア紛争では、そうした例が多く見られたため「トヨタ戦争」という言葉も生まれたほどである。
武器・兵器だけでなく、いわゆる土木工事技術もまた、軍事の根幹であるとも言える。陣営を築いたり、橋をかけたり、壕、柵、落とし穴、あるいは地下トンネルを掘ったりするなどの作業は、古代から現代にいたるまで兵士たちの重要な仕事である。
攻城塔など大型の兵器は、それが必要な場所に来てから製造や組み立てがなされたので、兵士たちにはちょっとした大工仕事も求められた。
敵との直接的な戦闘をうまくやることが重要なのはもちろんだが、土木工事や大工仕事を手早く効率的にすすめる技術や組織があることは、そのままその軍隊の強さの一部なのである。また、作戦立案のみならず、兵員や物資の輸送計画を正確にたてるためには、「地図」の精度を向上させることも極めて重要になっていった。測量技術や地理情報は、古代から現代にいたるまで、軍事において欠かせないものである。
第二次大戦中の日本軍の「風船爆弾」は、一見したところ原始的で滑稽なものにも思われるが、実はジェット気流などに関するかなり高度な科学知識に裏打ちされたものであった。各地域の天候がどうであるかという情報もまた、戦闘から災害派遣まで、あらゆる軍事行動において重要となる。
戦争が気象条件によって大きく影響を受けることは、元寇における「神風」が典型例としてあげられる。日本では、太平洋戦争中にあたる一九四一年から一九四五年までの問、天気予報は機密情報として発表が中断された。
物理学者で、随筆家としても知られる寺田寅彦は、「戦争と気象学」というエッセーのなかで、戦史の事例をいくつか示しながら、戦争において気象学がいかに重要であるかを語っている。
寺田寅彦の弟子である中谷宇吉郎も、戦争と無縁ではない。中谷は世界で初めて人工雪の製作に成功し、「雪は天から送られた手紙である」というロマンチックな言葉を残したことでも知られている科学者だ。
だが中谷は、航空機の翼への着氷に関する研究や、霧を消去する研究なども行った。翼への着氷や霧は、。軍用機の飛行や離着陸に関する極めて重要な問題だからである。軍用機を山頂まで運び、風洞を作って雪を含んだ風を航空機に当てるという実験を行ったという記録も残っている。
戦場に行った哲学者たち
戦争は「悪」とされている。だが、これまでさまざまな人が、直接的、間接的に戦争にかかわってきた。
哲学史に名を残している天才の一人に、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインがいる。「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という有名な言葉で終わる『論理哲学論考』の著者として知られている人物だ。そんな彼も、第一次大戦時にオーストリア=ハンガリー帝国軍で任務についている。
軍隊の仕事といってもさまざまな職種があるが、ウィトゲンシュタインは事務仕事でも後方支援でもなく、戦闘員であった。一九一四年にドイツ軍がベルギーに侵攻すると、ウィトゲンシュタインはすぐに志願し、クラクフの第二砲兵連隊に配属された。彼は当時、二五歳であった。
彼はそこで探照灯を扱い、観測手としても活躍し、河川で活動する小型砲艦にも乗った。砲兵隊作業所ではエンジニアとしても評価され、後にサノックの第五曲射砲連隊に転出して最前線に送られたときには激戦を体験し、複数の勲章を受けている。
ウィトゲンシュタインは伍長に昇進した後、士官としての訓練を受けるために砲兵隊士官学校に派遣され、二九歳のときに少尉に任官された。その数ヶ月後にも戦闘に参加し、「金の勇敢章」にも推挙されている。
彼は、こうした軍務のかたわらで、トルストイの『要約福音書』に夢中になり、信仰について考え、そして二〇世紀を代表する哲学書となる『論理哲学論考』の草稿を準備していたのである。
『ウィトゲンシュタイン「秘密の日記」--第一次世界大戦と「論理哲学論考」(春秋社)によれば、ウィトゲンシュタインの属していた第二四歩兵師団の兵士の生還率は二〇%程度で、曲射砲連隊所属時のブルシーロフ攻勢も激戦だったので、彼が無事に生還できたことは「一種の奇跡」であるという。
同じ哲学者としては、「我思う、ゆえに我あり」という言葉で有名な、一七世紀のルネ・デカルトも軍人であった。彼は三十年戦争に従軍している。さらに遡るなら、紀元前のソクラテスも、重装歩兵として幾度かの戦闘を経験している。
ソクラテス、デカルト、ウィトゲンシュタインという大物哲学者は、いずれも志願して戦場へ向かった。ウィトゲンシュタインにいたっては、両側鼠径ヘルニア、および近視のため、「兵役不適格」とされたにもかかわらず、それでも自ら望んで戦争に行ったのである。
小泉義之は『兵士デカルト--戦いから祈りへ』(勁草書房)のなかで、戦争に参加した哲学者としてこの三名をあげ、戦争から生還したソクラテスは「いかに善く生きるか」を考え、デカルトは「いかに魂を鍛えるか」を考え、ウィトゲンシュタインは「いかに祈るか」を考えたのだと述べている。
だが、ここにあげた人々のなかに、戦争や軍事を哲学の主題としたり、自らの戦争への関わりを後悔・反省したりするような文言を残した者はいない。
人間やこの世の真理を探求しようとする哲学者が、しかも戦争を経験した哲学者白身が、
直接的には戦争についてほとんど考察を深めておらず、具体的な反戦運動をした形跡もない
というのは、現代の平和主義者の方々からすると少々不可解なのではないだろうか。
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私が死ぬということ 「無」という名の有
『明るく死ぬための哲学』より 私が死ぬということ 「死」より重要な問題はない
ここで、あらためて「無」について考察してみよう。「無」という言葉によって、われわれはそのつど明晰に何かを理解しているかのようであるが、そうではない。「この部屋には猫がいない」という意味ははっきりしているようである。しかし、この部屋にはテーブルとか椅子とかパソコンとか冷蔵庫とか……さまざまな「存在する」ものがあるだけであり、それに加えて「否定的猫」がいるわけではない。さらに、私が「この部屋には猫がいない」と判断することは、「この部屋には恐竜がいない」と判断することとは別である。私は「猫がいない」ということによって、「恐竜がいない」ということとは異なったことを言いたいのだ。だが、この部屋に「ある」ものを網羅的に挙げてみても、「猫がいない」ことと「恐竜がいない」ことの違いはそこからは出てこない。別の言い方をすれば、この部屋の写真を撮っても、「猫がいない」風景」と「恐竜がいない」風景しという異なった風景が撮られるわけではない。完全に同じ風景なのである。
「否定」は世界に起こる物理現象ではない。それは(そう言うしかないからそう言うにすぎないのだが)「意識」において起こることである。「ここには猫がいない」と判断する人(意識)Aは、「ここには恐竜がいない」と言いたいのではない。両者とも物理現象として「ない」点では同じだが、Aにとっては雲泥の差がある。ここで、「意識」と言うと心理学的事態を想像しがちであり、心理学的事態もまた世界内で(大脳内で?)起こることであるから、むしろ「言語」と言おう。私が言語を学ぶと、私はなぜか世界を「存在と無」という対立でとらえるようになるのだ。そして、さまざまな「無」を語るようになる。「俺には、金もなく、地位もなく、恋人もなく、生きる希望もない」というように。
こういう判断を下すとき、私は何をしているのであろうか? いろいろ答えられる。ヒュームにならって答えれば、私はまず「金」を思い浮かべて、次にそれを消去する。同様に、「地位」を「恋人」を「生きる希望」を思い浮かべて、次にそれらを消去するのだ。つまり、否定としての無は肯定を立てそれを消去するという二重の操作によって、成立する。すぐに気づくことだが、ここには「時間」が、そして「記憶」が関係している。時間がなければ、「まずX、次にY」という操作はできないであろうし、時間があっても記憶がなければ、「まずX」と言った瞬間にすべてを忘れてしまうなら、「次にY」と言っても、XとYとの関係を付けることはできないであろう。われわれは「時間における存在と無」を根源的に知っていて、それに乗っかって二重の操作をしている。あるとき(t1)に猫を思い浮かべて、次のあるとき(t2)にそれを消去するとき、「さっき(t1で)存在していた猫がいま(t2)消えた(無に転じた)」と自然に言えるのだ。
すなわち、「あった」というあり方は、はじめから存在とその否定とを含んでいる。「さっきここに猫がいた」という判断は「さっきここに猫がいた」ことと「いまここに猫がいない」ことの両方を語っている。しかし、このことを忘れて、われわれはおうおうにして「いま何かがない」という否定的判断それ自体がある状態を直接表現していると考えてしまう。「いまここに猫がいない」と語るとき、「いまここに『猫がいない』という状態がある」という主張をしているのだ、という錯覚に陥ってしまうのである。
以上のことは、心の状態のほうがわかりやすいであろう。「私は悲しかった」という判断は「さっき私は悲しかった」ことと「いま私は悲しくない」ことの両方を語っている。しかし私が「いま私は悲しくない」と語るとき「いま『私は悲しくない』という心の状態が生じている」という判断を下しているかのような気がしてくる。このことは、「いまここには何もない」と語るときですらそうである。この場合、「さっきここに何かがあった」ことと「いまここには何もない」ことの両方を語っているのであるが、そのすべてを忘れて、ただ「いまここには『何もない』という状態がある」すなわち、「無がある」という根源的判断を下しているのだと錯覚してしまうのである。
時間の一瞬を切り取ってみれば、「何か」(たとえ「空虚」であっても)が「ある」だけなのであり、そこに無はない。それなのに、言語を学んだわれわれは「無」をはじめから「無がある」こととして理解してしまう。だが、言葉を学んでいない存在者(動物)は、ただ夥しい数の「何かあるもの」に囲まれているだけであって、「無」を、すなわち「無があること」を理解することはできない。
サルトルは「対自」すなわち人間存在は、「無を世界に到来させる存在である」と言ったが、これは正確ではない。むしろ、人間存在ではなく、言語あるいは言語を学んだ人間存在は、「無」ではなく「無という名の有(概念あるいは否定としての有)を世界に到来させる存在」なのである。人間存在といえども、無それ自身を世界に到来させることはできない。無はみずから運動しないばかりではない。無は他のもの(有)によって運動させられ、到来させられることさえできないのだ。もし、無が人間存在によって世界に到来させられうるのであれば、それは人間存在が「無」という言葉を学んだからであり、そのことによって「無」が「無という名の有」に変身したからである。この変身によって、はじめて無は人間存在によって世界に到来させられうる。
こうして、われわれが何ごとかを「ない」とか「無」とか語ったとたんに、語られたものは「無という名の有」に変じてしまう。われわれは「無それ自体」をつかみ損ねてしまい、その抜け殻としての「無という名の有」を手中にしただけであるのに、無それ自体をつかんだつもりになってしまうのだ。同じように、われわれが「死んだら何もなくなる」と呟いたとたんに、語られた内容は「死んだら何もない状態が続く」というふうに変身してしまい、われわれはその「無限に続く無という状態」に対して恐怖を感じるという錯覚に陥ってしまう。これこそ、いかなる科学者も芸術家も文学者も考えない問題ではないだろうか? 哲学者は「ある」と「ない」とにこの世で最も大いなる問題を嗅ぎつけているが、他の分野で知的創造的活動をしている者のほとんどが、このことにこだわらないばかりか気づいてもいないようである。僧侶や宗教家の一部はそれを体験的に知っているかもしれないが、「無」という言葉の問題として知らない。それを精緻に語ることのできる僧侶や宗教家は同時に哲学者である。
「無」について考え尽くした(西洋)哲学者はヘーゲルであろう。若いころからヘーゲルは私にとってずっと嫌いな哲学者であったが、最近、年を取ったのか(?)ヘーゲルが身に沁みて「わかる」ようになってきた。まさに、彼は概念によって世界を(神さえ)語り尽くすことができると確信し、それを企てた。それは、「無」こそ世界の根幹を成しているという主張に基づいているが、それは厳密には無ではなく肯定性の否定性であり、これを無と区別するために「不在」と言うことができよう。
実在のレベルでは「存在」と「無」とはまったく異なった事態であるのに、概念(言葉)のレベルでは、両者は互いに区別できないほど似かよっている、いや同一でさえある。ヘーゲルの『論理学』はこの確認から出発している。しかし、これは数々の違和感をもたらす。私が「生きている」ことと「生きていない(死んでいる)」ことは、恐ろしく違う。だが、こう言語で表現してしまうと、あたかも同一の「私」という言葉が意味するものが、ただ「生きている」か「死んでいる」か、という差異に帰着してしまうように思われるのだ。そして、「私」は死んだ後にも「無」という状態の主体になってしまう。「私」は死後ずっと無であり続けるわけである。しかし、死とはそもそも主語(主体)としての「私」それ自体がなくなることではないのか?
ここで、あらためて「無」について考察してみよう。「無」という言葉によって、われわれはそのつど明晰に何かを理解しているかのようであるが、そうではない。「この部屋には猫がいない」という意味ははっきりしているようである。しかし、この部屋にはテーブルとか椅子とかパソコンとか冷蔵庫とか……さまざまな「存在する」ものがあるだけであり、それに加えて「否定的猫」がいるわけではない。さらに、私が「この部屋には猫がいない」と判断することは、「この部屋には恐竜がいない」と判断することとは別である。私は「猫がいない」ということによって、「恐竜がいない」ということとは異なったことを言いたいのだ。だが、この部屋に「ある」ものを網羅的に挙げてみても、「猫がいない」ことと「恐竜がいない」ことの違いはそこからは出てこない。別の言い方をすれば、この部屋の写真を撮っても、「猫がいない」風景」と「恐竜がいない」風景しという異なった風景が撮られるわけではない。完全に同じ風景なのである。
「否定」は世界に起こる物理現象ではない。それは(そう言うしかないからそう言うにすぎないのだが)「意識」において起こることである。「ここには猫がいない」と判断する人(意識)Aは、「ここには恐竜がいない」と言いたいのではない。両者とも物理現象として「ない」点では同じだが、Aにとっては雲泥の差がある。ここで、「意識」と言うと心理学的事態を想像しがちであり、心理学的事態もまた世界内で(大脳内で?)起こることであるから、むしろ「言語」と言おう。私が言語を学ぶと、私はなぜか世界を「存在と無」という対立でとらえるようになるのだ。そして、さまざまな「無」を語るようになる。「俺には、金もなく、地位もなく、恋人もなく、生きる希望もない」というように。
こういう判断を下すとき、私は何をしているのであろうか? いろいろ答えられる。ヒュームにならって答えれば、私はまず「金」を思い浮かべて、次にそれを消去する。同様に、「地位」を「恋人」を「生きる希望」を思い浮かべて、次にそれらを消去するのだ。つまり、否定としての無は肯定を立てそれを消去するという二重の操作によって、成立する。すぐに気づくことだが、ここには「時間」が、そして「記憶」が関係している。時間がなければ、「まずX、次にY」という操作はできないであろうし、時間があっても記憶がなければ、「まずX」と言った瞬間にすべてを忘れてしまうなら、「次にY」と言っても、XとYとの関係を付けることはできないであろう。われわれは「時間における存在と無」を根源的に知っていて、それに乗っかって二重の操作をしている。あるとき(t1)に猫を思い浮かべて、次のあるとき(t2)にそれを消去するとき、「さっき(t1で)存在していた猫がいま(t2)消えた(無に転じた)」と自然に言えるのだ。
すなわち、「あった」というあり方は、はじめから存在とその否定とを含んでいる。「さっきここに猫がいた」という判断は「さっきここに猫がいた」ことと「いまここに猫がいない」ことの両方を語っている。しかし、このことを忘れて、われわれはおうおうにして「いま何かがない」という否定的判断それ自体がある状態を直接表現していると考えてしまう。「いまここに猫がいない」と語るとき、「いまここに『猫がいない』という状態がある」という主張をしているのだ、という錯覚に陥ってしまうのである。
以上のことは、心の状態のほうがわかりやすいであろう。「私は悲しかった」という判断は「さっき私は悲しかった」ことと「いま私は悲しくない」ことの両方を語っている。しかし私が「いま私は悲しくない」と語るとき「いま『私は悲しくない』という心の状態が生じている」という判断を下しているかのような気がしてくる。このことは、「いまここには何もない」と語るときですらそうである。この場合、「さっきここに何かがあった」ことと「いまここには何もない」ことの両方を語っているのであるが、そのすべてを忘れて、ただ「いまここには『何もない』という状態がある」すなわち、「無がある」という根源的判断を下しているのだと錯覚してしまうのである。
時間の一瞬を切り取ってみれば、「何か」(たとえ「空虚」であっても)が「ある」だけなのであり、そこに無はない。それなのに、言語を学んだわれわれは「無」をはじめから「無がある」こととして理解してしまう。だが、言葉を学んでいない存在者(動物)は、ただ夥しい数の「何かあるもの」に囲まれているだけであって、「無」を、すなわち「無があること」を理解することはできない。
サルトルは「対自」すなわち人間存在は、「無を世界に到来させる存在である」と言ったが、これは正確ではない。むしろ、人間存在ではなく、言語あるいは言語を学んだ人間存在は、「無」ではなく「無という名の有(概念あるいは否定としての有)を世界に到来させる存在」なのである。人間存在といえども、無それ自身を世界に到来させることはできない。無はみずから運動しないばかりではない。無は他のもの(有)によって運動させられ、到来させられることさえできないのだ。もし、無が人間存在によって世界に到来させられうるのであれば、それは人間存在が「無」という言葉を学んだからであり、そのことによって「無」が「無という名の有」に変身したからである。この変身によって、はじめて無は人間存在によって世界に到来させられうる。
こうして、われわれが何ごとかを「ない」とか「無」とか語ったとたんに、語られたものは「無という名の有」に変じてしまう。われわれは「無それ自体」をつかみ損ねてしまい、その抜け殻としての「無という名の有」を手中にしただけであるのに、無それ自体をつかんだつもりになってしまうのだ。同じように、われわれが「死んだら何もなくなる」と呟いたとたんに、語られた内容は「死んだら何もない状態が続く」というふうに変身してしまい、われわれはその「無限に続く無という状態」に対して恐怖を感じるという錯覚に陥ってしまう。これこそ、いかなる科学者も芸術家も文学者も考えない問題ではないだろうか? 哲学者は「ある」と「ない」とにこの世で最も大いなる問題を嗅ぎつけているが、他の分野で知的創造的活動をしている者のほとんどが、このことにこだわらないばかりか気づいてもいないようである。僧侶や宗教家の一部はそれを体験的に知っているかもしれないが、「無」という言葉の問題として知らない。それを精緻に語ることのできる僧侶や宗教家は同時に哲学者である。
「無」について考え尽くした(西洋)哲学者はヘーゲルであろう。若いころからヘーゲルは私にとってずっと嫌いな哲学者であったが、最近、年を取ったのか(?)ヘーゲルが身に沁みて「わかる」ようになってきた。まさに、彼は概念によって世界を(神さえ)語り尽くすことができると確信し、それを企てた。それは、「無」こそ世界の根幹を成しているという主張に基づいているが、それは厳密には無ではなく肯定性の否定性であり、これを無と区別するために「不在」と言うことができよう。
実在のレベルでは「存在」と「無」とはまったく異なった事態であるのに、概念(言葉)のレベルでは、両者は互いに区別できないほど似かよっている、いや同一でさえある。ヘーゲルの『論理学』はこの確認から出発している。しかし、これは数々の違和感をもたらす。私が「生きている」ことと「生きていない(死んでいる)」ことは、恐ろしく違う。だが、こう言語で表現してしまうと、あたかも同一の「私」という言葉が意味するものが、ただ「生きている」か「死んでいる」か、という差異に帰着してしまうように思われるのだ。そして、「私」は死んだ後にも「無」という状態の主体になってしまう。「私」は死後ずっと無であり続けるわけである。しかし、死とはそもそも主語(主体)としての「私」それ自体がなくなることではないのか?
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スマホで私の世界を描く
スマホで私の世界を描く
このスマホを使えば、活用が出来ます。自分が作り上げる世界を描ける。ついでにToDoリストも入れ込みましょう。
この時期にスマホを手に入れた意味はこのためだったんですね。このスマホの意味が分かりかけている。ついでにFBも。それでデカルトのような、生活に対しての謙虚さをスケジュールにいれる。
スマホで中日劇場いくちゃんレミゼのチケット情報を見ていた。オークションで買えるんだ? お金はないけど!
本棚システムのインフラはこの上に作り上げよう。そのために存在しているんでしょう。
キーとしてのブログ
本当のシステムを作るためのインデックスですね。キーとなるのはブログですかね。
コンテンツはブログでも見れるようにしている。この最近のインデックスは触っていないけど。
書き起こしが出来ていない
書き起こしは9/6以来です。何という怠慢。木曜日の玲子さんとの会話で停まっています。
夜10時からの時間は決めたのに。スマホの時間に切り替えましょう。自己管理しかないでしょう。奥さんの言うとおり、誰からも何も言われていない。私の世界の物語。
腕の痕
腕の痕がすごいことになっている。傷が治らないというか、痕が残ったままになっている。こうなったら、長袖です。隠してしまえば、なかったことになります。その内、どうにかなるでしょう。
本棚システムを未唯宇宙につなげる
本棚システムを未唯宇宙につなげましょう。知の入口はスマホで作ります。現有のアプリでつなげればスマートになるし、入りやすくなります。
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腕の痕
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「中華民族」ナショナリズムの限界と束縛
『中国はなぜ軍拡を続けるのか』より 「中華民族」という現実逃避 「中華民族」ナショナリズムと排外主義
「中華民族」の求心力
ここ数年の度重なる「反日」デモをみれば、排外的・全体主義的傾向の強い昨今の「中華民族」ナショナリズムは中国社会に深く根を張ったかのようにみえる。しかし、いくら「中華民族」のエスニック性・原初性を強調しても、社会的平等をある程度実現できなければ、「中華民族」という「想像の共同体」は、大多数の民衆にとっては安寧の地とは成りえないだろう。
歴史的にみれば、ネイションというものは、一定程度の平等性・公共性に裏打ちされていなければ、強力な求心力・凝集性を発揮できない。そして、今日の中国は、政治的にも、法的にも、経済的にも、文化的にも、平等性が著しく不足している。
このような「極端な不平等」は、中国社会において公共性に関する意識がなかなか発達しないことの一因となっている。また、「極端な不平等」という環境下では、政権側がどんなに文化や外敵の共有を社会に対して強調しても(「上からのナショナリズム」)、その効果には限界がある。特に義務教育の崩壊が目立つようになっている農村部や、現体制から抑圧されているチペットやウイグルなどのエスニック・マイノリティーに対する「上からのナショナリズム」の浸透の度合いは決して高いとはいえない。
ナショナリズムと「民主化」要求とは、本来であれば矛盾する概念ではなく、中国ではネイション意識を育む傾向の強い知識エリートこそが、「民主化」要求運動の主力および予備軍を形成してきた。
共産党は、ネイション意識・愛国心・公共精神に富む知識エリートと良好な関係を維持し、理想的には完全なる吸収・一体化を図りたいが、独裁をどうしても放棄したくない。それゆえに愛国心の塊のような大学生たちが天安門広場に集まって「民主化」要求をした時には、これを暴力で黙らせた。また、この天安門事件をきっかけとして、ナショナリズムのコンテンツの差し替え、つまり普遍的価値観にもとづくナショナリズムから文化的フィクションに依拠したナショナリズムヘの転換を図り、なんとか「民主化」要求につながらないネイション意識の普及につとめようとしている。
ところが、そうした新たなナショナリズムに染まって「反日」デモを企画したり、それに参加したりする民衆が中国各地で増加する一方で、「民主化」要求の火種そのものは消えていない。近年中東で顕在化した「アラブの春」と呼ばれる反独裁の動きに呼応しようとする中国国内の動き(「新公民運動」)も小規模ながらみられた。また、香港を舞台とした「民主化」要求運動も、絶望的な環境に屈することなくしぶとく続いている。
「日本軍国主義」の脅威が繰り返し強調される愛国主義教育を長年受けてきたのにもかかわらず、自発的に日本に留学する道を選ぶ学生も後を絶たない。日本で学ぶ十万人前後の中国人留学生の存在は、外敵としての日本というイメージを強調する愛国主義教育運動が、かならずしも全ての若い世代の思考と心情を支配できていないことを物語っている。筆者の中国政治のゼミにもこうした留学生か集まってくる。
また、愛国主義教育運動が展開されるようになったこの一一十数年間、群体性事件は大幅に増加し、社会は混迷の様相を強めている。外敵の存在を強調するナショナリズムの発揚は、中国社会における日本や米国のイメージ悪化には貢献しているものの、国内に充満するフラストレーションを緩和する特効薬になっているわけではない。
共産党が「中国固有の伝統文化」に根付いたナショナリズムを強調している傍らで、キリスト教の非合法的「地下教会」が増え続け、いまや中国のキリスト教徒は一説によれば一億人を超えているという状況も注目に値する。
読者のなかには、本書をここまで読み進めて、筆者が「軍拡」からだいぶ外れた議論をしているという印象を持つ方もいらっしゃるかもしれない。しかし、中国のこうした側面を把握していなければ、なぜ中国において大規模な軍隊と準軍事組織が維持されなければならないのかという問題の最も根本的な背景を見落とすことになる。
中国は、一見強大な国にみえるが、実はまとまりに乏しい。前述したように、孫文は、中国の民衆を「バラバラの砂」と表現し、中国の民衆をまとめるために、「民権主義」(民主主義と同義語)・「民族主義」(ナショナリズム)・「民生主義」(格差是正と福利厚生の充実)が必要であると説いた。また、彼は、中国の政治的統一を達成するうえで軍隊の役割を重視し、政党直属の軍隊、すなわち「党軍」の建設に中国で最初に着手した。
孫文の視座にもとづいていえば、現在の中国には実質的に「民権主義」が欠落しており、「民生主義」も極めて不充分であるため、中国をまとめるうえで「民族主義」と「党軍」への依存度が必然的に高まる。しかし、国内住民の大半が主権へのアクセスを望めない状態における「民族主義」の発揚は、約十四億の民衆をまとめるうえで効果的な処方箋になっているとはいいがたい。
排外主義と外交の硬直化
「民権主義」の伸長、すなわち「民主化」は、一見効果的な処方箋のようにみえる。しかし、十四億もの人間からなる集団にそれを投与した場合、それはかえって分裂と混乱に拍車をかける毒となるおそれがある。だから、共産党は「民主化」という劇薬をなかなか飲むことができず、その代わりに、愛国主義教育運動という細胞の移植手術を繰り返して、なんとか中国社会に「反体制」という名の癌が蔓延しないようにつとめているように見受けられる。
これによって中国国内の言論空間では、神話にもとづく自民族優位主義や排外主義が存在感を増している。しかし、自民族の優位性の強調や排外的感情の扇動が安定した統治を実現するための効果的な処方箋となりえないことは、日本の過去の経験に照らしても明らかであろう。一九三〇年代に日本が普遍的価値観や国際協調に背を向け、狭院な自民族優位主義や排外主義に傾いた結果は、破滅的なものであった。
今日の中国にもそうした兆候をみいだすことができる。すなわち統治権力が社会統合を促進するために、意図的に排外主義と自民族優位主義を喚起することによって世論を操作しようとしたが、排外的となった世論に統治権力の方が束縛されてしまい、国際社会との協調が難しくなるというディレンマが今日の中国で表面化している。
日本は、かつてそうしたディレンマを克服できなかった結果として第二次世界大戦に突入した。そして、敗戦によって普遍的価値観を強く意識した「主権在民」の国家体制へと移行し、民間社会に対する国家の求心力が高まるようになった(国家権力と民間社会の間の摩擦がなくなったわけではない)。それゆえに、戦後の日本では、国家が社会統合を促進するために文化にもとづく優越心や合理性を欠いた排外的情念を率先して煽る必要性が低減したといえよう。
一方、中国ではいまだに「主権在民」が実質的に確立されておらず、ネイション・ステイトという枠組み自体は存在するものの、これまで述べてきたように、社会の平等性に重大な欠陥を抱えており、それを主要因として国家に対して常に一定の遠心力がかかっている状態が続いている。このため、国家権力(執政党)が求心力向上のために排外主義を煽るという悪習から脱却することができない。
共産党が排外的ナショナリズムに依存する限り、国内の民衆の面前で外に向けてファイティング・ポーズをとらねばならなくなる。そして、これが日本を含めた周辺諸国との関係を歪めていき、そこから生じる外交摩擦がさらに排外的心情を燃え上がらせることになる。
実際、ここ数年来、中国の外交当局は、周辺国に対して妥協こ讃歩をすることが極めて困難な状況に陥っている。たとえば、尖閣諸島問題を日中間の懸案リストから外すべく、二〇〇八年半ばに日中両政府が東シナ海における海底資源の共同開発に関して合意をしても、中国国内において政府機関や研究者も参加する形で世論が猛烈に反発したため、結局それを実行することができないという問題が現実に発生している。
その後の展開は、多くの読者も御存知のとおりであり、尖閣諸島問題をめぐって日中は対立の度合いを深めることとなった。まさにそうした事態を未然に回避するために、日本政府と当時の胡錦濤政権は海洋資源の共同開発というワクチンを発明したのであるが、なんと中国世論がその接種を拒否してしまったのだから、手の施しようがない。
中国外交部は、長年、共同開発に関して水面下で日本政府と交渉を続けていたものの、中国国内では海洋法をめぐる日本政府の立場を過激な言論を用いて批判し、ファイティング・ポーズをとり続けた。外交部の対日批判には、日本政府が国際法、戦後国際秩序、そして中国の主権に挑戦しているという扇動的な内容のものが実に多く含まれている。このため、いざ日本政府との間で国際法に則したフェアな合意に達しても、中国国内で前向きな反応が生まれず、逆に「日清戦争に敗北した時の下関条約以来の屈辱だ」などという極めて屈折した批判がネット言論を中心に噴出することとなった。
こうした由々しき事態は、もはや日中関係の枠内にとどまらない。二〇一六年七月、ハーグの常設仲裁裁判所は、南シナ海をめぐる問題について判断を示し、そのなかで中国政府の南シナ海に対する主張に国際法的根拠が全くないということを明らかにした。これに対して、中国政府は、南シナ海問題で激高していた世論を仲裁裁判所の判断に依拠してなだめようとするのではなく、裁判所の判断を「紙くず」として無視する立場を宣言した。つまり、中国共産党は、自らが成長させた排外的ナショナリズムに圧倒されて、周辺諸国のみならず国際法との対立も余儀なくされているのである。
中国の場合、共産党が新聞・雑誌・テレビ・ラジオといったマス・メディアを牛耳っているため、これらのマス・メディアが社会の声を政府にぶつけるという役割を充分にはたせていない。このため、共産党による管理がまだ完璧ではないネット空間での言論が社会で注目され、影響力を拡大している。
また、共産党自身、新聞こ箱誌・テレビ・ラジオをほぼ完全に飼い馴らしてしまったため、社会の動静をうかがうためにネット言論に目を向けねばならなくなっている。したがって、ネット空間における言説は、デマも含めて、新聞やテレビの報道によって相対化されないまま社会に拡散しやすく、また政策決定現場にも直に伝わりやすい。
共産党は、マス・メディアの健全な発展を阻害してきたため、世論の動向をはかるうえで、ネット言論に依存せねばならなくなった。そして、そのネット空間では、まさに共産党自身が奨励してきた自民族優位主義や排外主義の空気が充満している。それを目の当たりにして共産党は、対外協調に二の足を踏むようになっている。
このようにして、自らが撒いた排外主義の種から大きなツタが生えて協調外交をがんじがらめにしつつあるなかで、近年の共産党は、独自の「党軍」を威嚇手段として用いて周辺国に譲歩を迫るという姿勢を強めている。すなわち自己を改めるのではなく、他者(周辺国との既存の国際秩序)を改めさせようとする傾向が顕在化している。
外敵の存在を強調するナショナリズムは、一見、民衆を鳩合するうえで便利な手段にみえる。しかし、それによって民衆の目を外に向け、普遍的価値観に根ざした改革を先延ばしにしても、独裁に起因する国内矛盾そのものは解消されないまま蓄積し続けるため、国内から政権にかかる圧力は膨張していく。また、それは、社会において非常にネガティヴな対外認識をひろめるために、中国の発展に必要な周辺諸国との良好な関係の維持を難しくし、国外から政権にかかる圧力の増大をも招く。
現実逃避をした先に桃源郷はないのである。
「中華民族」の求心力
ここ数年の度重なる「反日」デモをみれば、排外的・全体主義的傾向の強い昨今の「中華民族」ナショナリズムは中国社会に深く根を張ったかのようにみえる。しかし、いくら「中華民族」のエスニック性・原初性を強調しても、社会的平等をある程度実現できなければ、「中華民族」という「想像の共同体」は、大多数の民衆にとっては安寧の地とは成りえないだろう。
歴史的にみれば、ネイションというものは、一定程度の平等性・公共性に裏打ちされていなければ、強力な求心力・凝集性を発揮できない。そして、今日の中国は、政治的にも、法的にも、経済的にも、文化的にも、平等性が著しく不足している。
このような「極端な不平等」は、中国社会において公共性に関する意識がなかなか発達しないことの一因となっている。また、「極端な不平等」という環境下では、政権側がどんなに文化や外敵の共有を社会に対して強調しても(「上からのナショナリズム」)、その効果には限界がある。特に義務教育の崩壊が目立つようになっている農村部や、現体制から抑圧されているチペットやウイグルなどのエスニック・マイノリティーに対する「上からのナショナリズム」の浸透の度合いは決して高いとはいえない。
ナショナリズムと「民主化」要求とは、本来であれば矛盾する概念ではなく、中国ではネイション意識を育む傾向の強い知識エリートこそが、「民主化」要求運動の主力および予備軍を形成してきた。
共産党は、ネイション意識・愛国心・公共精神に富む知識エリートと良好な関係を維持し、理想的には完全なる吸収・一体化を図りたいが、独裁をどうしても放棄したくない。それゆえに愛国心の塊のような大学生たちが天安門広場に集まって「民主化」要求をした時には、これを暴力で黙らせた。また、この天安門事件をきっかけとして、ナショナリズムのコンテンツの差し替え、つまり普遍的価値観にもとづくナショナリズムから文化的フィクションに依拠したナショナリズムヘの転換を図り、なんとか「民主化」要求につながらないネイション意識の普及につとめようとしている。
ところが、そうした新たなナショナリズムに染まって「反日」デモを企画したり、それに参加したりする民衆が中国各地で増加する一方で、「民主化」要求の火種そのものは消えていない。近年中東で顕在化した「アラブの春」と呼ばれる反独裁の動きに呼応しようとする中国国内の動き(「新公民運動」)も小規模ながらみられた。また、香港を舞台とした「民主化」要求運動も、絶望的な環境に屈することなくしぶとく続いている。
「日本軍国主義」の脅威が繰り返し強調される愛国主義教育を長年受けてきたのにもかかわらず、自発的に日本に留学する道を選ぶ学生も後を絶たない。日本で学ぶ十万人前後の中国人留学生の存在は、外敵としての日本というイメージを強調する愛国主義教育運動が、かならずしも全ての若い世代の思考と心情を支配できていないことを物語っている。筆者の中国政治のゼミにもこうした留学生か集まってくる。
また、愛国主義教育運動が展開されるようになったこの一一十数年間、群体性事件は大幅に増加し、社会は混迷の様相を強めている。外敵の存在を強調するナショナリズムの発揚は、中国社会における日本や米国のイメージ悪化には貢献しているものの、国内に充満するフラストレーションを緩和する特効薬になっているわけではない。
共産党が「中国固有の伝統文化」に根付いたナショナリズムを強調している傍らで、キリスト教の非合法的「地下教会」が増え続け、いまや中国のキリスト教徒は一説によれば一億人を超えているという状況も注目に値する。
読者のなかには、本書をここまで読み進めて、筆者が「軍拡」からだいぶ外れた議論をしているという印象を持つ方もいらっしゃるかもしれない。しかし、中国のこうした側面を把握していなければ、なぜ中国において大規模な軍隊と準軍事組織が維持されなければならないのかという問題の最も根本的な背景を見落とすことになる。
中国は、一見強大な国にみえるが、実はまとまりに乏しい。前述したように、孫文は、中国の民衆を「バラバラの砂」と表現し、中国の民衆をまとめるために、「民権主義」(民主主義と同義語)・「民族主義」(ナショナリズム)・「民生主義」(格差是正と福利厚生の充実)が必要であると説いた。また、彼は、中国の政治的統一を達成するうえで軍隊の役割を重視し、政党直属の軍隊、すなわち「党軍」の建設に中国で最初に着手した。
孫文の視座にもとづいていえば、現在の中国には実質的に「民権主義」が欠落しており、「民生主義」も極めて不充分であるため、中国をまとめるうえで「民族主義」と「党軍」への依存度が必然的に高まる。しかし、国内住民の大半が主権へのアクセスを望めない状態における「民族主義」の発揚は、約十四億の民衆をまとめるうえで効果的な処方箋になっているとはいいがたい。
排外主義と外交の硬直化
「民権主義」の伸長、すなわち「民主化」は、一見効果的な処方箋のようにみえる。しかし、十四億もの人間からなる集団にそれを投与した場合、それはかえって分裂と混乱に拍車をかける毒となるおそれがある。だから、共産党は「民主化」という劇薬をなかなか飲むことができず、その代わりに、愛国主義教育運動という細胞の移植手術を繰り返して、なんとか中国社会に「反体制」という名の癌が蔓延しないようにつとめているように見受けられる。
これによって中国国内の言論空間では、神話にもとづく自民族優位主義や排外主義が存在感を増している。しかし、自民族の優位性の強調や排外的感情の扇動が安定した統治を実現するための効果的な処方箋となりえないことは、日本の過去の経験に照らしても明らかであろう。一九三〇年代に日本が普遍的価値観や国際協調に背を向け、狭院な自民族優位主義や排外主義に傾いた結果は、破滅的なものであった。
今日の中国にもそうした兆候をみいだすことができる。すなわち統治権力が社会統合を促進するために、意図的に排外主義と自民族優位主義を喚起することによって世論を操作しようとしたが、排外的となった世論に統治権力の方が束縛されてしまい、国際社会との協調が難しくなるというディレンマが今日の中国で表面化している。
日本は、かつてそうしたディレンマを克服できなかった結果として第二次世界大戦に突入した。そして、敗戦によって普遍的価値観を強く意識した「主権在民」の国家体制へと移行し、民間社会に対する国家の求心力が高まるようになった(国家権力と民間社会の間の摩擦がなくなったわけではない)。それゆえに、戦後の日本では、国家が社会統合を促進するために文化にもとづく優越心や合理性を欠いた排外的情念を率先して煽る必要性が低減したといえよう。
一方、中国ではいまだに「主権在民」が実質的に確立されておらず、ネイション・ステイトという枠組み自体は存在するものの、これまで述べてきたように、社会の平等性に重大な欠陥を抱えており、それを主要因として国家に対して常に一定の遠心力がかかっている状態が続いている。このため、国家権力(執政党)が求心力向上のために排外主義を煽るという悪習から脱却することができない。
共産党が排外的ナショナリズムに依存する限り、国内の民衆の面前で外に向けてファイティング・ポーズをとらねばならなくなる。そして、これが日本を含めた周辺諸国との関係を歪めていき、そこから生じる外交摩擦がさらに排外的心情を燃え上がらせることになる。
実際、ここ数年来、中国の外交当局は、周辺国に対して妥協こ讃歩をすることが極めて困難な状況に陥っている。たとえば、尖閣諸島問題を日中間の懸案リストから外すべく、二〇〇八年半ばに日中両政府が東シナ海における海底資源の共同開発に関して合意をしても、中国国内において政府機関や研究者も参加する形で世論が猛烈に反発したため、結局それを実行することができないという問題が現実に発生している。
その後の展開は、多くの読者も御存知のとおりであり、尖閣諸島問題をめぐって日中は対立の度合いを深めることとなった。まさにそうした事態を未然に回避するために、日本政府と当時の胡錦濤政権は海洋資源の共同開発というワクチンを発明したのであるが、なんと中国世論がその接種を拒否してしまったのだから、手の施しようがない。
中国外交部は、長年、共同開発に関して水面下で日本政府と交渉を続けていたものの、中国国内では海洋法をめぐる日本政府の立場を過激な言論を用いて批判し、ファイティング・ポーズをとり続けた。外交部の対日批判には、日本政府が国際法、戦後国際秩序、そして中国の主権に挑戦しているという扇動的な内容のものが実に多く含まれている。このため、いざ日本政府との間で国際法に則したフェアな合意に達しても、中国国内で前向きな反応が生まれず、逆に「日清戦争に敗北した時の下関条約以来の屈辱だ」などという極めて屈折した批判がネット言論を中心に噴出することとなった。
こうした由々しき事態は、もはや日中関係の枠内にとどまらない。二〇一六年七月、ハーグの常設仲裁裁判所は、南シナ海をめぐる問題について判断を示し、そのなかで中国政府の南シナ海に対する主張に国際法的根拠が全くないということを明らかにした。これに対して、中国政府は、南シナ海問題で激高していた世論を仲裁裁判所の判断に依拠してなだめようとするのではなく、裁判所の判断を「紙くず」として無視する立場を宣言した。つまり、中国共産党は、自らが成長させた排外的ナショナリズムに圧倒されて、周辺諸国のみならず国際法との対立も余儀なくされているのである。
中国の場合、共産党が新聞・雑誌・テレビ・ラジオといったマス・メディアを牛耳っているため、これらのマス・メディアが社会の声を政府にぶつけるという役割を充分にはたせていない。このため、共産党による管理がまだ完璧ではないネット空間での言論が社会で注目され、影響力を拡大している。
また、共産党自身、新聞こ箱誌・テレビ・ラジオをほぼ完全に飼い馴らしてしまったため、社会の動静をうかがうためにネット言論に目を向けねばならなくなっている。したがって、ネット空間における言説は、デマも含めて、新聞やテレビの報道によって相対化されないまま社会に拡散しやすく、また政策決定現場にも直に伝わりやすい。
共産党は、マス・メディアの健全な発展を阻害してきたため、世論の動向をはかるうえで、ネット言論に依存せねばならなくなった。そして、そのネット空間では、まさに共産党自身が奨励してきた自民族優位主義や排外主義の空気が充満している。それを目の当たりにして共産党は、対外協調に二の足を踏むようになっている。
このようにして、自らが撒いた排外主義の種から大きなツタが生えて協調外交をがんじがらめにしつつあるなかで、近年の共産党は、独自の「党軍」を威嚇手段として用いて周辺国に譲歩を迫るという姿勢を強めている。すなわち自己を改めるのではなく、他者(周辺国との既存の国際秩序)を改めさせようとする傾向が顕在化している。
外敵の存在を強調するナショナリズムは、一見、民衆を鳩合するうえで便利な手段にみえる。しかし、それによって民衆の目を外に向け、普遍的価値観に根ざした改革を先延ばしにしても、独裁に起因する国内矛盾そのものは解消されないまま蓄積し続けるため、国内から政権にかかる圧力は膨張していく。また、それは、社会において非常にネガティヴな対外認識をひろめるために、中国の発展に必要な周辺諸国との良好な関係の維持を難しくし、国外から政権にかかる圧力の増大をも招く。
現実逃避をした先に桃源郷はないのである。
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アメリカのシェールガス・オイル開発 水圧破砕の環境への影響 進行中の情報隠蔽
『大惨事と情報隠蔽』より アメリカのシェールガス・オイル開発 非在来型ガス・オイル採掘の経済性と原油価格
アメリカのシェールガス・オイル開発 進行中の情報隠蔽
水圧破砕の環境への影響
一九九〇年代末から二〇〇〇年代初め、油田開発サービス大手のハリバートンは、水圧破砕の技術をもとにシェール層から天然ガスと原油を採取する方法をさらに進化させた。当時のCEOはディック・チェイニーだった。チェイニーは一九九五年から二〇〇〇年までハリバートンのCEOを務め、その後、二〇〇一年から二〇〇九年まで、ジョージ・W・ブッシュ政権で二期にわたって副大統領を務めた(ちなみに、それ以前の一九八九年から一九九三年のブッシュ(父)政権では国防長官を務め、任期中の一九九〇年から九一年に湾岸戦争があった)。チェイニーは八年間の副大統領の任期中、NEPDG(国家エネルギー政策策定グループ)というエネルギー・タスクフォースを組織し、非在来型のガスやオイルの国内開発を促進した。要するに、チェイニーはハリバートン時代にCEOとして水圧破砕の技術を大きく進歩させ、副大統領になってからはその技術を駆使してシェール開発を推進したのである。
チェイニーが創設したNEPDGは、二〇〇一年の報告書で水圧破砕法について次のように記している。「この技術は、ガス井の生産性を高めるために使用する一般的な方法である。ガス井を刺激することで、岩石に閉じ込められたガスをより多く採取できるようにするのだ。つまり、流体およびプロパントと呼ばれる物質(砂を使うことが多い)を注入してシェール層に亀裂を入れ、岩石の亀裂を自然に広げてガスを通りやすくしてやるのである。この水圧破砕によって、ガスの流出率が二〇倍も増大するシェール層もあるだろうとされている」
だが報告書は肝心な点を述べていない。水圧破砕で使う水には、ガスを効率よく亀裂に通すため、五〇〇種類もの化学物質が加えられているのである。報告書の内容を多少補足すると、水圧破砕法とは水と化学物質を混ぜた流体を非常に高い圧力(九二〇気圧/一万三五〇〇psi)でシェール層に注入し、それによって地下四〇〇メートルから五二〇〇メートルのシェール層に亀裂を入れて、ガスを表面に出てきやすくするというものになる。そうして亀裂を作ったあと、プロパント(前述のように一般的に砂が使われる)を使って亀裂が閉じないように固定し、ガスが放出されつづけるようにするのである。
水圧破砕時に注入される流体の成分は九九・五パーセントが水と砂だが、少量とはいえ加えられている化学物質(ハリバートンが考案し今も企業秘密とされている)は非常に環境に悪い。そのうちのいくつかは人体にも環境にも大きな害を及ぼすことが認められている。たとえば、エチレングリコールは腎臓を損なう可能性があり、ホルムアルデヒドはがんを誘発する物質として知られている。またナフタレンも発がん性が疑われている。
またNEPDGの報告書には、水圧破砕が大量の水を消費することにも言及がない。コーネル大学の水圧破砕の専門家、アンソニー・イングラフィー教授によると、シェールガス田での天然ガス生産に必要な水量は、場合によっては従来のガス田で必要とされる水量の五〇倍から一〇〇倍以上にもなるという。消費される水量はシェール層によるが、たとえばテキサス州の典型的なシェールガス井の場合、複数回行われる水圧破砕で必要な水量は二万三〇〇〇トンである(一つのシェールガス井でのガス採取には約二〇回の水圧破砕がなされる)。これに対して、従来型のカリフォルニア州のガス田の場合は、約三〇〇トンから一〇〇〇トンですむ。ちなみに、シェール層は地層圧力が弱いため、最初の採掘だけでなくその後の数年間も生産性を高めるために水圧破砕が必要となるが、右の数字にはあとから使用される水量は含まれていない。
もはやそれほど驚きはないだろうが、水圧破砕はアメリカの厳格な環境汚染基準に明らかに違反していた。当時副大統領だったチェイニーは、二〇〇五年のエネルギー政策法の規制事項から水圧破砕時の流体とシェール坑井による大気汚染の項目が除外されるよう、いくつかの条項を修正する方向で動いたという。アメリカ政府がシェール開発に関する環境規制を緩和した時期と、エネルギー資源価格が上昇した時期とが重なっているのは注目すべきことだろう。これはつまり、原油や天然ガスの価格が値上がりし、シェール開発の採算がとれるようになったとき、規制が緩和されたということを意味している。実際、二〇〇五年の原油価格は年間平均で一バレル当たり五四ドルという高水準であり、天然ガスも井戸元価格の年間平均で一〇○○立方メートル当たり二五五ドルを超えていた。こうしてエネルギー資源の価格上昇と環境規制の緩和を受け、アメリカでは二〇〇五年から二〇一三年にかけて、三一のシェールガス埋蔵エリアで八万二〇〇〇以上の坑井が掘削された。それと同時に、約一〇億トンの水が汚染され、一四〇〇平方キロメートル以上の土地が損害を受けた。
水圧破砕の環境への影響は、化学物質による水質汚染のために大量の水資源が向こう数百年にわたって使えなくなることだけにとどまらない。シェールガスやシェールオイルの生産終了後しばらくしてから周辺地域が汚染される可能性もあり、これも大きな問題となっている。原因としては、生産が終了して坑井をふさぐ際、坑井壁のセメンティング作業に不備があったり、坑井閉鎖後数十年のあいだにスチール材が腐食し、坑井の状態が劣化するといったことが考えられる。
これについてはまず、先例として過去の油田やガス田の状況を引いておきたい。一九九二年の米環境保護庁(EPA)の報告によると、当時アメリカでは約一二○万の従来型の油田やガス田が閉鎖されていたが、。そのうちの二〇万、つまり全体の約一六パーセントがきちんとふさがれていなかった。なかには周辺の環境を汚染していたものもあったという。それでも、これらの油田やガス田はシェール坑井に比べれば使用していた水量ははるかに少なかった。二〇〇三年のシュルンベルジェ・オイルフィールド・レビューはこう記す。「初期のガス井以来、石油・ガス業界では炭化水素の地表への流出が制御できないという問題にずっと直面してきた。(中略)これは世界の多くの資源埋蔵地域で坑井がもたらす重大な問題だ」
では、シェール坑井の状況はどうか。ペンシルペニア州の統計では、二〇〇九年から二〇一一年にかけて掘削された新たなシェール坑井のうち、約六パーセントから七パーセントが構造的に完全な状態ではなかったという結果が示されている。米会計検査院は次のように述べる。
「水圧破砕の流体が飲料水用の帯水層に直接混入するという事態は起きにくいだろう。というのも、一般に作業は地下六〇〇〇フィート〔約一八〇〇メートル〕から一万フィート〔約三〇〇〇メートル〕の深さで行われるのに対し、地下水脈は地下一〇〇〇フィート〔約三〇〇メートル〕のところにあるからである。
(中略)シェール層への亀裂はほぼ垂直に入り、それから数百フィート横に伸びて、構造や強度の異なる別の岩にぶつかる前に止まる。(中略)たとえば、オクラホマ州のウッドフォード・シェールガス田の場合、二〇〇以上の亀裂を調べたところ、帯水層と標準的な亀裂の位置は七五〇〇フィート〔約二三〇〇メートル〕離れており、もっとも帯水層に近いものでも四〇〇〇フィート〔約一二○○メートル〕の距離があった。テキサス州のバーネット・シェールガス田の三〇〇〇の亀裂の場合も、帯水層と標準的な亀裂の距離は四八〇〇フィート〔約一五〇〇メートル〕あり、もっとも帯水層に近いものでも二八〇〇フィート〔約八五〇メートル〕は離れていた。だがそれでも、地下でガスや化学物質が漏れだして水質が汚染されるリスクはある。地下で漏れが起きると考えられるのは、坑井のケーシングやセメンティング作業が不適切だった場合、人工的に作られた亀裂が元からあったひびや断層と交差して亀裂が誘発される場合、枯渇した坑井や閉鎖された坑井がきちんとふさがれなかった場合などである。加えて、誘発されてできた亀裂が時を経て大きくなり、帯水層まで達する可能性も危惧される。(中略)また環状の坑井壁のケーシングの際、セメントの注入が不適切だったり、セメントに効果がなかったりする場合は、高圧力に耐えきれず割れたり壊れたりすることもあるだろう。ケーシングとセメンティング作業自体は、従来のガス田や油田でも行われているものだが、水圧破砕が用いられる非在来型の坑井には、従来型の坑井にはない特徴がある。たとえば、一度の採取のために破砕が何度も実施されるため高圧にさらされる期間が長期にわたる点である。さらに、生産量が大幅に落ちたり、生産量が推定埋蔵量より少なかったりしたときも、主に坑井の経済的寿命を伸ばすため、新たな破砕が行われうる」
たいていの場合、平均的なシェールガス井には二五年間の保全保証期間があるが、この期間が過ぎたあと何か起きるのかは誰にもわからない。過去に注入された化学物質入りの水が漏れだしたり、あるいは逆流したりするかもしれない。また、閉鎖された坑井の古いパイプからメタンガスが漏れるかもしれない。実際、研究によると、地下にはひび割れや長く伸びた断層が存在するため、汚染物質は長時間かけて分散するらしい。堆積物が複雑に分布していること、地層ごとに水圧的特性が大きく違うこと、この二点が合わさると、汚染物質が通りやすい道と汚染物質が停滞する部分が混在するようになる。そしてその混在のせいで、汚染物質は変則的な移動をすることになるという。たとえば、ミシシッピ州のコロンブス空軍基地で行われた野外での広域分散実験では、汚染物質は主な分散から相当期間を経たあとも長い時間かけて到着しつづけることが示された。そこでは他の多くの実験や理論モデルと合わせ、ある一定の時間スケールで到着する汚染物質の量が減衰していくという見解にはあまり根拠がないのではないかと推定されている。要するに、汚染物質は何十年、何百年にわたって漏れる可能性があるのである。
また、多くの独立研究やシェール埋蔵エリアの地域住民からの報告、土地所有者の証言によると、水圧破砕法は地下深くに水を注入するときだけでなく、使用した水を回収するときにも水源を汚染するという。水を逆流させるときに、化学物質やメタンガスが飲料水の水源に漏れだすのである。
水質汚染に加え、メタンガスの漏洩による大気汚染も問題とされている。二〇一二年二月には、米大洋大気庁とコロラド大学ボルダー校が調査を実施し、デンバー近郊のシェールガス田で産出されたメタンガス(天然ガス)のうち四八Iセントが大気中に放出されていることが判明した。アメリカ地球物理学連合の報告によると、ユタ州のユインタ盆地では全生産量の九パーセントというさらに多量のメタンガスの漏れがあったという。対して、米環境保護庁(EPA)は二〇〇九年の全天然ガス生産量のうち漏洩したのは、二・四パーセントであるとした。研究によっては、メタンガス放出が地球温暖化に及ぼす相対的な影響は、二酸化炭素の七二倍に上るともいわれている。また次のような見解もある。「平均的なシェールガス田は生産終了まで、総生産量の三・六から七・九パーセントのメタンガスを大気中に放出する。従来のガス田のメタン放出量が一・七から六八Iセントと推定されることからすると、シェールガス田のメタン放出量は、少なくともこれまでのガス田に比べ三〇パーセント多い。場合によっては二倍以上だと思われる」
アメリカのシェールガス・オイル開発 進行中の情報隠蔽
水圧破砕の環境への影響
一九九〇年代末から二〇〇〇年代初め、油田開発サービス大手のハリバートンは、水圧破砕の技術をもとにシェール層から天然ガスと原油を採取する方法をさらに進化させた。当時のCEOはディック・チェイニーだった。チェイニーは一九九五年から二〇〇〇年までハリバートンのCEOを務め、その後、二〇〇一年から二〇〇九年まで、ジョージ・W・ブッシュ政権で二期にわたって副大統領を務めた(ちなみに、それ以前の一九八九年から一九九三年のブッシュ(父)政権では国防長官を務め、任期中の一九九〇年から九一年に湾岸戦争があった)。チェイニーは八年間の副大統領の任期中、NEPDG(国家エネルギー政策策定グループ)というエネルギー・タスクフォースを組織し、非在来型のガスやオイルの国内開発を促進した。要するに、チェイニーはハリバートン時代にCEOとして水圧破砕の技術を大きく進歩させ、副大統領になってからはその技術を駆使してシェール開発を推進したのである。
チェイニーが創設したNEPDGは、二〇〇一年の報告書で水圧破砕法について次のように記している。「この技術は、ガス井の生産性を高めるために使用する一般的な方法である。ガス井を刺激することで、岩石に閉じ込められたガスをより多く採取できるようにするのだ。つまり、流体およびプロパントと呼ばれる物質(砂を使うことが多い)を注入してシェール層に亀裂を入れ、岩石の亀裂を自然に広げてガスを通りやすくしてやるのである。この水圧破砕によって、ガスの流出率が二〇倍も増大するシェール層もあるだろうとされている」
だが報告書は肝心な点を述べていない。水圧破砕で使う水には、ガスを効率よく亀裂に通すため、五〇〇種類もの化学物質が加えられているのである。報告書の内容を多少補足すると、水圧破砕法とは水と化学物質を混ぜた流体を非常に高い圧力(九二〇気圧/一万三五〇〇psi)でシェール層に注入し、それによって地下四〇〇メートルから五二〇〇メートルのシェール層に亀裂を入れて、ガスを表面に出てきやすくするというものになる。そうして亀裂を作ったあと、プロパント(前述のように一般的に砂が使われる)を使って亀裂が閉じないように固定し、ガスが放出されつづけるようにするのである。
水圧破砕時に注入される流体の成分は九九・五パーセントが水と砂だが、少量とはいえ加えられている化学物質(ハリバートンが考案し今も企業秘密とされている)は非常に環境に悪い。そのうちのいくつかは人体にも環境にも大きな害を及ぼすことが認められている。たとえば、エチレングリコールは腎臓を損なう可能性があり、ホルムアルデヒドはがんを誘発する物質として知られている。またナフタレンも発がん性が疑われている。
またNEPDGの報告書には、水圧破砕が大量の水を消費することにも言及がない。コーネル大学の水圧破砕の専門家、アンソニー・イングラフィー教授によると、シェールガス田での天然ガス生産に必要な水量は、場合によっては従来のガス田で必要とされる水量の五〇倍から一〇〇倍以上にもなるという。消費される水量はシェール層によるが、たとえばテキサス州の典型的なシェールガス井の場合、複数回行われる水圧破砕で必要な水量は二万三〇〇〇トンである(一つのシェールガス井でのガス採取には約二〇回の水圧破砕がなされる)。これに対して、従来型のカリフォルニア州のガス田の場合は、約三〇〇トンから一〇〇〇トンですむ。ちなみに、シェール層は地層圧力が弱いため、最初の採掘だけでなくその後の数年間も生産性を高めるために水圧破砕が必要となるが、右の数字にはあとから使用される水量は含まれていない。
もはやそれほど驚きはないだろうが、水圧破砕はアメリカの厳格な環境汚染基準に明らかに違反していた。当時副大統領だったチェイニーは、二〇〇五年のエネルギー政策法の規制事項から水圧破砕時の流体とシェール坑井による大気汚染の項目が除外されるよう、いくつかの条項を修正する方向で動いたという。アメリカ政府がシェール開発に関する環境規制を緩和した時期と、エネルギー資源価格が上昇した時期とが重なっているのは注目すべきことだろう。これはつまり、原油や天然ガスの価格が値上がりし、シェール開発の採算がとれるようになったとき、規制が緩和されたということを意味している。実際、二〇〇五年の原油価格は年間平均で一バレル当たり五四ドルという高水準であり、天然ガスも井戸元価格の年間平均で一〇○○立方メートル当たり二五五ドルを超えていた。こうしてエネルギー資源の価格上昇と環境規制の緩和を受け、アメリカでは二〇〇五年から二〇一三年にかけて、三一のシェールガス埋蔵エリアで八万二〇〇〇以上の坑井が掘削された。それと同時に、約一〇億トンの水が汚染され、一四〇〇平方キロメートル以上の土地が損害を受けた。
水圧破砕の環境への影響は、化学物質による水質汚染のために大量の水資源が向こう数百年にわたって使えなくなることだけにとどまらない。シェールガスやシェールオイルの生産終了後しばらくしてから周辺地域が汚染される可能性もあり、これも大きな問題となっている。原因としては、生産が終了して坑井をふさぐ際、坑井壁のセメンティング作業に不備があったり、坑井閉鎖後数十年のあいだにスチール材が腐食し、坑井の状態が劣化するといったことが考えられる。
これについてはまず、先例として過去の油田やガス田の状況を引いておきたい。一九九二年の米環境保護庁(EPA)の報告によると、当時アメリカでは約一二○万の従来型の油田やガス田が閉鎖されていたが、。そのうちの二〇万、つまり全体の約一六パーセントがきちんとふさがれていなかった。なかには周辺の環境を汚染していたものもあったという。それでも、これらの油田やガス田はシェール坑井に比べれば使用していた水量ははるかに少なかった。二〇〇三年のシュルンベルジェ・オイルフィールド・レビューはこう記す。「初期のガス井以来、石油・ガス業界では炭化水素の地表への流出が制御できないという問題にずっと直面してきた。(中略)これは世界の多くの資源埋蔵地域で坑井がもたらす重大な問題だ」
では、シェール坑井の状況はどうか。ペンシルペニア州の統計では、二〇〇九年から二〇一一年にかけて掘削された新たなシェール坑井のうち、約六パーセントから七パーセントが構造的に完全な状態ではなかったという結果が示されている。米会計検査院は次のように述べる。
「水圧破砕の流体が飲料水用の帯水層に直接混入するという事態は起きにくいだろう。というのも、一般に作業は地下六〇〇〇フィート〔約一八〇〇メートル〕から一万フィート〔約三〇〇〇メートル〕の深さで行われるのに対し、地下水脈は地下一〇〇〇フィート〔約三〇〇メートル〕のところにあるからである。
(中略)シェール層への亀裂はほぼ垂直に入り、それから数百フィート横に伸びて、構造や強度の異なる別の岩にぶつかる前に止まる。(中略)たとえば、オクラホマ州のウッドフォード・シェールガス田の場合、二〇〇以上の亀裂を調べたところ、帯水層と標準的な亀裂の位置は七五〇〇フィート〔約二三〇〇メートル〕離れており、もっとも帯水層に近いものでも四〇〇〇フィート〔約一二○○メートル〕の距離があった。テキサス州のバーネット・シェールガス田の三〇〇〇の亀裂の場合も、帯水層と標準的な亀裂の距離は四八〇〇フィート〔約一五〇〇メートル〕あり、もっとも帯水層に近いものでも二八〇〇フィート〔約八五〇メートル〕は離れていた。だがそれでも、地下でガスや化学物質が漏れだして水質が汚染されるリスクはある。地下で漏れが起きると考えられるのは、坑井のケーシングやセメンティング作業が不適切だった場合、人工的に作られた亀裂が元からあったひびや断層と交差して亀裂が誘発される場合、枯渇した坑井や閉鎖された坑井がきちんとふさがれなかった場合などである。加えて、誘発されてできた亀裂が時を経て大きくなり、帯水層まで達する可能性も危惧される。(中略)また環状の坑井壁のケーシングの際、セメントの注入が不適切だったり、セメントに効果がなかったりする場合は、高圧力に耐えきれず割れたり壊れたりすることもあるだろう。ケーシングとセメンティング作業自体は、従来のガス田や油田でも行われているものだが、水圧破砕が用いられる非在来型の坑井には、従来型の坑井にはない特徴がある。たとえば、一度の採取のために破砕が何度も実施されるため高圧にさらされる期間が長期にわたる点である。さらに、生産量が大幅に落ちたり、生産量が推定埋蔵量より少なかったりしたときも、主に坑井の経済的寿命を伸ばすため、新たな破砕が行われうる」
たいていの場合、平均的なシェールガス井には二五年間の保全保証期間があるが、この期間が過ぎたあと何か起きるのかは誰にもわからない。過去に注入された化学物質入りの水が漏れだしたり、あるいは逆流したりするかもしれない。また、閉鎖された坑井の古いパイプからメタンガスが漏れるかもしれない。実際、研究によると、地下にはひび割れや長く伸びた断層が存在するため、汚染物質は長時間かけて分散するらしい。堆積物が複雑に分布していること、地層ごとに水圧的特性が大きく違うこと、この二点が合わさると、汚染物質が通りやすい道と汚染物質が停滞する部分が混在するようになる。そしてその混在のせいで、汚染物質は変則的な移動をすることになるという。たとえば、ミシシッピ州のコロンブス空軍基地で行われた野外での広域分散実験では、汚染物質は主な分散から相当期間を経たあとも長い時間かけて到着しつづけることが示された。そこでは他の多くの実験や理論モデルと合わせ、ある一定の時間スケールで到着する汚染物質の量が減衰していくという見解にはあまり根拠がないのではないかと推定されている。要するに、汚染物質は何十年、何百年にわたって漏れる可能性があるのである。
また、多くの独立研究やシェール埋蔵エリアの地域住民からの報告、土地所有者の証言によると、水圧破砕法は地下深くに水を注入するときだけでなく、使用した水を回収するときにも水源を汚染するという。水を逆流させるときに、化学物質やメタンガスが飲料水の水源に漏れだすのである。
水質汚染に加え、メタンガスの漏洩による大気汚染も問題とされている。二〇一二年二月には、米大洋大気庁とコロラド大学ボルダー校が調査を実施し、デンバー近郊のシェールガス田で産出されたメタンガス(天然ガス)のうち四八Iセントが大気中に放出されていることが判明した。アメリカ地球物理学連合の報告によると、ユタ州のユインタ盆地では全生産量の九パーセントというさらに多量のメタンガスの漏れがあったという。対して、米環境保護庁(EPA)は二〇〇九年の全天然ガス生産量のうち漏洩したのは、二・四パーセントであるとした。研究によっては、メタンガス放出が地球温暖化に及ぼす相対的な影響は、二酸化炭素の七二倍に上るともいわれている。また次のような見解もある。「平均的なシェールガス田は生産終了まで、総生産量の三・六から七・九パーセントのメタンガスを大気中に放出する。従来のガス田のメタン放出量が一・七から六八Iセントと推定されることからすると、シェールガス田のメタン放出量は、少なくともこれまでのガス田に比べ三〇パーセント多い。場合によっては二倍以上だと思われる」
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ドイツ軍侵攻以前のソ連赤軍の情報隠蔽
『大惨事と情報隠蔽』より
冬戦争での戦死者数の歪曲
大粛清の一方で、赤軍の近代化計画は精力的に進められていた。たとえば一九二〇年代には所有する戦車はわずか八〇輛、軍用機はヨーロッパから輸入したものが一三九四機という状態だったが、一九四一年には戦車は二万輛、軍用機は国内で設計、生産したものが二万二〇〇〇機にまで増大していた。どれだけ飛躍的な進歩をとげたかがわかるだろう。
この近代化の成果を実戦で試すべく、一九三九年一一月、ソ連はフィンランドに侵攻した。いわゆる冬戦争である。フィンランドはかつて一八〇九年から一九一七年までロシア帝国の領土だったが、ロシアが革命で混乱しているあいだに独立を宣言していた。ソ連はこれを再び領土にしようと目論んだのだ。スターリンも軍の新執行部も、高度に近代化された装備をもってすれば勝利は間違いないと確信していた。ヴォロシーロフはフィンランド侵攻前、スターリンにこう報告している。「(軍事作戦の成功に向けて)万事順調、万事良好、準備は万全であります」
しかし、予想に反して赤軍は苦戦した。最終的にはフィンランド領土の一一パーセントを得たが、スターリンが望んでいたフィンランドの再併合に比べれば大きな戦果とはいいがたかった。赤軍の攻撃に対して、フィンランド軍は粘り強く戦いぬいていた。地勢を生かし、的確な戦略を用いて部隊を展開させた。兵士の訓練も行き届いていた。そもそもフィンランド軍将校の多くはかつてロシア帝国軍に属していた軍人であり、大粛清で処刑された赤軍将校だちと同様、百戦錬磨だった。
結局、一九四〇年三月に講話条約が締結され、ソ連は公式には冬戦争に勝利した。だが、実質的には目的遂行に失敗したも同然だった。
そしてこの戦争中から、あらゆるレベルの赤軍司令官たちが上官に報告する際、現況を美化して伝えるようになりはしめた。たとえ機械化された豊富な軍備があっても、若くて経験の足りない司令官のもとで組織された軍では成果は出せなかった。だが、ぱっとしない戦績ではスターリンによって粛清されるかもしれない。誰もがそれを恐れたのである。
現況の美化は特に戦死者数の歪曲に現れている。赤軍将校らはスターリンおよび参謀本部への報告で、味方の損害は少なめに、敵方の損害は大きく誇張して伝えようとした。その結果、政治局と最高会議が受けた報告では、冬戦争によるソ連側の戦死者数は四万八四七五人、負傷者数は一五万八八六三人、対してフィンランド軍の戦死者数は七万人以上、負傷者数は二五万人以上となっていた。しかしそれから数十年後、歴史家が示した数字はこれとは異なる。実際にはソ連軍の戦死者は九万五二〇〇人〔二〇万人以上ともいわれる〕、フィンランド軍は二万三五〇〇人だったという。いいかえれば、赤軍将校らは自軍の戦死者数を半分に、フィンランド軍のほうを三倍に改ざんして報告していたのである。
冬戦争後、フィンランド軍は赤軍の弱点は主に指揮のまずさにあったと述べている。これは任務報告を受けた赤軍上層部も認識していた。各部隊は少ない装備に苦しんだのではなく、たくさんの装備を扱いきれなかったのである。歩兵連隊に戦車師団、空軍に海軍、どの司令官も互いに連携して効果的な作戦を展開するということができなかった。歴史家のボリス・ソコロフは著書のなかでこう述べる。「冬戦争によって(中略)赤軍の最大の弱点は司令官の熟練度であることが露呈した。彼らは配下の兵士を(中略)最大限活かすことができなかった」
だがわかっていても、誰もスターリンや党の要人にこの事実を伝える勇気はなかった。ましてや「赤軍の指揮能力低下の主な原因は、上級将校のほとんどを粛清してしまったことにある」と表立って指摘する者はいなかった。皆、新たな粛清を恐れて萎縮し、耳に心地よい情報しかスターリンに届けなくなっていたのだ。赤軍の実態を正直拡伝える情報は届けないでいた。ちなみに、自分を批判しない者だけを周囲に置いたのはヒトラーも同様である。ヒトラーは一九三七年の秘密会議で領土拡大計画に反対した軍幹部らを排除し(ただしこちらはわずか六〇人で更迭か辞職ですんだ)、もはや止める者が誰もいないなか、第三帝国拡大という狂気へと突き進んでいった。
赤軍の弱体化は、ヒトラーがソ連侵攻を決めた主な要因でもあった。一九四一年一月、ナチスドイツ軍の高官が集められた会議でヒトラーはこう述べている。「実際のところソ連軍は粘土でできた頭のない巨像のようなものである。だが、将来どうなるかを確実に予見することはできない。ソ連人を過小評価するべきではない。(とはいえ攻撃するなら今であり)攻撃の際にはあらゆる手段を用いてこれに臨まねばならない」。ナチスドイツ軍の参謀総長だったフランツ・ハルダーは、一九四一年五月の日記にこう記す。「ソ連軍の状態は非常に悪い。一九三三年時点に比べ、さらに悪くなっている印象だ。(一九三三年と)同じレベルに戻るには二〇年ほどかかるだろう」
一方ソ連の側では、第二次大戦が終わり一九五三年にスターリンが死去してから同様の指摘が見られるようになった。ソ連邦元帥で一九四二年から四五年の参謀総長だったアレクサンドル・ワシレフスキーはこう指摘した。「もし一九三七年の赤軍大粛清がなかったなら、一九四一年のドイツによる侵攻もなかっただろう。ヒトラーがソ連への侵攻を一九四一年に開始すると決めたのは、赤軍司令部が壊滅状態にあったことが大きな要因である」
冬戦争後、赤軍参謀本部は各隊に向けて訓練を強化し兵士個人の資質を高めるよう指示を出した。すると、各隊は実際にはお粗末な訓練成果しか出ていなくても、これをごまかす報告をしはじめた。司令部は司令部でこちらもスターリンを安心させるべく、もはや赤軍は冬戦争中明らかになった欠点を克服し、いかなる戦争に向けても準備が整っていると報告した。
こうして美化された報告をもとに、一九四一年五月、スターリンは基本的に赤軍の再建は終わったとした。赤軍は今や三〇〇の師団をもち、各師団には一万人から一万三〇〇〇人が属し、しかも三分の一の師団は機械化されているという一大軍隊であると宣言したのである。
スターリンの自己欺瞞
スターリンはヒトラーがソ連を攻撃するとは思っていなかった。その理由はいくつか挙げられる。
第一の理由は、ドイツが戦線を二つに拡大することはないだろうと高をくくっていたことである。というのも、ドイツには第一次世界大戦で西部戦線と東部戦線を同時に戦って敗北したという経験があるからだ。一九三九年に始まった第二次世界大戦で、ドイツはイギリスと戦っていた。そのため、もしソ連を攻撃するにしてもヒトラーはまずイギリスの降伏を待つはずだというのがスターリンの予想だった。特に一九四〇年六月、ドイツがフランスをわずか1ヵ月半の戦いで降伏させたあとは、なおさらその予想を強めていた。
攻撃を予期していなかった第二の理由には、スターリンが一九三九年に結ばれた独ソ不可侵条約(モロトフ=リッペントロップ協定)を信じていたことが挙げられる。これにより独ソは束ヨーロッパにおける相互の勢力範囲を決定し、互いに攻撃の意志がないことを宣言していた。
第三の理由は、もし攻撃をしかけるつもりなら、ドイツ軍は冬の戦争を戦えるだけの準備をしているはずだと考えたからである。かつて一八一二年、無敵の軍隊を率いてロシアに遠征したナポレオンは、ロシアの長く厳しい冬を甘く見たせいで大敗を喫した。ドイツ軍もそれを知らないわけがない。だが一九四〇年から一九四一年にかけて諜報筋から届いた情報に、ドイツ軍が冬期装備の用意をしているというものはまったくなかった。スターリンは常に論理的なやり方を信じた。まさかヒトラーが夏の装備でソ連に侵攻するなどという無謀な行動に出るとは思いもしなかったのである。
第四の理由は、赤軍の急激な軍備拡大と機械化にあった。これだけ立派な軍隊を前にすれば、相手も容易に攻撃しようとは思わないだろうという幻想ができていたのだ。ヨーロッパ諸国の軍隊と比べても赤軍は数で勝っていた。その事実が有利に働くと信じていたのである。
第五の理由は、赤軍諜報部から「ドイツ軍がポーランドのソ連国境近くで不穏な動きをとっている」という報告が入りはじめても、スターリンはこれをヒトラーの挑発だととらえたからである。そして赤軍に対して何も行動を起こさないよう命令した。銃撃もドイツの偵察機を撃ち落とすことも控えねばならなかった。赤軍を動員しないことで、ドイツに開戦の口実を与えないようにしたのである。これは第一次大戦前の手痛い失敗を受けての命令だった。一九一四年七月=二日、ロシア帝国は同盟国セルビアがオーストリア=ハンガリー帝国の攻撃を受けたため、ロシア帝国軍を総動員した。すると、その翌日の八月一日、ドイツはロシア帝国に宣戦布告し、第一次世界大戦が始まった。この前例があったため、スターリンは開戦のきっかけをつくったと非難されないよう赤軍を動かさないほうがいいと判断したのである。
侵攻を予測できなかった第六の理由は、いよいよ雲行きが怪しくなると、スターリンは今度はイギリスの諜報作戦だと思い込んだからである。一九四〇年末あたりから外国のどの諜報筋も「ヒトラーがソ連に大規模な侵攻を開始するかもしれない」という警告を送りはじめていた。だがスターリンはこれを、ドイツに苦戦しているイギリスがソ連とドイツとを戦わせ、事をイギリスに有利に運ぼうとする工作だと考えた。
スターリンがどれほどまでにドイツの攻撃を信じていなかったか。それを裏づけるエピソードを一つ紹介したい。ドイツのソ連侵攻の約一ヵ月前、一九四一年五月一四日のクレムリンでの会議のことである。このとき赤軍参謀本部は政治局に対してドイツ軍がソ連国境近くに集結していることを伝え、侵攻の可能性が大きいことを示唆した。しかしスターリンはこれをきっぱりと否定して次のように述べた。
「現在ドイツは西部戦線にかかりきりである。ヒトラーがソ連を攻撃してもう一つ戦線を増やそうとするとは思えない。わがソ連はポーランドやフランス、イギリスなどとはわけが違う。これらの国々を束にした以上のものである。ヒトラーもそれがわからないほど馬鹿ではあるまい。(中略)ところで、君たち(将校)は全軍の動員を求めているようだが、軍を動かしすべて西の国境に集めろというのか? それでは戦争だ! わかっているのか!(中略)ジューコフ同志、ドイツ軍が国境付近に展開しているという君の情報がなぜ正しいのか教えてくれたまえ」
これに対して参謀総長のジューコフはこう答えている。「スターリン同志どの、すべての結論は航空偵察によって正確に導きだされたものであり、スパイ網を通じて確認されているのであります」。するとスターリンは皮肉な調子で尋ねた。「スパイ網? それはどこの国のものだ? わが国かそれともイギリスか? わが国のスパイは毎週新しいデータを送ってきては、戦闘が始まるかもしれないといってくる。しかし何も起こっていないではないか。(中略)君たちは戦争が始まるといってわれわれを脅すために来たのか? それとも戦争がしたいのか? 報償や称号に飢えているのか? これ以上くだらない話をするのはやめたまえ!」
それから約一週間後の一九四一年五月二〇日、ドイツが連合国(イギリス、ニュージーランド、オーストラリア、ギリシャ)の軍事拠点だったクレタ島への攻撃を始めると、スターリンはそれ見たことかと自分の読みの正しさを赤軍参謀らに認めさせた。これに加えて、ヒトラーから親書まで届いていた。そこにはスターリンを欺くため、「ドイツ軍をポーランドに集めるよう命令したのは、ドイツやフランスがイギリスに爆撃されている現在、その損害を少しでも減らすためである」と書かれていた。
冬戦争での戦死者数の歪曲
大粛清の一方で、赤軍の近代化計画は精力的に進められていた。たとえば一九二〇年代には所有する戦車はわずか八〇輛、軍用機はヨーロッパから輸入したものが一三九四機という状態だったが、一九四一年には戦車は二万輛、軍用機は国内で設計、生産したものが二万二〇〇〇機にまで増大していた。どれだけ飛躍的な進歩をとげたかがわかるだろう。
この近代化の成果を実戦で試すべく、一九三九年一一月、ソ連はフィンランドに侵攻した。いわゆる冬戦争である。フィンランドはかつて一八〇九年から一九一七年までロシア帝国の領土だったが、ロシアが革命で混乱しているあいだに独立を宣言していた。ソ連はこれを再び領土にしようと目論んだのだ。スターリンも軍の新執行部も、高度に近代化された装備をもってすれば勝利は間違いないと確信していた。ヴォロシーロフはフィンランド侵攻前、スターリンにこう報告している。「(軍事作戦の成功に向けて)万事順調、万事良好、準備は万全であります」
しかし、予想に反して赤軍は苦戦した。最終的にはフィンランド領土の一一パーセントを得たが、スターリンが望んでいたフィンランドの再併合に比べれば大きな戦果とはいいがたかった。赤軍の攻撃に対して、フィンランド軍は粘り強く戦いぬいていた。地勢を生かし、的確な戦略を用いて部隊を展開させた。兵士の訓練も行き届いていた。そもそもフィンランド軍将校の多くはかつてロシア帝国軍に属していた軍人であり、大粛清で処刑された赤軍将校だちと同様、百戦錬磨だった。
結局、一九四〇年三月に講話条約が締結され、ソ連は公式には冬戦争に勝利した。だが、実質的には目的遂行に失敗したも同然だった。
そしてこの戦争中から、あらゆるレベルの赤軍司令官たちが上官に報告する際、現況を美化して伝えるようになりはしめた。たとえ機械化された豊富な軍備があっても、若くて経験の足りない司令官のもとで組織された軍では成果は出せなかった。だが、ぱっとしない戦績ではスターリンによって粛清されるかもしれない。誰もがそれを恐れたのである。
現況の美化は特に戦死者数の歪曲に現れている。赤軍将校らはスターリンおよび参謀本部への報告で、味方の損害は少なめに、敵方の損害は大きく誇張して伝えようとした。その結果、政治局と最高会議が受けた報告では、冬戦争によるソ連側の戦死者数は四万八四七五人、負傷者数は一五万八八六三人、対してフィンランド軍の戦死者数は七万人以上、負傷者数は二五万人以上となっていた。しかしそれから数十年後、歴史家が示した数字はこれとは異なる。実際にはソ連軍の戦死者は九万五二〇〇人〔二〇万人以上ともいわれる〕、フィンランド軍は二万三五〇〇人だったという。いいかえれば、赤軍将校らは自軍の戦死者数を半分に、フィンランド軍のほうを三倍に改ざんして報告していたのである。
冬戦争後、フィンランド軍は赤軍の弱点は主に指揮のまずさにあったと述べている。これは任務報告を受けた赤軍上層部も認識していた。各部隊は少ない装備に苦しんだのではなく、たくさんの装備を扱いきれなかったのである。歩兵連隊に戦車師団、空軍に海軍、どの司令官も互いに連携して効果的な作戦を展開するということができなかった。歴史家のボリス・ソコロフは著書のなかでこう述べる。「冬戦争によって(中略)赤軍の最大の弱点は司令官の熟練度であることが露呈した。彼らは配下の兵士を(中略)最大限活かすことができなかった」
だがわかっていても、誰もスターリンや党の要人にこの事実を伝える勇気はなかった。ましてや「赤軍の指揮能力低下の主な原因は、上級将校のほとんどを粛清してしまったことにある」と表立って指摘する者はいなかった。皆、新たな粛清を恐れて萎縮し、耳に心地よい情報しかスターリンに届けなくなっていたのだ。赤軍の実態を正直拡伝える情報は届けないでいた。ちなみに、自分を批判しない者だけを周囲に置いたのはヒトラーも同様である。ヒトラーは一九三七年の秘密会議で領土拡大計画に反対した軍幹部らを排除し(ただしこちらはわずか六〇人で更迭か辞職ですんだ)、もはや止める者が誰もいないなか、第三帝国拡大という狂気へと突き進んでいった。
赤軍の弱体化は、ヒトラーがソ連侵攻を決めた主な要因でもあった。一九四一年一月、ナチスドイツ軍の高官が集められた会議でヒトラーはこう述べている。「実際のところソ連軍は粘土でできた頭のない巨像のようなものである。だが、将来どうなるかを確実に予見することはできない。ソ連人を過小評価するべきではない。(とはいえ攻撃するなら今であり)攻撃の際にはあらゆる手段を用いてこれに臨まねばならない」。ナチスドイツ軍の参謀総長だったフランツ・ハルダーは、一九四一年五月の日記にこう記す。「ソ連軍の状態は非常に悪い。一九三三年時点に比べ、さらに悪くなっている印象だ。(一九三三年と)同じレベルに戻るには二〇年ほどかかるだろう」
一方ソ連の側では、第二次大戦が終わり一九五三年にスターリンが死去してから同様の指摘が見られるようになった。ソ連邦元帥で一九四二年から四五年の参謀総長だったアレクサンドル・ワシレフスキーはこう指摘した。「もし一九三七年の赤軍大粛清がなかったなら、一九四一年のドイツによる侵攻もなかっただろう。ヒトラーがソ連への侵攻を一九四一年に開始すると決めたのは、赤軍司令部が壊滅状態にあったことが大きな要因である」
冬戦争後、赤軍参謀本部は各隊に向けて訓練を強化し兵士個人の資質を高めるよう指示を出した。すると、各隊は実際にはお粗末な訓練成果しか出ていなくても、これをごまかす報告をしはじめた。司令部は司令部でこちらもスターリンを安心させるべく、もはや赤軍は冬戦争中明らかになった欠点を克服し、いかなる戦争に向けても準備が整っていると報告した。
こうして美化された報告をもとに、一九四一年五月、スターリンは基本的に赤軍の再建は終わったとした。赤軍は今や三〇〇の師団をもち、各師団には一万人から一万三〇〇〇人が属し、しかも三分の一の師団は機械化されているという一大軍隊であると宣言したのである。
スターリンの自己欺瞞
スターリンはヒトラーがソ連を攻撃するとは思っていなかった。その理由はいくつか挙げられる。
第一の理由は、ドイツが戦線を二つに拡大することはないだろうと高をくくっていたことである。というのも、ドイツには第一次世界大戦で西部戦線と東部戦線を同時に戦って敗北したという経験があるからだ。一九三九年に始まった第二次世界大戦で、ドイツはイギリスと戦っていた。そのため、もしソ連を攻撃するにしてもヒトラーはまずイギリスの降伏を待つはずだというのがスターリンの予想だった。特に一九四〇年六月、ドイツがフランスをわずか1ヵ月半の戦いで降伏させたあとは、なおさらその予想を強めていた。
攻撃を予期していなかった第二の理由には、スターリンが一九三九年に結ばれた独ソ不可侵条約(モロトフ=リッペントロップ協定)を信じていたことが挙げられる。これにより独ソは束ヨーロッパにおける相互の勢力範囲を決定し、互いに攻撃の意志がないことを宣言していた。
第三の理由は、もし攻撃をしかけるつもりなら、ドイツ軍は冬の戦争を戦えるだけの準備をしているはずだと考えたからである。かつて一八一二年、無敵の軍隊を率いてロシアに遠征したナポレオンは、ロシアの長く厳しい冬を甘く見たせいで大敗を喫した。ドイツ軍もそれを知らないわけがない。だが一九四〇年から一九四一年にかけて諜報筋から届いた情報に、ドイツ軍が冬期装備の用意をしているというものはまったくなかった。スターリンは常に論理的なやり方を信じた。まさかヒトラーが夏の装備でソ連に侵攻するなどという無謀な行動に出るとは思いもしなかったのである。
第四の理由は、赤軍の急激な軍備拡大と機械化にあった。これだけ立派な軍隊を前にすれば、相手も容易に攻撃しようとは思わないだろうという幻想ができていたのだ。ヨーロッパ諸国の軍隊と比べても赤軍は数で勝っていた。その事実が有利に働くと信じていたのである。
第五の理由は、赤軍諜報部から「ドイツ軍がポーランドのソ連国境近くで不穏な動きをとっている」という報告が入りはじめても、スターリンはこれをヒトラーの挑発だととらえたからである。そして赤軍に対して何も行動を起こさないよう命令した。銃撃もドイツの偵察機を撃ち落とすことも控えねばならなかった。赤軍を動員しないことで、ドイツに開戦の口実を与えないようにしたのである。これは第一次大戦前の手痛い失敗を受けての命令だった。一九一四年七月=二日、ロシア帝国は同盟国セルビアがオーストリア=ハンガリー帝国の攻撃を受けたため、ロシア帝国軍を総動員した。すると、その翌日の八月一日、ドイツはロシア帝国に宣戦布告し、第一次世界大戦が始まった。この前例があったため、スターリンは開戦のきっかけをつくったと非難されないよう赤軍を動かさないほうがいいと判断したのである。
侵攻を予測できなかった第六の理由は、いよいよ雲行きが怪しくなると、スターリンは今度はイギリスの諜報作戦だと思い込んだからである。一九四〇年末あたりから外国のどの諜報筋も「ヒトラーがソ連に大規模な侵攻を開始するかもしれない」という警告を送りはじめていた。だがスターリンはこれを、ドイツに苦戦しているイギリスがソ連とドイツとを戦わせ、事をイギリスに有利に運ぼうとする工作だと考えた。
スターリンがどれほどまでにドイツの攻撃を信じていなかったか。それを裏づけるエピソードを一つ紹介したい。ドイツのソ連侵攻の約一ヵ月前、一九四一年五月一四日のクレムリンでの会議のことである。このとき赤軍参謀本部は政治局に対してドイツ軍がソ連国境近くに集結していることを伝え、侵攻の可能性が大きいことを示唆した。しかしスターリンはこれをきっぱりと否定して次のように述べた。
「現在ドイツは西部戦線にかかりきりである。ヒトラーがソ連を攻撃してもう一つ戦線を増やそうとするとは思えない。わがソ連はポーランドやフランス、イギリスなどとはわけが違う。これらの国々を束にした以上のものである。ヒトラーもそれがわからないほど馬鹿ではあるまい。(中略)ところで、君たち(将校)は全軍の動員を求めているようだが、軍を動かしすべて西の国境に集めろというのか? それでは戦争だ! わかっているのか!(中略)ジューコフ同志、ドイツ軍が国境付近に展開しているという君の情報がなぜ正しいのか教えてくれたまえ」
これに対して参謀総長のジューコフはこう答えている。「スターリン同志どの、すべての結論は航空偵察によって正確に導きだされたものであり、スパイ網を通じて確認されているのであります」。するとスターリンは皮肉な調子で尋ねた。「スパイ網? それはどこの国のものだ? わが国かそれともイギリスか? わが国のスパイは毎週新しいデータを送ってきては、戦闘が始まるかもしれないといってくる。しかし何も起こっていないではないか。(中略)君たちは戦争が始まるといってわれわれを脅すために来たのか? それとも戦争がしたいのか? 報償や称号に飢えているのか? これ以上くだらない話をするのはやめたまえ!」
それから約一週間後の一九四一年五月二〇日、ドイツが連合国(イギリス、ニュージーランド、オーストラリア、ギリシャ)の軍事拠点だったクレタ島への攻撃を始めると、スターリンはそれ見たことかと自分の読みの正しさを赤軍参謀らに認めさせた。これに加えて、ヒトラーから親書まで届いていた。そこにはスターリンを欺くため、「ドイツ軍をポーランドに集めるよう命令したのは、ドイツやフランスがイギリスに爆撃されている現在、その損害を少しでも減らすためである」と書かれていた。
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ブログの連続記録には拘らない
ブログの連続記録には拘らない
この際、ブログの連続記録に拘るのは止めましょう。自分に対してのモノだから、拘る必要はない。何しろ、そんな多くのことは考えていない。ここは私の世界ですから。
きーちゃんは連続記録を絶ってから、おかしくなった。マチャリンはショールームの連続記録に生きている。ついに1万人まで行った。そのために、夜の12時までやっていて、翌朝の4時からやることをしている。それを応援する人が出てきている。
スタバ環境でチェック
今日はスタバ環境でチェックです。そうなれば、時間は自由に使えます。集中できます。
コンテンツはタブレットよりもスマホ用に出来ています。その為に、わざわざ出掛けてきています。
問題解決のための意思決定
データから情報を得て、そして、問題解決のための意思決定。このプロセスは逆かもしれない。本来、逆でしょう。そうでないと、現実世界の大量データから抽出することは出来ません。
データベースは構築するだけではダメで、情報の収集から活用まで通しです。元々、この資料を取った理由は未唯空間のデジタル化されたモノの活用のためです。
スマホはアプリで溢れている
スマホはすごい。タブレットを超えてしまった。
この際、ブログの連続記録に拘るのは止めましょう。自分に対してのモノだから、拘る必要はない。何しろ、そんな多くのことは考えていない。ここは私の世界ですから。
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スタバ環境でチェック
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問題解決のための意思決定
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