未唯への手紙
未唯への手紙
ブダペストの泣き柳
『病いと癒しの人間史』より プラハのマリオネット劇場 ドナウのくさり橋 ⇒ ブダペストの図書館を10年前に飛行機の中で、ハンガリーの大学教授から紹介された。行かないと。
ブダペストで滞在したホテルは、ペストの中心地からバスで小半時も登った小高い山の中腹にあった。バスは旧型で、道は左右に大きくカーブし、それをかなりのスピードでうねるように上がっていく。いっせいに右に左に体を揺らす乗客に混じって、窓の外の大きな木々の茂る森を、私は一心に見つめていた。時々、木々が途絶えると遥か下に、ペストの街並みが見え、また緑の木立に隠れる。
途中に鉄道の小さな駅があって、一両か二両のマッチ箱のような車両に人が乗り降りしている。その駅の前に、アザレアの花が美しく咲いたベランダに丸テーブルを出したカフェがあった。数人の客が、新聞や本をひろげて、コーヒーを飲んでいる。滞在していたホテルも、森の中にあって、外テーブルでの食事には、風が吹くたびに木々がざわめき、ちょうど羽子板の追羽根のような羽つきの種が、カツンカツンと固い音をたてて、テーブルに落ちてきた。
今日は自由橋を渡って、パウロ会の洞窟教会にあるコルベ神父の遺影に会いに行くことにしている。コルベ神父は、アウシュビッツの強制収容所で他人の身代わりになって、殺されてしまった。ペスト地区まで降り、地下鉄を乗り継ぎ、雑然とした街中をひたすら歩く。車が歩行者などさして意にも介さないかのように乱暴に行きかう。ひび割れたアスファルト、国会議事堂の近くの農業省の建物の壁面には、たくさんの銃弾の跡があった。1956年の民主主義を求めたハンガリー動乱の惨劇の記憶である。随一の繁華街では、化粧品やブティックのブランドショップが軒を並べ、外資のファストフードもあって、観光客が繰り出している。その観光客に子連れの婦人が、コインをせがんで手をのばしていた。
公共施設の美しい曲線のファザード、青や緑のセラミックを貼り付けた鮮やかな屋根、壁に散りばめた同種のセラミックのモチーフ。どこか東洋的な雰囲気を感じながら、私はベストの街を歩き回っていた。
中央市場を通り過ぎて、自由橋を渡ると、目の前に灰色の岩肌を見せながらゲッレール卜の丘が威圧するように見えた。そのすぐ下には、洞窟をさらにくり抜き、岩を打ち砕いて造られた洞窟教会がある。激しい車の往来のある交差点を越えて、石段を上るとぽっかりと岩穴があき、鉄格子のような扉がはめ込まれてあり、その奥にオレンジ色の灯りが見えた。天然の洞窟を利用した小さな洞穴の小部屋が、それぞれ小さな礼拝堂となり、マリア像が見守っている。一番奥の主祭壇にはキリストの十字架の像が淡く照らし出されていた。そして、コルベ神父の遺影も見つけることができた。洞窟教会の神秘的な雰囲気に捉われながら、いつもヨーロッパの壮麗な大教会を目の当たりにしてきた私は、この教会に宗教の根源を考えさせられ、その信仰の深さに驚かされる思いがした。
小さな椅子にたたずみ、岩肌そのままの天井を見上げると、ステンドグラスの薔薇窓とは違う、別の心の安らぎが降りてくる。そもそも、このゲッレールトの丘もアジアにルーツを持つ人々の多いこの地で、キリスト教を布教しようとしたゲッレールト宣教師が、ワイン樽に押し込められ、丘の上からドナウ川に突き落とされて、殺された場所であった。民族の違いを越えて、ヨーロッパとアジア、大陸で互いを尊重して生きるということをアウシュビッツで訴えたコルベ神父がこのゲッレールトの丘の下の洞窟教会にいたことも、偶然ではないように思える。
そのコルベ神父とともにナチスの犠牲となったユダヤの人々のシナゴーク(ユダヤ教教会)がこの街には残っている。ブダペストは、第二次世界大戦の最中、ナチスが侵攻している。ハンガリーにいた74万人のユダヤ人のうち60万人が殺され、戦後に生存確認ができたのは、たった7万人だった。そのシナゴークに行かねばならない。私は、地下鉄を乗り継ぎ、球体ののった二本の塔のある横縞模様の愛らしい学校を思わせるシナゴークにたどり着いた。まだ開いている時刻だろうか、丸いアーチ型の入り口から入って、入場券を手にすると、私はほっと息をついた。シナゴークの内部は、美しく色とりどりの煌びやかな装飾で、まるで別世界のようだ。天井から星雲を思わせる電球のだくさんついたシャンデリアが下っている。エキゾチックな配色、幾何学模様、黄金の祭壇、二階三階の女性用のパルコニー。何もかもが、さっきまでの洞窟教会とは対極にあるように思えて、私は目がくらむようで、そっと中庭にでた。明るい日射しの下で、木々の緑が風に揺れている。
庭の奥に石造りの四角いものがある。何だろうと思って近づくと、それはなんと墓標の群れであった。ふと、不思議に思った。ユダヤ人はシナゴークの中には、墓地を造らないと聞いている。しかし、このシナゴークには、たくさんの墓石が立ち並んでいるではないか。近づいてよく見ると、重なり合う墓石には、名前と没年が刻まれている。そこには、1943、1944、1945という数字ばかりが記されているのだ。第二次世界大戦末期、ナチスの殺戮によって、ここに夥しい遺体が運び込まれたのだろう。そして、このシナゴーク内に同胞の遺体を埋葬し続けたに違いない。このシナゴークの真実は、このユダヤ人墓地にあるのではないか。
立ちすくむ私に、庭を掃除していた女性が手を休めて、さらに奥の庭の一隅を指差した。銀色の金属の噴水のようなモニュメントがある。「あそこに行ってごらん」。彼女の目に強いメッセージが込められているように感じて、私は小石の砂利を踏みしめて、その銀色の柳のモニュメントに近づいた。「ああっ」と、私は声をもらした。夥しい柳の葉の一枚一枚にナチスによって虐殺されたユダヤの人々の名前と死亡年が克明に刻まれていたのだ。ここにも1942、43、44、45の数字が並んでいる。この名前の刻まれたリーフの柳は、「泣き柳」というのだという。明るい日差しの中で泣き柳が、銀色に輝いている。忘れてはならない真実を目の前にして、私は長い間呆然としていた。
ブダペストで滞在したホテルは、ペストの中心地からバスで小半時も登った小高い山の中腹にあった。バスは旧型で、道は左右に大きくカーブし、それをかなりのスピードでうねるように上がっていく。いっせいに右に左に体を揺らす乗客に混じって、窓の外の大きな木々の茂る森を、私は一心に見つめていた。時々、木々が途絶えると遥か下に、ペストの街並みが見え、また緑の木立に隠れる。
途中に鉄道の小さな駅があって、一両か二両のマッチ箱のような車両に人が乗り降りしている。その駅の前に、アザレアの花が美しく咲いたベランダに丸テーブルを出したカフェがあった。数人の客が、新聞や本をひろげて、コーヒーを飲んでいる。滞在していたホテルも、森の中にあって、外テーブルでの食事には、風が吹くたびに木々がざわめき、ちょうど羽子板の追羽根のような羽つきの種が、カツンカツンと固い音をたてて、テーブルに落ちてきた。
今日は自由橋を渡って、パウロ会の洞窟教会にあるコルベ神父の遺影に会いに行くことにしている。コルベ神父は、アウシュビッツの強制収容所で他人の身代わりになって、殺されてしまった。ペスト地区まで降り、地下鉄を乗り継ぎ、雑然とした街中をひたすら歩く。車が歩行者などさして意にも介さないかのように乱暴に行きかう。ひび割れたアスファルト、国会議事堂の近くの農業省の建物の壁面には、たくさんの銃弾の跡があった。1956年の民主主義を求めたハンガリー動乱の惨劇の記憶である。随一の繁華街では、化粧品やブティックのブランドショップが軒を並べ、外資のファストフードもあって、観光客が繰り出している。その観光客に子連れの婦人が、コインをせがんで手をのばしていた。
公共施設の美しい曲線のファザード、青や緑のセラミックを貼り付けた鮮やかな屋根、壁に散りばめた同種のセラミックのモチーフ。どこか東洋的な雰囲気を感じながら、私はベストの街を歩き回っていた。
中央市場を通り過ぎて、自由橋を渡ると、目の前に灰色の岩肌を見せながらゲッレール卜の丘が威圧するように見えた。そのすぐ下には、洞窟をさらにくり抜き、岩を打ち砕いて造られた洞窟教会がある。激しい車の往来のある交差点を越えて、石段を上るとぽっかりと岩穴があき、鉄格子のような扉がはめ込まれてあり、その奥にオレンジ色の灯りが見えた。天然の洞窟を利用した小さな洞穴の小部屋が、それぞれ小さな礼拝堂となり、マリア像が見守っている。一番奥の主祭壇にはキリストの十字架の像が淡く照らし出されていた。そして、コルベ神父の遺影も見つけることができた。洞窟教会の神秘的な雰囲気に捉われながら、いつもヨーロッパの壮麗な大教会を目の当たりにしてきた私は、この教会に宗教の根源を考えさせられ、その信仰の深さに驚かされる思いがした。
小さな椅子にたたずみ、岩肌そのままの天井を見上げると、ステンドグラスの薔薇窓とは違う、別の心の安らぎが降りてくる。そもそも、このゲッレールトの丘もアジアにルーツを持つ人々の多いこの地で、キリスト教を布教しようとしたゲッレールト宣教師が、ワイン樽に押し込められ、丘の上からドナウ川に突き落とされて、殺された場所であった。民族の違いを越えて、ヨーロッパとアジア、大陸で互いを尊重して生きるということをアウシュビッツで訴えたコルベ神父がこのゲッレールトの丘の下の洞窟教会にいたことも、偶然ではないように思える。
そのコルベ神父とともにナチスの犠牲となったユダヤの人々のシナゴーク(ユダヤ教教会)がこの街には残っている。ブダペストは、第二次世界大戦の最中、ナチスが侵攻している。ハンガリーにいた74万人のユダヤ人のうち60万人が殺され、戦後に生存確認ができたのは、たった7万人だった。そのシナゴークに行かねばならない。私は、地下鉄を乗り継ぎ、球体ののった二本の塔のある横縞模様の愛らしい学校を思わせるシナゴークにたどり着いた。まだ開いている時刻だろうか、丸いアーチ型の入り口から入って、入場券を手にすると、私はほっと息をついた。シナゴークの内部は、美しく色とりどりの煌びやかな装飾で、まるで別世界のようだ。天井から星雲を思わせる電球のだくさんついたシャンデリアが下っている。エキゾチックな配色、幾何学模様、黄金の祭壇、二階三階の女性用のパルコニー。何もかもが、さっきまでの洞窟教会とは対極にあるように思えて、私は目がくらむようで、そっと中庭にでた。明るい日射しの下で、木々の緑が風に揺れている。
庭の奥に石造りの四角いものがある。何だろうと思って近づくと、それはなんと墓標の群れであった。ふと、不思議に思った。ユダヤ人はシナゴークの中には、墓地を造らないと聞いている。しかし、このシナゴークには、たくさんの墓石が立ち並んでいるではないか。近づいてよく見ると、重なり合う墓石には、名前と没年が刻まれている。そこには、1943、1944、1945という数字ばかりが記されているのだ。第二次世界大戦末期、ナチスの殺戮によって、ここに夥しい遺体が運び込まれたのだろう。そして、このシナゴーク内に同胞の遺体を埋葬し続けたに違いない。このシナゴークの真実は、このユダヤ人墓地にあるのではないか。
立ちすくむ私に、庭を掃除していた女性が手を休めて、さらに奥の庭の一隅を指差した。銀色の金属の噴水のようなモニュメントがある。「あそこに行ってごらん」。彼女の目に強いメッセージが込められているように感じて、私は小石の砂利を踏みしめて、その銀色の柳のモニュメントに近づいた。「ああっ」と、私は声をもらした。夥しい柳の葉の一枚一枚にナチスによって虐殺されたユダヤの人々の名前と死亡年が克明に刻まれていたのだ。ここにも1942、43、44、45の数字が並んでいる。この名前の刻まれたリーフの柳は、「泣き柳」というのだという。明るい日差しの中で泣き柳が、銀色に輝いている。忘れてはならない真実を目の前にして、私は長い間呆然としていた。
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