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未唯への手紙

未唯への手紙

超訳「哲学用語」

2012年10月25日 | 1.私
『超訳「哲学用語」事典』より

全体主義

 全体主義とは、個人に対して全体を優先させようとする思想です。具体的には、社会の全体を一元的に支配しようとする集権的な政治体制の形をとります。典型例としてはドイツのナチズムと旧ソ連のスターリン主義を挙げることができます。

 これらに共通するのは、イデオロギーの共有が求められること、国家機関よりも単独の政党が優越すること、カリスマ性をもった指導者による統合、合法的な殺戮などです。

 ハンナ・アーレントは、『全体主義の起原』において、この全体主義のメカニズムについて分析しています。彼女は、大衆社会の出現に伴う民衆の孤立化こそが、全体主義を生み出したと主張します。つまり、人々は互いを結びつけるイデオロギーを求めたのです。それに乗じたのがヒトラーやスターリンだったのです。

 そしてその状態を維持するために、指導者はイデオロギーの共有を強要し、恐怖政治を行ったというわけです。なお、全体主義概念は、とりわけ冷戦構造下、自由主義陣営が社会主義陣営を指す言葉としても用いられるようになり、一般に画一的な統制をもたらす管理社会全般を表す際にも使われます。

形而上学

 形而上学の原語は「メタフイジカ」です。これは自然学(フィジカ)の後(メタ)という意味です。もともとはアリストテレスの講義録を編纂する過程で生まれた用語だといわれます。つまり、自然についての書物の後に、それ以外の存在をめぐる一連の講義録を位置づけたため、こう呼ばれるようになったのです。アリストテレスの哲学では、存在をテーマにした学問が「第一哲学」であるとされています。

 このアリストテレスの「第一哲学」を、超自然的なものを説明するためのべースにしたのが、中世のキリスト教会でした。彼らのおかげで、メタフィジカのメ夕は、「超える」というニュアンスが強くなります。それに伴って、メタフィジカも「超自然学」という意味をもつようになるのです。

 超自然的原理に基づいて自然を分析しようとするのがメタフィジカ、つまり形而上学の意味になるのです。いわば自然の原理など度外視して、抽象的にかつ本質的に物事を考えるということです。それゆえ、形而上学はしばしば哲学と同じ意味に用いられることがあります。たとえば、宇宙の始まりについて、自然の原理を用いて分析するのではなく、神の意志や人間の精神から論じようとするのが形而上学です。

 啓蒙主義の時代を経て近代に入り、やがて人々が実証的な思考を求めるようになると、超自然的な思考を求める形而上学は役に立たないものの代名詞になっていきます。

 ちなみに、形而上の反対語は「形而下」です。形而上が精神的なものを意味するのに対して、形而下は物質的なものを意味しています。

正義

 通常、正義は正しいという意味で用いられますが、この語は古代ギリシアの時代から様々な形で論じられてきました。たとえば、現代の議論にも強い影響を及ぼしているアリストテレスは、共同体における他者との関係で正義をとらえ、その本質を平等であるとしました。

 この場合の平等には二つの意味があります。一つは「匡正的正義」と呼ばれるもので、損害賠償のように、破壊された均衡状態を元に戻すという意味での平等です。もう一つは「配分的正義」と呼ばれるもので、財の配分における平等です。人は、その価値に応じて、応分の財を受け取るべきだというのです。

 現代においてこの議論を「公正としての正義」という形で再提示しだのがロールズの『正義論』です。ロールズは、功利主義に基づいて財を配分していては、社会の公正が達成できないとして、正義論を提唱したのです。

 たしかに、弱肉強食の社会では強い者が多く取り、弱い者は常に少なくしか受け取ることができません。これでは正義とはいえません。そこで考案されたのが、「無知のヴェール」という思考実験でした。つまり、あたかも無知になるヴェールで覆われたかのように、自分の個別の事情を遮断した状態で、財の公正な分配を考えようというのです。

 ここでロールズは「正義の二原理」を提唱します。つまり、基本的な自由については、誰しも好きなように受け取れるかわりに、財については、最も恵まれない人が最大の利益を得られるように配分するというのです。

 しかし、ロールズの想定している個人は抽象的であるとして、むしろ共同体の美徳に基づいて、困っている人には手を差し伸べればいいとする批判が出てきます。これはコミュニタリアニズムの立場からする正義論として、資本主義が行き詰まる昨今、再び注目を浴びています。

現象学

 現象学とは、一般にフッサールによって提唱された哲学的立場をいいます。通常人間は、世界を見たまま感じたままに素朴にとらえようとします。つまり、目で見たものをそのまま受け入れて、理解した気になっているわけです。フッサールはこのような姿勢を、「自然的態度」と呼んで批判します。

 そうではなくて、心の中身を考察する上で、意識に与えられるがままの内容を記述せよというのです。それは目で見たままの内容とは異なるものです。

 そのために彼は、目の前の世界に対する判断をいったん中止し、それらをカッコに入れることで、心の中の純粋な意識に浮かんでくるものだけを信じるという方法を提案します。これをエポケー(―判断中止)といいます。そうしてはじめて真理に向き合うことができるのです。これは「現象学的還元」と呼ばれます。

 現象学はフッサールの後、フランスの思想家たちに継承されていきます。中でもメルロ=ポンティは、『知覚の現象学』を著し、現象学を身体論に応用しました。彼はフッサールとは異なり、世界を構成する主体として、意識に代えて身体を据えたのです

歴史における時間の見方

2012年10月24日 | 4.歴史
未唯へ

 3kgのリバウンドから一日1Kgを戻しています。順調に減っています。木曜日のサウナで到達させましょう。

 今日は存在と無から始まる世界。そして、終わる世界。それに浸りましょうか。

スタッフのコミュニケーション

 聞きたいのは、会社として、スタッフに対して、どういうコミュニケーションを求めるのか。自分のところでどう考えるのか、ポータルの機能は関係ない。使わないのだから。

 埼玉辺りでは、グループウェアとの関係をハッキリさせます。情報は見えるようにします。基幹系にポップアップできることはメリットはあります。

外なる世界

 外なる世界に対しては、私は責任を持ちません。内なる世界に対しては、全責任を持ちます。30年までにどういう形にするのか。そして50年の究極の歴史をイメージします。

 証拠はいくらでもあります。現象はいくらでも出ている。それを皆はとらまえられないのか、単にそれだけのことを言ってきます。バラバラであってはいけません。意識と知識をまとめていかないといけない。そのための仕組み作りです。

知識と意識を蓄えるツール

 コミュニティに知識と意識を蓄えるツール。これを店舗に入れましょう。

デルフォイの神託

 デルフォイの神託に「汝、みずから知れ」。これは私が感じたこと、そのモノです。考えろ! 行動するよりも自ら考えろ!これはやはり、神託だったんですね。

歴史における時間の見方

 時計表示ではないけど、時間の密度が短縮しています。Log関数になっています。40年で究極を向かえても、それは不思議ではない。

 分化を始めるまでは、時間がかかってけど、分化を均衡しておれるのではなくなってきた。そして、究極まで、それぞれが上がっていく。そこにぶつかっていく形になります。

 この時点から見ているので、そう見えるのか、宇宙から見たときにはどう見えるのか。宇宙から見たときに、なぜ、そんなに急いでいるのか、どっち道、滅ぶのは分かっているのに。究極がGG=LLならば、滅びることはないでしょう。究極の姿のまま、生きていきます。

 古代の中に万年ではなく、年はあったのか。人間という尺度がないから、年はなかったのでしょう。レディ=ストロークのコード化の考え方は合っているのでしょう。何となく、計算尺です。

 今、起っているのは、今のコートの上で起こっている。過去のコードで見れば、すべてすっ飛ばされます。それが歴史というものかもしれない。人間の存在とか意識で時間は変わってきます。

 宇宙と同様に、ビックバーンそして崩壊、そのイメージが中にいる人間には分かりにくい。

 時間軸のコード化で考えると、過去の1万年は今の100年、もっと短いかもしれません。人間というコードがないと短くなるでしょう。自然だけならば。600万年前に、地中海は閉ざされ、530万年前にジブラルタル海峡は開けられた。その間に、40回ほど、開け閉めが行われた。どう見ても、万年単位です。

 人間というメジャーを作ったことで、コードができた。それが一つのメジャーです。24時間のうち、23時間59分までは、過去のコードです。137億年の解釈ができます。残りの1分に人間が大量発生して、時間がゆっくりになってきたのでしょう。

社会を変えるもの

 社会を変えるためのは、戒律と行動です。戒律はムハンマドが作り上げだ。個別でありながら、グループを作って、お互いに助け合う。

広い範囲で考える

 今まで考えてきたことが、かなり狭い見地だということが気になっています。

村に都市をつくる

2012年10月24日 | 3.社会
『都市に村をつくる』より 田園都市と協同社会の実現

レイドローは協同組合とコミュニティに二つの複合タイプを想定している。一つはコミュニティが母体となって協同組合をつくる道、もう一つは協同組合が母体となってコミュニティをつくる道である。

レイドロー報告で提案している「都市のなかに村をつくる」というのは後者の道である。ここで私は、崩壊しつつある「村に都市をつくる」という前者の道について検討したい。都市をつくるといっても、村に高層ビルを建設したり、大規模な工場、公共施設や観光・娯楽施設を誘致したりするというのではない。人々が住みなれた地域で働き生活できるように、地域を活性化するベンチャー事業や農林漁業を起こそうというのである。最近、インキュペーターという名の中小企業の起業を支援する事業が制度的にも整備されてきているから、それに取り組む人材がいれば、以前よりは推進しやすいはずである。実際、長野県坂城町の例をはじめ、インキュベーター事業を計画している町村は日本全国に一〇〇近くを数える。

ベンチャー事業による活性化のためには

こうしたベンチャーをつくるのは、やはり人である。人材の発掘ないし養成には次の環境が必要である。

地方の市町村は、将来のニーズを先取りした企画が渦巻いている大都市と何らかの方法で連絡を持ち、新機軸についての情報を直接的に体感すること。雑多な断片的事象のなかから有効な情報を取り出すには、事業感覚と知識をもった人材が不可欠である。その才能は個人の天性的なも のであろう。しかしそれは一人二人の仕事ではなく、数人のグループの連携によるところが大きい。ともあれ、先端を走る大都市との日常的連絡が必要である。これには都市と農村を結ぶ協同 組合の組織をつくることが有効ではないだろうか。

教育を変えること。自らの労働によって自立すること、自分の生きる道を発見すること、また それに必要な能力をつけるために勉学することを基本とする教育コースを確立すること。

インキュペーター事業は、いまのところ商工中小企業が主になっている。農林業では「植物工場」のような施設型農業が当面の対象であるが、やがて農商工連携に発展する。これらのベンチャー企業は異業種の事業体や協同組合が互いに連携し、クラスター(房状)の構造に発展する。そして商店街と工業団地が形成され、野菜や新鮮魚貝の地産地消・小ロット販売の市場も設立される。大衆娯楽の施設も必要になる。

中心集落と緑地-田園都市のイメージ

現在のところ、インキュペーターは民間企業ペースの事業が対象であって、コミュニティの生活施設や社会資本の整備を目的とするものではない。しかし、やがて役所、郵便局、図書館、消防施設や保健所、警察、病院、公園などの公的施設が付設されるようになるだろう。このようにして生活圏の中心ができ、それらを生活の核にして、多数の市民が集まり、中心集落が形成される。これらの中心集落には、協同組合サービスーセンターが設置されるであろう。

中心集落は市街地を形成するが、市街地とその緑地の割合は、生活環境に大きく影響する。私の調査によると、関東平野のような平坦地では、都市計画における市街地と緑地の比率を基準とすると、市街化区域の面積が五〇パーセントを超えると、避難場所としても心理的やすらぎの感覚としても余裕がなくなり、ストレスがたまる。したがって、市街地面積以上の緑農地域が設けられなければならない。緑地空間は、稲作のほか、果樹、野菜、花弁、畜産、酪農、林業、漁業など多部門からなるが、部分共同ないし全面共同のグループを組織する。農場はワーカーズ・コープが受託経営し、農商工連携のインキュペーター事業として実施する。協同農場や工場の働き手には、元農家の家族が優先的に参入できる。農業はもちろん集団的有機農業で、家庭廃棄物のコンポストによる循環の形でおこなわれる。農業は土づくりと天敵利用のためブロック・ローテーションの方式でおこない、景観とレクリエーションの観点も導入する。つまりコミュニティ農業を母体として各種の協同組合を複合的につくるのである。

新しい農村コミュニティは、田園都市型コミュニティでなければならない。それが「村に都市をつくる」という面での「協同組合コミュニティ」の計画目標になるであろう。「都市に村をつくる」ことと「村に都市をつくる」ことは、交互作用によって進展するであろう。本当に提案したかったのは、この二つの道の交互作用ではなかっただろうか。

あなたは『複雑系』を知っていますか?

2012年10月24日 | 2.数学
『なぜ大企業が突然つぶれるのか』より

「創発」「自己組織化」「外部経済性」「デファクトースタンダード」「ポジティブーフィードバック」という五つの概念を明らかにしていこう。

一つ目の概念は「創発」。

定義は、「他者とのかかわりによって影響を受け、最初は思いもよらなかったかたちで新しいビジネスや技術が生み出されること」としておく。

いちばんイメージしやすい喩えは「三人寄れば文殊の知恵」。テーマを決めずに三人で会話をしているうち、内容が思いがけない方向に進んでいき、そこから魅力的なアイデアが生み出される、という流れである。誰かに「○○について考えろ」と指示されるより、何にも縛られずに自由に発想したアイデアのほうがクリエイティブであることは、感覚的にもおわかりいただけると思う。

これはITが発達する以前の事例で、インターネットを通じて情報が瞬時に行き渡る現代社会では、「三人寄れば文殊の知恵」のような場がさらに生まれやすくなっているのは、いうまでもない。

「創発」が生み出されることを想定して提携をするか、しないかで、企業間の契約もまったく変わったものになってくる。それぞれの会社がもっているリソースを合わせると、こうしたシナジーがある……。それだけでは、ほんとうの競争力は得られない。現時点で想定できるシナジーがあっても、一瞬で環境が変わるIT社会では、そのシナジーが数年後にも生きている保証はどこにもないからだ。

二つ目の概念は「自己組織化」。

自己組織化とは、「それぞれの要素が独立して最適行動をとっている集合体が、あるきっかけによって、あたかも統率されているかのような方向性や秩序をもつようになること」だ。

「自己組織化」が、現代社会ではどのようなシーンで起こっているのか。

たとえばグーグルの検索画面では、総被リンク数や人気ページからのリンク数比率などをもとに、表示される順序を決めている。その結果、人気のあるページは上位に表示され、ますますアクセス数が増える。バラバラに動いているユーザーが、「人気ページヘのアクセス」という行動に向けて、そこでは自己組織化されている。

少し話題が逸れるが、最近は政治や社会の分野でも、自己組織化の産物としか考えられない動きが多発している。第一章で述べたとおり、チュニジア、エジプトで起こった政変は、そこまで大きくない一人ひとりの力が、フェイスブックなどのソーシャルメディアによって一つの統一意思のようになり、政権を倒すまでに至った。

政変まではいかなくても、ツイッターやブログで不適切な書き込みをしたとみなされた人に批判が殺到する「炎上」や、ツイッターで感動的な書き込みが繰り返し転載される「リツイート」など、ネガティブ、ポジティブを問わず、自然発生的な自己組織化が、インターネットの世界では日常のように起こっている。

三つ目の概念は「外部経済性」。

外部経済性とは、「経済行為が市場を経由せず、当事者以外にプラスの影響を与えること」を指す。

インターネットの世界では、API(アプリケーションをつくるためのシステム)を無料で開放したりすることで、外部の開発者にビジネスを行なう基盤を提供する「プラットフォーム・ビジネス」が、外部経済性を最もうまく活用しているモデルといえる。

その「外部経済性」をフル活用しているのが、アップル。アップル製品に対応するプログラムのモデルはすべて公開されており、外部の開発者は自由にiPhoneやiPadのアプリを開発することができる。それをアップルが用意したAppStoreというサイトで販売することで、アップルは膨大な数のユーザーを潜在顧客に抱えることができたのだ。開発者はアプリの料金の七〇%、アップルは三〇%を得られる仕組みであり、まさに複雑系の仕組みを有効活用したWin-Winのビジネスモデルである。

四つ目の概念は「デファクト・スタンダード」。

これは、「大多数のユーザーが使うことで、事実上の標準規格になったもの」のこと。そうしたデファクト・スタンダードを採用することで、企業は新しいシステムを一から開発する必要がなくなり、時間やお金を節約できる。

規格を使う側だけではなく、規格を生み出した側も、ライセンス料などで莫大な額の収益を得ることができる。アップルやグーグルがAPIを外部の開発者に開放しているのも、参入するメーカーやユーザーを増やすことで、スマートフォンOSのデファクト・スタンダードの地位を狙っているからだ。

五つ目の概念は「ポジティブ・フィードバック」。

これは「外部経済性」とセットになっている言葉だ。定義としては、「ものごとのよい結果が、さらにそれ自身を増強させる好循環を生み出す」こと。

プラットフォーム・ビジネスを展開するSNSサイトや口コミサイトでは、ほとんどの場合、ユーザーの数が増えれば増えるほど、利便性が増したり利用料金が下がって、サービスとしての価値が上がっていく。そこでさらに新しいユーザーをつかむというサイクルが生み出されている。

世界最大のSNSサイトであるフェイスブックも、最初は利用者をハーバード大学の学生に限定した「閉じた」サービスとして始まった。ある程度規模が大きくなってからも、しばらくは大学のアカウントをもつユーザーだけに公開されていた。

経営者へのヒアリングポイント

2012年10月23日 | 5.その他
経営者へのヒアリングポイント

 経営者へのヒアリングポイントを朝、考えていた。

 3年前にヒアリングしたのは、お客様とつながるためにはどうするかです。経営者がお客様とつながることを求めていることは、その時点でのヒアリングで明確になったことです。

 お客様とつながるのは、スタッフを活性化して、お客様の声を聴いて、考えられるようにする。今まで、売るという観点だけでなく、スタッフが共同して。課題解決することです。

 売ることが主であった時は、スタッフの敵はスタッフということで、一緒に考えるという風土ではなかった。それをコラボで変えていけるようにすることを考えた。それをまとめた結果を経営者にヒアリング結果として、展開した時に、スタッフは文句を言うだけで、煩わしいという見解だった。それが2年前です。

2年間の状況の変化

 そのあとに、メーカーとして、お客様とか商品とつなげようとする動きが出てきた。お客様の声とか、購買時のアンケートをメーカーで聞く体制がシステム部門以外で、作られてきた。

 その結果としては、Hへのパスが後追いになっている。情報は渡すだけになっている。そこで、皆が考える仕組みはありません。伝え方も、システム単位です。バラバラです。

 情報が渡った時に、従来と同じように、本部主導型でやっていけるかどうか。社会のSNSなどのスタッフベースの仕組みがいるのではないか。スタッフのレベルを上げるためにも、情報は渡すべきです。お客様のことを常に考えられるようにしていかないと、情報に流されてしまう。

 その他に、エジプト革命、3.11クライシス、フェイスブックの本格化、スマホ、そして、当てにならない政府の存在が明確になったことです。当てにするのは、自分しかない。それでお客様とつながっていくことを示唆するものです。

社会通念

 こういう社会通念を、経営者として、使っていくのか、使わないのか。それが3年後なのか、5年後なのか。本によると、社会も会社も複雑性の論理で動こうとしている、と書かれている。

個別でやるより、サファイア

 気づいた時点で、フェイスブックなどで、個別にやることもできます。だけど、それぞれが個別にやることがリテラシーとかセキュリティからいったときに得策かどうかです。

 これはサファイアのネットワークの考え方と似ています。個別にすることはできるけど、メーカーを仲介させて、横に連携させるやり方です。コンテンツとかサーバーを共有化できます。

 以前、考えた三段ループも可能になります。お客様と店舗・スタッフ、店舗と本部、本部とメーカーのループをつなげていきます。メーカーと店舗もそれでつながります。2年前のヒアリングでは、そんなものは煩わしいという感覚が変わっているかを改めて、ヒアリングします。

3つの販売店の経営者

 当然、先行するところは、クラウドを使い始めています。メーカーが当てにならないから、接点も含めて、個別に考える。否定的に考える会社からの意見。ITに関して、後進の会社の経営者、そんなことを考えなくても、やっていけるから動かないという会社がどう考えるかを知りたい。

 その三つにパターンに対して、次のポータルをどう使い分けていくのか、いらないのかいるのか、有難いのか、邪魔なのか。その中で、Hが知恵を出すとしたら、どの部分があるのか。

 情報をポータルの集約する部分も同様に聞きます。メーカーからの情報をどう扱うのか、自分たちの情報ができるのか、それらをどう扱うのか。スタッフに直接、大量の情報を渡していいのか、悪いのか。

複雑性の社会

 本部が考えて、スタッフはそれに従えばいいという感覚が相変わらずあります。これが複雑性の社会に合っているかどうか。皆が考えるモノをどう作っていくのか。それによって、いかに気づくのか。私はお客様とか社会につながるためには、そういうものが必要だと思っています。そういうところをお聞きしたい。概論ではなく各論レベルで知りたい。

監視民主主義

 バスの中で、『デモクラシーの世界史』を読んでいた。文字が点みたいで読みづらい。これよりも大きいサイズだと、ホッチキスでは留まらないからしょうがない。

 監視民主主義とコンピューター化されたメディアネットワークは、まるで結合双生児のようだ。コンピューターと結びついたコミュニケーション・ネットワークが、新しいユートピア世界や電子のフロンティアを開拓する「仮想コミュニティ」は過剰宣伝。

EUにもぐり込んでアメリカの矛先をかわしたドイツ

2012年10月23日 | 4.歴史
『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』より

サルコジ前大統領とドイツのメルケル首相は「メルコジ」と称されるほど緊密な体制でョーロッパを引っ張ってきましたが、オランドが大統領になったことによって両国の首脳関係がこれまでどおりうまくいくか微妙です。

もともとメルケルは口を開けば「緊縮財政、緊縮財政」と言って、EU諸国をドイツの思いどおりに従わせようとしてきました。「財政緊縮しなければお金は出さないよ。つぶれるならつぶれればいい。EUを出ていくなら出ていきなさい」と。サルコジもそれに同調してきました。

それでギリシアもスペインもイタリアも全部ドイツにやられました。みんな財政主権を放棄させられてしまった。ドイツ議会の決議がなければ国債の発行権もない。通貨を取り仕切っているのはユーロです。

いまスペインやポルトガルが財政破綻するといって大騒ぎしていますが、本当のところイギリスもフランスも最低の状態のようです。儲かってホクホクしているのはドイツだけ、ドイツの一人勝ちです。いまやドイツは欧州の経済、金融の覇権を握りました。かつてドイツは政治外交や軍事力で欧州の覇権を握ろうとしました。神聖ローマ帝国、ビスマルクのドイツ帝国、ナチスの第三帝国といずれも失敗しましたが、いま財政金融の力で目的を達成したのです。だからドイツ第四帝国などと言われるのです。これがドイツのしたたかさです。

一九九一年の十二月二十五日にソ連邦が崩壊して、東西冷戦の時代が終りました。そして九二年の大統領選に勝ったビル・クリントンは経済最優先政策を掲げ、「冷戦は終った。勝ったのは誰か。ドイツと日本だ。これからのわれわれの戦いは経済戦争だ」と言いました。

そのためにホワイトハウスに、国家安全保障会議と並んで、経済安全保障という考えを打ち出して国家経済会議というものをつくった。これはドイツと日本を経済的にいかにしてやっつけるかという司令塔です。

安全保障とはみずからの生存・独立・財産・利益などが他から侵されないためにあらゆる手段を講じることであり、もし経済的に、そのような事実や危険が生じた場合、それはほとんど戦争と同義と考えるべきことです。だからアメリカはドイツと日本に対して経済戦争をやると、クリントンは宣戦布告したわけです。

ドイツはEUにもぐり込んで、われわれの通貨はユーロであってマルクではないよと、アメリカからのマルク高の圧力を巧妙にかわしました。

ギリシアの財政危機にしても、もともとはユーロ通貨圏に加入するに際して、「財政赤字をGDPの三%以内に抑えなければならない」という条件をゴールドマンサックスの策謀によって偽の報告書を作ったことに端を発しています。

ゴールドマンサックスはこの指導の見返りとして、空港税や宝くじの収益を何十年間かにわたってギリシアから受け取るという密約を交わしてしまった。観光業が大きな収入源であるギリシアが、その財源を断たれてしまったのだから、それでなくても危機的状況にあった財政が破綻するのは当然のことです。

ギリシアを救済するにはお金が必要です。そのお金を出せるのはドイツしかない。アメリカはこれを利用してドイツからお金を引き出して、ドイツをつぶそうとした。ところが他のEU諸国が一刻も早くギリシア支援をと言うなかで、メルケル首相だけがなかなか首を縦に振らない。メルケルはグズグズとギリシア支援を先延ばしにして、ユーロの下落を待っていたといえます。

ユーロが下落すれば自動車にせよ家電にせよ、ドイツ製品がどんどん売れる。ギリシア国債が紙屑になろうと、それを十分に上回る国益が上げられるということです。

ところがメルケルは少しばかりやりすぎてしまいました。ドイツが緊縮財政・金融引き締めばかり言うものだから、他のEU諸国もそれに従わざるをえず、ドイツ以外のEU諸国の経済がどんどん落ち込んでいったからです。

最終的にユーロで(中央銀行は一三〇〇億ューロのギリシア支援に踏み切りましたが、ドイツの一人勝ち状態に変わりはなく、結局はドイツのしたたかさが一枚も二枚も上だったということです。

考えるとはなにか

2012年10月23日 | 2.数学
『数学による思考のレッスン』より

考えるということ
 
 ① 第一に、「考える」という言葉は多義語である。それは目に見えない対象を表すだけに把握が難しい言葉だが、「(幅広い)比喩的な解釈モデルを構築する思考」「想像力で(より深い)説明の層を見出し分析結果を論理的に跡付ける思考」「(鋭い)アイデアを生み出す思考」という三つの心内過程は、分析的に、別個に取り扱ったほうがよい。

 ② 次に、これら三つの関係であるが、まず私たちは比喩的なモデル作りをもとに出発するのであって、分析と論理や、アイデアから出発するわけではない。この「モデル作りの機能」が「考える」ことの核になっているのではないかと思われる。

 ③ 世間では「考える」を「形式論理」と同一視しがちだが、形式論理はアイデアに導かれて厳密に世界を構築するために地を這うょうな苦労をする道具であり、むしろ考えるという心内過程の中心は「想像力(イマジネーシ’ン)」なのではないか。シンボル(イメージ)を媒介する機能について、「思考」と「想像力」はすごく似ている。そして、どちらも人間の(非決定論的な意味での)自由と深い関連がありそうだ。

 ④ 考えるとは、世界を、シンボルやイメージとして保持し、これら時間的な性質を持つシンボル(イメージ)を空間的構成におきなおす試みである。言語はその補助をなすが、それは時間的な性質を持ち、考えることの本質それ自体ではありえない。

 ⑤ シンボル(イメージ)を用いて考える操作のポイントは、「存在するもの」を情報として取り込み加エするだけでなく、想像力によって生み出されたもの、「ない」ものをシンボル(イメージ)の世界の中に常に引き入れることである。思考の達人とは、「ない」ものを常に見つめている人であり、そうした「ない」ものを見つめる探究は無意識のときにも継続している(対照的に論理的思考の場合には意識が不可欠だし、「ある」ものを組み立てていくのが思考の中心的課題である)。

 ⑥ 考えるとは、単に外的な情報を摂取して、それを組替え処理する情報処理以上の行為であって、そのために考えるという作業はかなり自由なものであり、マニュアル的な技術論では語りえない。私たちが摂取する情報は常に本質の「断片」であり、そこから全体性を回復するためには、論理以上に「補助線を引く」アイデアが必要だ。

数学を考えるということ

 ① 考えるとは、自分の世界(イメージ・シンボル世界)に謎、異物、問題が投げ込まれたとき、その謎の理由を探り、異物を自分の世界に位置付け、問題を解決しようとする運動である。

 ② 大まかに言えば、それは無数のシンボルやイメージを自分の中で整合的に組み立てていく作業であり、「想像力」「論理」「イメージを整理し構造化する力」といったいろいろな能力が関与している。その中ではどうやら「想像力」(「ない」イメージや「仮定のイメージ」を操る能力)が広大な部分を占めているらしい。また、思考に秀でた人と凡人を区別するのは、論理ではなく想像力である。

 ③ 人間は白紙から思考するわけではない。文化によって刷り込まれた世界像や、自分で開発した世界像がまずあって、そこから始めるのだ。これがいわばラ″セルのいう「近すぎも遠すぎもせず、小さすぎもせず大きすぎもしない身近な日常世界」である。

 ④ 初期の世界像は、数多くの経験的モデルや、比喩から成り立ち、これらは論理ではなく想像力で獲得される。この段階では問題を考えること自体、モデルに当てはめたり、想像力で補助線を引いたり(部分から全体性を回復したり)、根源的なイメージを思い浮かべるという想像力の働きでなされる。

 ⑤ しかし、こうして獲得された初期の世界像は、「謎」や「不思議な事象」をその世界像の中に取り込むことで更新される。考える行為は、発見された無数の「なぜ」に対して「説明」を与え、より深くシンプルな説明の基層を見出していく行為である。そこでは強烈な興味を持ち、その軸に沿って無数の「なぜ」を見出していく過程、一見矛盾して見えることや説明の難しいことに対して疑問を抱くことが大切になる。

 ⑥ アイデアを思いつくという行為は、論理に先立ち、論理とは逆の順序で行なわれる。

 ⑦ 考えることが上手な人は、経験や観察によって様々な「なぜ」を発見する能力を持った人であり、同時に、様々な仮定を常に(アウトプ″卜に頼ることなく)頭の中で操っている人である。

三日で3Kgのリバウンド

2012年10月22日 | 7.生活
三日で3Kgのリバウンド

 三日間で3Kgのリバウンド。なぜ、増えるのか。間食ぐらいしか思い当たらない。

 余分なものを排除する。三日で戻す。

未唯へ

 やはり、寒すぎる。バスの中では手まで凍えていた。人がどう見ようと、防寒具にしましょう。今週はちょっと、変かもしれない。毎日の日替わりです。

Gのイントラ

 Gの上っ面の応えをOと二人で攻めていた。なぜ、会議の主導権をパートナーに渡さないのか。Gは関係ないでしょう。

 聞きかじったことを、そのまま、だらだらと述べるだけです。それが情報共有と思っている。それは情報の錯乱です。言ったことに責任を持っていない。毎回毎回、言うことが違います。忘れないうちに話しているだけです。Gの役割はSへの制御です。Sからのご託宣では、不要です。

糖質制限

 帰りに本屋によったら、「糖質制限」の本が一杯ありました。ブームなのか。先週借りた「糖質制限のすすめ」が一番、わかりやすい。返したはずがないのに、部屋の中で見当たりません。部屋の整理をしましょう。

第10章をアウトラインを始めました。テーマはGG=LLです。まだまだ、ロジックになっていない。さらに他の人には分からない世界です。
 分化
  個人の分化
   分化の意味
    ①離れないもの ②グループから見た個人 ③個人の多様性
   理論化
    ①数学の先行き ②GG=LLの予測
   多くの人が生きていく
    ①グループの存在
  組織の分化
   分化の意味
    ①組織の多様性
  行政の分化
  兆候
   社会の流れ
    ①本からの情報
 GG=LL
  存在と無
   GGのイメージ
   LLの理念
    ①世界が変わる
   哲学との関係
   自分との関係
    ①各ジャンル ②自分が存在する ③自由でいられる ④
  各ジャンル
   数学
    ①複雑性 ②コンパクト空間
   社会
    ①コンパクト社会 ②働くことの意味
   歴史
    ①超国家 ②経済圏 ③ギリシャの方向性
   仕事
    ①三段ループ ②LLは企画 ③GGはお客様
  パターン
   未分化
    ①個人の思いで分化 ②ネットワークでつなぐ
   GとL
   GGとL
    ①多様なローカル
   GとLL
  未来予測
   コンパクト化
    ①メーカーの役割 ②行政の施策 ③商店街
   スマホ
    ①コミュニティ化
   2050年の姿
    ①環境社会 ②考えるだけ
  複雑性の取組
  複雑性とは
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  マーケティング
  複雑なまま処理
   ネットワーク
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  究極の姿
  政治の究極
  社会の究極
  歴史の究極

自己の意味

2012年10月22日 | 1.私
『ライフストーリー論』より 自己と語り

自己を語ることは自己の意味を構成することである。社会言語学のリンデは次のようにいう。

個人が、善良で社会的にも好ましい安定的な人物として快適に社会的世界に存在するためには、一貫性があり、受け入れやすい、常に更新されるライフストーリーをもつ必要がある。1

ライフストーリーは、私たちはだれで、どのようにいまの私になったのか、という自己の意味を表している。ライフストーリーは、私たちがこの自己の意味を伝え他者と交渉するためのたいへん重要な手段でもある。つづけてリンデは、自己の三つの特質をあげている。ひとつは、自己の時間を越えた連続性である。過去と現在の関係をつくり、一貫した年代順に出来事が関連づけられることである。

語り手は、子どもから大人へという年代順に重要と思われる出来事を配列して語りがちである。歴史的連続性の感覚を知覚し、つくりあげる能力があるということが通常のパーソナリティにはそなわっていると考えられている。それができない場合は自己の未熟さかパーソナリティの障害ということにされてしまう。もちろん、これは文化によって異なる。日本では少し前までは、先祖や子孫とのつながりを強調した。「家」という観念は、先祖祭祀や系譜の連続性などを主要な内容としていた。この場合、自己は一人の人生を越えてつながっている。事故や災害などすぐに原因が究明できないような出来事体験は、「因果応報」や「輪廻」という言葉によって説明された。そうした用語は、自己が一人の人生をこえる連続的なものであることを表している。

二つ目は、他者の関係において、自己は他者とは区別される独自性である。自己のアイデンティティをつくりあげることは、他者と関係づけて自己を語ることである。リンデによれば、これは自伝のジャンルがいち早く成立したことにみられるように、主に西欧文化において認められるものである。多くの文化では、個人はコミュニティとの関連で定義され、その場合の基本的な単位は個人というよりコミュニティにある。日本には特定集団を「ムラ社会」と呼ぶ表現がある。同類集団で上下のしきたりがきびしく上に立つものの指示や判断に従って行動し利益を図り、出る杭は打たれる式の閉鎖的集団のこととでもいえようか。藩閥などに見られたもので、ここでは個人ではなく組織や集団が単位となる。また、ジェンダーによって自己の定義が異なるという説もある。 N.チョドロウによれば、男子は母親との緊密な結びつきを拒絶することで自己意識を獲得し、他者との関係を結ぶことに未熟で、分析的な見方を発達させる。他方、女子は母親との明確な断絶がなく成人後も他者との連続性のある自己意識を発達させ、独立性が少ないことが感受性や思いやりの心の特質をもたらす、という2。ジェンダーの再生産の精神分析からの理論で、フロイト理論や核家族の母娘関係などを基本としているという点でも現代からみれば批判の多い説だが、これらをジェンダーの差異というより自他関係の両極に位置づけ、その間に個人をあてはめれば、自己の独自性と他者との連続既という両者の特質が、ライフストーリーの語りや語り方に応じて、どのように使い分けられるかが検討できるだろう。

三つ目は、自己のリフレクシヴティである。語りの構造についての章でも詳細に説明するが、語りには、語り手の自己のほかに語られる物語のなかに主人公である自己が登場する。この点については、G丑ミードが以下のように述べている。

わたしが明白にしたいのは、それ自身にとって対象だという自己の特徴である。この特徴は、『自己』(self)という言葉のなかにあらわれている。自己は再帰代名詞で、主語(subject)にも目的語(object)にもなれることをしめしている。3

ミードは、自己を反省的に振り返る過程で、他者の視線によって位置づけられる自己意識を目的語の「客我」とし、主語としての「主我」との相互作用をとおして新しい自己が生成するとした。ライフストーリーの語りでは、さしあたり、語り手を「主我」、語られるストーリー内の自己を「客我」に対応させることができる。

現在の自己である語り手は、語られる過去の自己と距離をおき、反省し、調整し、生み出す自己を更新する。リンデは、「まさに語りの行動は、自己の尊厳と編集の機会をもたらす」4と述べる。これは、個人が、自己が語っていることや自己を反省していることに気づいている行動である。自己を物語ることは、単純に過去の自己を語るのではなく、過去の出来事や経験について現在の自己と往復しつつ反省しながら語ることである。 A.ギデンスは「自己アイデンティティは、生活史という観点から自分自身によって再帰的に理解された自己である」5と述べて、再帰的近代においては多様な自己物語の誕生の可能性を指摘している。ここでは、他者との関係よりも過去の自己と現在の自己の問に一貫性を打ち立てることができるかどうかが問題になる。

社会学では、自己はまず孤立した状態で存在し、それから他者と関係をむすぶという理解ではない。自己とは、自己物語内の自己との関係であるだけでなく、他者との関係でもある。自己は他者との相互行為をとおして生み出される「関係的自己」概念として捉えられる。ライフストーリー・インタビューでは、聞き手は、いわば「あなたは何者ですか」という問いに応答して自分自身を語るという営みが行われ、それによって「私が何者であるか」が明確にされる。過去の経験をふまえ現在に生き未来への企図を含むライフストーリーを語ることなくしては、語り手は何者でもなく、ただの空虚な存在でしかない、といえよう。こうした視点から、インタビュー時における自己概念にふれることにしよう。

歴史における時間のスケール

2012年10月22日 | 4.歴史
『社会(学)を読む』より 書物の時間性と社会の時間性

「現代」と「古典」が共存する「『現代社会』の古典時代」という言葉は両義的だ。

本や論文の場合、「古典」とは古い本であるにもかかわらず、そこに学問の規範的な問いや考え方が記され、そこから新たな問いや思考を引き出しうるもののことだったが、ここで「古典時代」というのは、歴史的な変動の中で、その変動を越えて一定の期間通用しうる社会のあり方が典型的に実現された時代、という意味だ。「『現代社会』の古典時代」という言葉が意味するのは、私たちが生きる「現代社会」を特徴づけるあり方が最初に現実化し、そのような社会が「現代社会」として語られた時代ということであり、その時代と社会に、私たちが生きるこの「現代社会」の原型ないし範型を見出すことができるということだ。社会とは変わってゆくものであると同時に、その基底の部分は一定の期間変わらないものである。そんな社会に対する理解が、「『現代社会』の古典時代」という言葉には示されている。(そしてそれは、もう半世紀以上も「昔」のことなのだ。)

社会のなかの「変わるもの」と「変わらないもの」についてレヴィ=ストロースは、歴史記述における「コード化」、つまりどれくらいの時間の尺度で歴史を対象化し、記述するのかということをめぐる問題として、次のように述べている。

それゆえ歴史的生成を考えるとき、一万年もしくは十万年単位でコード化される先史時代にはじまり、つづいて紀元前四千年ないし三千年から千年単位の尺度をたどり、つぎには世紀単位の歴史の形をとって、さらに筆者の好みしだいで一年単位、一日単位、場合によっては一時間単位の歴史の薄片をはさみ込んだ連続的進展と見るのは幻想であるのみならず矛盾でもある。これらの日付のすべてが一集列を形成しているのではない。それらは異なるいくつかの種に属している。一つだけ例をあげておこう。われわれが先史時代について行っているコーディングは、近代史もしくは現代史に使われるコーディングの前おきではない。コードはそれぞれ一つの意味体系に対応する。そしてその意味体系は、少くなくとも理論的には、潜在的に人類の歴史の全体に適応できるものなのである。一つのコードにとって意味のあることは他のコードにとっても意味があるということにはならない。先史学の体系の中でコード化されるならば、近代史・現代史のもっとも有名な出来事といえども関与的ではなくなってしまう。例外はおそらく(しかもそれについてはわれわれにはまったく何もわからないのだが)、全地球的スケールの人口変動の大規模な様相のいくらかと、蒸気機関、電気、原初力の発明くらいであろう。

必ずしもわかりやすい文章ではないが、ようするに歴史を対象化する際に用いる時間のスケールに応じて、大きな時間尺度で記述される歴史と、小さな時間尺度で初めて有意味なものとして見出され、記述される歴史とがあるのだから、それらを同一の単線的な集列としてみるのではなく、異なるコーディングによる並行する集列群として見なくてはならないのだということが、ここでは語られている。

人間の歴史を異なる倍率の拡大鏡で見るとしよう。歴史の全体を視野に収めるような低倍率のレンズなら、そこに見えるのは火の獲得とか農耕の開始とか、民族の大移動とか、エルサレムやローマのような長い歴史をもつ都市のあり続ける様が見えるだろう。倍率をあげていくと国家の成立なども見えてくるかもしれないが、王朝の交代や王の代替わりは、もっと倍率をあげないと見えてこない。ましてや、ある戦争の開始から終結までの細かいプロセスなど、もっとずっと倍率をあげないことには見えてこない。ただし、高倍率のレンズで見る時には、低倍率のレンズでは見えていた歴史の巨視的な変化は背景化して見えなくなる。レヴィ=ストロースが述べているのは、そういうことだ。

だがそれは、単に歴史を観る眼の倍率の問題ではない。そうした時間の尺度をとったときに見えてくる、変動の異なるペースをもつ複数の層が社会にはあるということだ。そこには長期的に変化する層、言い換えれば短期的には変動しない/しにくい安定した様相を見せる層もあれば、ごく短期的に変動してゆく層もあり、それらの間に様々なベースで変化してゆく層がある。重さの違う液体や粒子が積み重なった流れのように、軽い表層はさらさらと早く流れ、その下のより重い層はもっとゆっくり流れ、底に近い部分はほとんど静止して見えるようにごくゆっくりとしか動かない。そんな異なる変動のペースと安定性をもった流れの諸層の積み重なりとして、社会は存在しているのだと考えてみよう。