『超訳「哲学用語」事典』より
全体主義
全体主義とは、個人に対して全体を優先させようとする思想です。具体的には、社会の全体を一元的に支配しようとする集権的な政治体制の形をとります。典型例としてはドイツのナチズムと旧ソ連のスターリン主義を挙げることができます。
これらに共通するのは、イデオロギーの共有が求められること、国家機関よりも単独の政党が優越すること、カリスマ性をもった指導者による統合、合法的な殺戮などです。
ハンナ・アーレントは、『全体主義の起原』において、この全体主義のメカニズムについて分析しています。彼女は、大衆社会の出現に伴う民衆の孤立化こそが、全体主義を生み出したと主張します。つまり、人々は互いを結びつけるイデオロギーを求めたのです。それに乗じたのがヒトラーやスターリンだったのです。
そしてその状態を維持するために、指導者はイデオロギーの共有を強要し、恐怖政治を行ったというわけです。なお、全体主義概念は、とりわけ冷戦構造下、自由主義陣営が社会主義陣営を指す言葉としても用いられるようになり、一般に画一的な統制をもたらす管理社会全般を表す際にも使われます。
形而上学
形而上学の原語は「メタフイジカ」です。これは自然学(フィジカ)の後(メタ)という意味です。もともとはアリストテレスの講義録を編纂する過程で生まれた用語だといわれます。つまり、自然についての書物の後に、それ以外の存在をめぐる一連の講義録を位置づけたため、こう呼ばれるようになったのです。アリストテレスの哲学では、存在をテーマにした学問が「第一哲学」であるとされています。
このアリストテレスの「第一哲学」を、超自然的なものを説明するためのべースにしたのが、中世のキリスト教会でした。彼らのおかげで、メタフィジカのメ夕は、「超える」というニュアンスが強くなります。それに伴って、メタフィジカも「超自然学」という意味をもつようになるのです。
超自然的原理に基づいて自然を分析しようとするのがメタフィジカ、つまり形而上学の意味になるのです。いわば自然の原理など度外視して、抽象的にかつ本質的に物事を考えるということです。それゆえ、形而上学はしばしば哲学と同じ意味に用いられることがあります。たとえば、宇宙の始まりについて、自然の原理を用いて分析するのではなく、神の意志や人間の精神から論じようとするのが形而上学です。
啓蒙主義の時代を経て近代に入り、やがて人々が実証的な思考を求めるようになると、超自然的な思考を求める形而上学は役に立たないものの代名詞になっていきます。
ちなみに、形而上の反対語は「形而下」です。形而上が精神的なものを意味するのに対して、形而下は物質的なものを意味しています。
正義
通常、正義は正しいという意味で用いられますが、この語は古代ギリシアの時代から様々な形で論じられてきました。たとえば、現代の議論にも強い影響を及ぼしているアリストテレスは、共同体における他者との関係で正義をとらえ、その本質を平等であるとしました。
この場合の平等には二つの意味があります。一つは「匡正的正義」と呼ばれるもので、損害賠償のように、破壊された均衡状態を元に戻すという意味での平等です。もう一つは「配分的正義」と呼ばれるもので、財の配分における平等です。人は、その価値に応じて、応分の財を受け取るべきだというのです。
現代においてこの議論を「公正としての正義」という形で再提示しだのがロールズの『正義論』です。ロールズは、功利主義に基づいて財を配分していては、社会の公正が達成できないとして、正義論を提唱したのです。
たしかに、弱肉強食の社会では強い者が多く取り、弱い者は常に少なくしか受け取ることができません。これでは正義とはいえません。そこで考案されたのが、「無知のヴェール」という思考実験でした。つまり、あたかも無知になるヴェールで覆われたかのように、自分の個別の事情を遮断した状態で、財の公正な分配を考えようというのです。
ここでロールズは「正義の二原理」を提唱します。つまり、基本的な自由については、誰しも好きなように受け取れるかわりに、財については、最も恵まれない人が最大の利益を得られるように配分するというのです。
しかし、ロールズの想定している個人は抽象的であるとして、むしろ共同体の美徳に基づいて、困っている人には手を差し伸べればいいとする批判が出てきます。これはコミュニタリアニズムの立場からする正義論として、資本主義が行き詰まる昨今、再び注目を浴びています。
現象学
現象学とは、一般にフッサールによって提唱された哲学的立場をいいます。通常人間は、世界を見たまま感じたままに素朴にとらえようとします。つまり、目で見たものをそのまま受け入れて、理解した気になっているわけです。フッサールはこのような姿勢を、「自然的態度」と呼んで批判します。
そうではなくて、心の中身を考察する上で、意識に与えられるがままの内容を記述せよというのです。それは目で見たままの内容とは異なるものです。
そのために彼は、目の前の世界に対する判断をいったん中止し、それらをカッコに入れることで、心の中の純粋な意識に浮かんでくるものだけを信じるという方法を提案します。これをエポケー(―判断中止)といいます。そうしてはじめて真理に向き合うことができるのです。これは「現象学的還元」と呼ばれます。
現象学はフッサールの後、フランスの思想家たちに継承されていきます。中でもメルロ=ポンティは、『知覚の現象学』を著し、現象学を身体論に応用しました。彼はフッサールとは異なり、世界を構成する主体として、意識に代えて身体を据えたのです
全体主義
全体主義とは、個人に対して全体を優先させようとする思想です。具体的には、社会の全体を一元的に支配しようとする集権的な政治体制の形をとります。典型例としてはドイツのナチズムと旧ソ連のスターリン主義を挙げることができます。
これらに共通するのは、イデオロギーの共有が求められること、国家機関よりも単独の政党が優越すること、カリスマ性をもった指導者による統合、合法的な殺戮などです。
ハンナ・アーレントは、『全体主義の起原』において、この全体主義のメカニズムについて分析しています。彼女は、大衆社会の出現に伴う民衆の孤立化こそが、全体主義を生み出したと主張します。つまり、人々は互いを結びつけるイデオロギーを求めたのです。それに乗じたのがヒトラーやスターリンだったのです。
そしてその状態を維持するために、指導者はイデオロギーの共有を強要し、恐怖政治を行ったというわけです。なお、全体主義概念は、とりわけ冷戦構造下、自由主義陣営が社会主義陣営を指す言葉としても用いられるようになり、一般に画一的な統制をもたらす管理社会全般を表す際にも使われます。
形而上学
形而上学の原語は「メタフイジカ」です。これは自然学(フィジカ)の後(メタ)という意味です。もともとはアリストテレスの講義録を編纂する過程で生まれた用語だといわれます。つまり、自然についての書物の後に、それ以外の存在をめぐる一連の講義録を位置づけたため、こう呼ばれるようになったのです。アリストテレスの哲学では、存在をテーマにした学問が「第一哲学」であるとされています。
このアリストテレスの「第一哲学」を、超自然的なものを説明するためのべースにしたのが、中世のキリスト教会でした。彼らのおかげで、メタフィジカのメ夕は、「超える」というニュアンスが強くなります。それに伴って、メタフィジカも「超自然学」という意味をもつようになるのです。
超自然的原理に基づいて自然を分析しようとするのがメタフィジカ、つまり形而上学の意味になるのです。いわば自然の原理など度外視して、抽象的にかつ本質的に物事を考えるということです。それゆえ、形而上学はしばしば哲学と同じ意味に用いられることがあります。たとえば、宇宙の始まりについて、自然の原理を用いて分析するのではなく、神の意志や人間の精神から論じようとするのが形而上学です。
啓蒙主義の時代を経て近代に入り、やがて人々が実証的な思考を求めるようになると、超自然的な思考を求める形而上学は役に立たないものの代名詞になっていきます。
ちなみに、形而上の反対語は「形而下」です。形而上が精神的なものを意味するのに対して、形而下は物質的なものを意味しています。
正義
通常、正義は正しいという意味で用いられますが、この語は古代ギリシアの時代から様々な形で論じられてきました。たとえば、現代の議論にも強い影響を及ぼしているアリストテレスは、共同体における他者との関係で正義をとらえ、その本質を平等であるとしました。
この場合の平等には二つの意味があります。一つは「匡正的正義」と呼ばれるもので、損害賠償のように、破壊された均衡状態を元に戻すという意味での平等です。もう一つは「配分的正義」と呼ばれるもので、財の配分における平等です。人は、その価値に応じて、応分の財を受け取るべきだというのです。
現代においてこの議論を「公正としての正義」という形で再提示しだのがロールズの『正義論』です。ロールズは、功利主義に基づいて財を配分していては、社会の公正が達成できないとして、正義論を提唱したのです。
たしかに、弱肉強食の社会では強い者が多く取り、弱い者は常に少なくしか受け取ることができません。これでは正義とはいえません。そこで考案されたのが、「無知のヴェール」という思考実験でした。つまり、あたかも無知になるヴェールで覆われたかのように、自分の個別の事情を遮断した状態で、財の公正な分配を考えようというのです。
ここでロールズは「正義の二原理」を提唱します。つまり、基本的な自由については、誰しも好きなように受け取れるかわりに、財については、最も恵まれない人が最大の利益を得られるように配分するというのです。
しかし、ロールズの想定している個人は抽象的であるとして、むしろ共同体の美徳に基づいて、困っている人には手を差し伸べればいいとする批判が出てきます。これはコミュニタリアニズムの立場からする正義論として、資本主義が行き詰まる昨今、再び注目を浴びています。
現象学
現象学とは、一般にフッサールによって提唱された哲学的立場をいいます。通常人間は、世界を見たまま感じたままに素朴にとらえようとします。つまり、目で見たものをそのまま受け入れて、理解した気になっているわけです。フッサールはこのような姿勢を、「自然的態度」と呼んで批判します。
そうではなくて、心の中身を考察する上で、意識に与えられるがままの内容を記述せよというのです。それは目で見たままの内容とは異なるものです。
そのために彼は、目の前の世界に対する判断をいったん中止し、それらをカッコに入れることで、心の中の純粋な意識に浮かんでくるものだけを信じるという方法を提案します。これをエポケー(―判断中止)といいます。そうしてはじめて真理に向き合うことができるのです。これは「現象学的還元」と呼ばれます。
現象学はフッサールの後、フランスの思想家たちに継承されていきます。中でもメルロ=ポンティは、『知覚の現象学』を著し、現象学を身体論に応用しました。彼はフッサールとは異なり、世界を構成する主体として、意識に代えて身体を据えたのです