『帝国の復興と啓蒙の未来』より
イスラーム史においてシーア派の全盛期は10~11世紀にかけてであった。10世紀後半にはエジプトを本拠とするシーア派イスマーイール派のファーティマ朝がエルサレムやマッカ、マディーナの両聖地を支配下におさめ、またイランに生まれた12イマーム派のブワイフ朝が945年にバグダードに入場し、アッバース朝カリフから大アミールに任命され政治の実権を握った。
スンナ派が勢力を回復するのは1055年にセルジューク朝がバグダードを取り戻し1062年にブワイフ朝を滅ぼしてからであり、ファーティマ朝も12世紀には弱体化し1171年にはアイューブ朝を建てたサラディンによって滅ぼされる。
以後、1501年にタブリーズを首都に建国したサファヴィー朝が12イマーム派を国教に定めて以降、イランは住民の大多数がシーア派に改宗し、従来のレバノンや南部のシーア派の聖地ナジャフ、カルバラーに加え、イランのコム、マシュハドがシーア派の学問の中心になる。16世紀には中東のオスマン帝国、サファヴィー朝イラン帝国、インドのムガール帝国が鼎立することになり、現在のスンナ派とシーア派の政治、人口布置はほぼとの時代の状況を踏襲している。サファヴィー朝の創設者イスマーイール1世(1524年没)とオスマン朝のセリム1世が戦った1514年のチャルディランの戦いでセリム1世(1520年没)が勝利したことで、バグダードとシーア派の聖地ナジャフ、カルバラーはオスマン帝国の支配地となったが、オスマン帝国の滅亡後はイラク領となった。つまりシーア派が人口の多数派を占め政治的実権を握るのはイランのみであり、その他の地域ではスンナ派が多数派であり、シーア派は抑圧された少数派として存在していたのである。
既に述べたように20世紀のイスラーム世界の最大の対立軸は、イスラーム世界全域で抗争を繰り広げられるワッハーブ派を中心とするサラフィー主義者とスンナ派伝統主義者との間、スンナ派内部の内部対立にあった。ところが21世紀になると対立軸はスンナ派内部対立からスンナ派とシーア派の宗派閥対立にシフトすることになる。
シーア派にとっての最大の政治的転機は、思いもかけないところからやってきた。2003年、アメリカが指導する有志連合軍が大量破壊兵器の隠匿を口実にイラクに侵攻し、イラン・イラク戦争以来のイランの宿敵サダム・フセイン政権を崩壊させたのである。
バアス党(アラブ社会主義)のサダム・フセイン(元イラク大統領2006年没)は元来世俗主義者でありイスラームの教義には無関心であったが自らと同じエスニックなスンナ派を優遇しており、特にイラン革命の影響を受け南部のシーア派住民の間で反政府運動が高まり、湾岸戦争で多国籍軍に呼応して南部のシーア派が蜂起した後は、スンナ派色を強めていた。それゆえサダム・フセイン政権を倒したアメリカが2004年に主権を連合国暫定占領統治局からイラクに移譲し傀儡暫定政権を樹立した時、サダム・フセインとバアス党の独裁政権を追放したアメリカが頼れる政治勢力は、サダム・フセイン政権時代に海外に亡命し反体制運動を行っていたダウワ党や、イラク・イスラーム革命最高評議会など、イランの息がかかったシーア派の宗教政党の政治家しかいなかったのである。こうして漁夫の利を得たイラクのシーア派は、労せずして政権と、国際社会からの膨大な復興援助とを手に入れることになった。
イラクでシーア派が政権を握ったことは決定的な意味を持つ。シーア派が住民の多数派を占めるのみならず、政権を握る国家がイラン以外に生まれたのは、領域国民国家システムの誕生以来初めてであるばかりでなく、アッバース朝の首都であり、イスラーム世界の中核都市の一つバグダードがシーア派の政治的支配の下に置かれたのは、サーマーン朝がセルジューク朝に追われて以来であった。またイランのコムだけでなく、シーア派の聖地であり、シーア派イスラーム学の中心地でもあるイラクのナジャフとカルバラーがシーア派の支配に入ったことは、政治的弾圧を恐れることなく、シーア派がその教義を実践し発展させる自由を得たことを意味するからである。
一方、イラクの隣国シリアは、同じバアス党でありながら、サダム・フセイン元大統領とハーフィズ・アサド前大統領(2000年没)の確執から、イラン・イラク戦争ではイランを支援した。「異端」アラウィー(ヌサィリ-)派を出自とするシリアのアサド政権は、イラン支持の見返りに、イランの12イマーム派からアラウィー派が12イマーム派に属するとの認証を取り付けることができた。2011年、「アラブの春」がシリアに波及すると軍事的に劣勢に立だされたバッシャール・アサド政権はレバノンのヒズブッラー、イランの革命防衛隊への依存を深めていった。また「アラブの春」の余波で2011年にバーレーンでシーア派住民が反体制デモを起こすと、危機感に駆られたGCCは合同軍「半島の盾」を派遣してデモを力づくで鎮圧した。
イラクでは、歴代シーア派政権はスンナ派を権力から排除しただけでなく、アメリカにならったテロ対策の口実の下に、サダム・フセイン政権のシーア派弾圧への報復としてスンナ派住民を不当に拘束、暴行、殺害し、土地、家屋、財産を奪うなどの悪政を行っていた。その結果としてスンナ派の不満を背景に、2014年にはサラフィー・ジハード主義組織「イラクのアルカーイダ」から分派した「イラクとシリアのイスラーム国」がイラク第二の都市モスルを攻略し、シリアとイラクの国境の大半を支配下に置くとサイクス・ピコ協定を無効化し「イスラーム国」と改称し、指導者アブー・バクル・バグダとアィーをカリフに推戴し、カリフ制の復活を宣言することになった。「イスラーム国」の攻勢に対し為す術のないイラク政府は欧米に軍事財政支援を求めると同時に、シーア派民兵組織、イラン革命防衛隊への依存を強めることになった。
しかしイランの影響によるシーア派の伸長を決定づけた出来事は、2015年にイラン革命の影響を受けたイエメンのシーア派ザイド派の一派のフーシー派が首都サナアを攻略しハーディー大統領を追放し、ついで南部のアデンまで侵攻したことである。
これに対してサウジアラビアを中心とするスンナ派諸国は有志連合を組織しフーシー派に激しい攻撃を加えると同時に、イランの脅威に対抗してアラブ連盟の合同軍を創設すること決議した。
イラン・イスラム共和国を中心とするシーア派とスンナ派との中東における政治的対立は、シリア、イラク、イエメンが宗派間の武力抗争の戦場となることで決定的になったが、21世紀のスンナ派とシーア派の対立の深刻さはそれが政治の領域にとどまらないことにある。
パキスタンやアフガニスタンのように伝統的にスンナ派とシーア派のコミュニティーが混在し散発的抗争が常態であった地域ではなく、2012年以降、エジプトやインドネシアやナイジェリアのように従来シーア派がほとんど存在しなかった国々でもシーア派(12ィマーム派)の宣教が行われてスンナ派住民がシーア派に改宗することで、シーア派とスンナ派の間に軋蝶が生じ流血の抗争にまで発展しているのが、21世紀のスンナ派とシーア派の宗派閥抗争の特徴である。
伝統的にスンナ派4法学派は、教友、特に正統カリフ初代アブー・バクルと第2代ウマルを誹誇するシーア派を敵視してきたことは疑念の余地はないが、異端の背教者とまでみなすか否かについては学説が分かれており、サラフィー主義者、ワッハーブ派を除き、概して教友の誹誇問題から目を逸らし「寛容」に放置してきた。
ところが、近年になって、アラブ世界のスンナ派伝統派の牙城と目されるエジプトのアズハルまでもがシーア派を異端宣告し、反シーア派キャンペーンを繰り広げるようになり、その動きはマレーシアやインドネシアなど東南アジアのムスリム諸国にまで広がっている。
シーア派は、イマーム不在期にはイマームの代理人としてのイスラーム法学者の指導下に纏まるとの「イスラーム法学者の権威(ウィラーヤ・ファキーフ)」論を国是とするイランーイスラム共和国を中心に教勢を拡大してきた。スンナ派が、スンナ派法学が定める唯一の合法政体であるカリフ制再興の義務を蔑ろにし、シーア派の脅威を言い立てるばかりで、私利私欲に基づき野合するのみの現状から抜け出さない限り、スンナ派とシーア派が歴史的な敵対的共存の均衡関係を取り戻すことは難しいように思われる。
イスラーム史においてシーア派の全盛期は10~11世紀にかけてであった。10世紀後半にはエジプトを本拠とするシーア派イスマーイール派のファーティマ朝がエルサレムやマッカ、マディーナの両聖地を支配下におさめ、またイランに生まれた12イマーム派のブワイフ朝が945年にバグダードに入場し、アッバース朝カリフから大アミールに任命され政治の実権を握った。
スンナ派が勢力を回復するのは1055年にセルジューク朝がバグダードを取り戻し1062年にブワイフ朝を滅ぼしてからであり、ファーティマ朝も12世紀には弱体化し1171年にはアイューブ朝を建てたサラディンによって滅ぼされる。
以後、1501年にタブリーズを首都に建国したサファヴィー朝が12イマーム派を国教に定めて以降、イランは住民の大多数がシーア派に改宗し、従来のレバノンや南部のシーア派の聖地ナジャフ、カルバラーに加え、イランのコム、マシュハドがシーア派の学問の中心になる。16世紀には中東のオスマン帝国、サファヴィー朝イラン帝国、インドのムガール帝国が鼎立することになり、現在のスンナ派とシーア派の政治、人口布置はほぼとの時代の状況を踏襲している。サファヴィー朝の創設者イスマーイール1世(1524年没)とオスマン朝のセリム1世が戦った1514年のチャルディランの戦いでセリム1世(1520年没)が勝利したことで、バグダードとシーア派の聖地ナジャフ、カルバラーはオスマン帝国の支配地となったが、オスマン帝国の滅亡後はイラク領となった。つまりシーア派が人口の多数派を占め政治的実権を握るのはイランのみであり、その他の地域ではスンナ派が多数派であり、シーア派は抑圧された少数派として存在していたのである。
既に述べたように20世紀のイスラーム世界の最大の対立軸は、イスラーム世界全域で抗争を繰り広げられるワッハーブ派を中心とするサラフィー主義者とスンナ派伝統主義者との間、スンナ派内部の内部対立にあった。ところが21世紀になると対立軸はスンナ派内部対立からスンナ派とシーア派の宗派閥対立にシフトすることになる。
シーア派にとっての最大の政治的転機は、思いもかけないところからやってきた。2003年、アメリカが指導する有志連合軍が大量破壊兵器の隠匿を口実にイラクに侵攻し、イラン・イラク戦争以来のイランの宿敵サダム・フセイン政権を崩壊させたのである。
バアス党(アラブ社会主義)のサダム・フセイン(元イラク大統領2006年没)は元来世俗主義者でありイスラームの教義には無関心であったが自らと同じエスニックなスンナ派を優遇しており、特にイラン革命の影響を受け南部のシーア派住民の間で反政府運動が高まり、湾岸戦争で多国籍軍に呼応して南部のシーア派が蜂起した後は、スンナ派色を強めていた。それゆえサダム・フセイン政権を倒したアメリカが2004年に主権を連合国暫定占領統治局からイラクに移譲し傀儡暫定政権を樹立した時、サダム・フセインとバアス党の独裁政権を追放したアメリカが頼れる政治勢力は、サダム・フセイン政権時代に海外に亡命し反体制運動を行っていたダウワ党や、イラク・イスラーム革命最高評議会など、イランの息がかかったシーア派の宗教政党の政治家しかいなかったのである。こうして漁夫の利を得たイラクのシーア派は、労せずして政権と、国際社会からの膨大な復興援助とを手に入れることになった。
イラクでシーア派が政権を握ったことは決定的な意味を持つ。シーア派が住民の多数派を占めるのみならず、政権を握る国家がイラン以外に生まれたのは、領域国民国家システムの誕生以来初めてであるばかりでなく、アッバース朝の首都であり、イスラーム世界の中核都市の一つバグダードがシーア派の政治的支配の下に置かれたのは、サーマーン朝がセルジューク朝に追われて以来であった。またイランのコムだけでなく、シーア派の聖地であり、シーア派イスラーム学の中心地でもあるイラクのナジャフとカルバラーがシーア派の支配に入ったことは、政治的弾圧を恐れることなく、シーア派がその教義を実践し発展させる自由を得たことを意味するからである。
一方、イラクの隣国シリアは、同じバアス党でありながら、サダム・フセイン元大統領とハーフィズ・アサド前大統領(2000年没)の確執から、イラン・イラク戦争ではイランを支援した。「異端」アラウィー(ヌサィリ-)派を出自とするシリアのアサド政権は、イラン支持の見返りに、イランの12イマーム派からアラウィー派が12イマーム派に属するとの認証を取り付けることができた。2011年、「アラブの春」がシリアに波及すると軍事的に劣勢に立だされたバッシャール・アサド政権はレバノンのヒズブッラー、イランの革命防衛隊への依存を深めていった。また「アラブの春」の余波で2011年にバーレーンでシーア派住民が反体制デモを起こすと、危機感に駆られたGCCは合同軍「半島の盾」を派遣してデモを力づくで鎮圧した。
イラクでは、歴代シーア派政権はスンナ派を権力から排除しただけでなく、アメリカにならったテロ対策の口実の下に、サダム・フセイン政権のシーア派弾圧への報復としてスンナ派住民を不当に拘束、暴行、殺害し、土地、家屋、財産を奪うなどの悪政を行っていた。その結果としてスンナ派の不満を背景に、2014年にはサラフィー・ジハード主義組織「イラクのアルカーイダ」から分派した「イラクとシリアのイスラーム国」がイラク第二の都市モスルを攻略し、シリアとイラクの国境の大半を支配下に置くとサイクス・ピコ協定を無効化し「イスラーム国」と改称し、指導者アブー・バクル・バグダとアィーをカリフに推戴し、カリフ制の復活を宣言することになった。「イスラーム国」の攻勢に対し為す術のないイラク政府は欧米に軍事財政支援を求めると同時に、シーア派民兵組織、イラン革命防衛隊への依存を強めることになった。
しかしイランの影響によるシーア派の伸長を決定づけた出来事は、2015年にイラン革命の影響を受けたイエメンのシーア派ザイド派の一派のフーシー派が首都サナアを攻略しハーディー大統領を追放し、ついで南部のアデンまで侵攻したことである。
これに対してサウジアラビアを中心とするスンナ派諸国は有志連合を組織しフーシー派に激しい攻撃を加えると同時に、イランの脅威に対抗してアラブ連盟の合同軍を創設すること決議した。
イラン・イスラム共和国を中心とするシーア派とスンナ派との中東における政治的対立は、シリア、イラク、イエメンが宗派間の武力抗争の戦場となることで決定的になったが、21世紀のスンナ派とシーア派の対立の深刻さはそれが政治の領域にとどまらないことにある。
パキスタンやアフガニスタンのように伝統的にスンナ派とシーア派のコミュニティーが混在し散発的抗争が常態であった地域ではなく、2012年以降、エジプトやインドネシアやナイジェリアのように従来シーア派がほとんど存在しなかった国々でもシーア派(12ィマーム派)の宣教が行われてスンナ派住民がシーア派に改宗することで、シーア派とスンナ派の間に軋蝶が生じ流血の抗争にまで発展しているのが、21世紀のスンナ派とシーア派の宗派閥抗争の特徴である。
伝統的にスンナ派4法学派は、教友、特に正統カリフ初代アブー・バクルと第2代ウマルを誹誇するシーア派を敵視してきたことは疑念の余地はないが、異端の背教者とまでみなすか否かについては学説が分かれており、サラフィー主義者、ワッハーブ派を除き、概して教友の誹誇問題から目を逸らし「寛容」に放置してきた。
ところが、近年になって、アラブ世界のスンナ派伝統派の牙城と目されるエジプトのアズハルまでもがシーア派を異端宣告し、反シーア派キャンペーンを繰り広げるようになり、その動きはマレーシアやインドネシアなど東南アジアのムスリム諸国にまで広がっている。
シーア派は、イマーム不在期にはイマームの代理人としてのイスラーム法学者の指導下に纏まるとの「イスラーム法学者の権威(ウィラーヤ・ファキーフ)」論を国是とするイランーイスラム共和国を中心に教勢を拡大してきた。スンナ派が、スンナ派法学が定める唯一の合法政体であるカリフ制再興の義務を蔑ろにし、シーア派の脅威を言い立てるばかりで、私利私欲に基づき野合するのみの現状から抜け出さない限り、スンナ派とシーア派が歴史的な敵対的共存の均衡関係を取り戻すことは難しいように思われる。