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図書館界に論争がなくなった?

『ず・ぼん』より 図書館の役割は終わったか?

手嶋 前回の編集会議で、『ず・ぼん』における我々の役割はもうないんじやないか?という問題提起が堀さんからされました。

沢辺 では『ず・ぼん』とは何だったのか? からいきましょう。初代編集長の堀さん、『ず・ぼん』はどうして始めたんですか?

手嶋 私は堀さんの『ず・ぼん』創刊に寄せたメッセージを鮮明に覚えている。「論争がなくなってる」と書いてるんだよ。一九九四年の創刊当時も論争は少なくなっていたかもしれないけれど、いまはもっと進行していて、いろんな問題があったって、それをめぐった論争に全然なってないんじやないかな。

真々田 堀さんの「論争が成立してないね」という感想は自分の職域の周りとか、もっと広い意味の図書館界とか、具体的にどこを見てのものだったの?

堀 たしかに「論争が成立してない」と書いたけど、もう少し細かくいうと、論争が成立する土壌があるはずなのに論争を回避したり、曖昧にして逃げているのではないかという感じがしていた。いまはもうそういった土壌自体があるのかないのかよくわからない。何に向かって何を言ったらいいのかわからないような気がしますね。

沢辺 「論争がなくなったIという初発の動機そのものに対しては、あまりに何にでも適用できるタイトルで、いま思うと、便利すぎたかもしれないよね。それに、俺はいま、論争はあると思う。たとえば「このことは図書館の自由にあたるか」という議論や、「悪い権力を打ち倒そう」的な論争は確かになくなっていると思うけど、一方ではU40のような動きが出てきてますよ。昔は機関紙をつくって郵送するくらいしかできなかったけれど、俺が見ているTwitterでは、U40のような話題がよく目につくTwitterは「俺」というフィルターがかかっているから、図書館や出版に興味がある人が多いと見えがちなのは十分わかったうえで、ゆうき図書館の笹沼(崇)くんなどは、やっぱり活発に活動していると思う。堀さんたちには、それが見えてないんじやないかな。

手嶋 昔流の論争がなくなっただけで、実際には論争があって、私たちには見えてないということはあるかもしれない。申し訳ないけれど、私はそういう部分をフォローできていないからわからないです。

真々田 私は、論争がないとは思わないですよ。論争を耳にしているかどうかは別にして。堀さんがイメージしていた頃は、たぶん図書館が目新しいものとして社会に登場してきたところで、そこに関わっている人間が「どういうものをつくろうか」という方向を定めないと、どうにもならない形或過程だったから、関わる人間の多くがそのための議論に参加した思う。現在は、出版と読者をつなぐ媒体の形が大きく変化している状況ですよね。これだけ状況が変わっているのなら、議論が必要なはずですよ。そうしないと変化に対応していけないだろうしね。

手嶋 確かに電子書籍など状況の変化はあるけれど、利用者が求める資料や情報を、的確に迅速に提供するという図書館の基本的な役割は変わっていないと思うんですよ。提供する媒体が変わるようなことはあったとしても、基本の部分は変わっていない。

真々田 媒体の変化は、図書館のサービスにも変化を起こしますよね。

沢辺 真々田さんの言うこともわかるけど、俺はその一歩手前に問題があると思う。いまの利用者は、もう十二分に満足しているわけですよ。こういうことを言うと「人間の知的葛藤というのはおいそれと満たされない」とか言われちゃうかもしれないけど、そんなもの図書館がなくたって十分満たすことはできますよ。図書館がなければ勉強できません」とか「図書館があったから子育てに役に立った」ということは、そんなにないと思うよ。それに前から提供できていないし、求められてもいないんじやない? もっと単純に言えば、無料で借りに行く人がお金を持っていないかというと、必ずしもそんなことはなくて、別のものにお金を使いたいから無料のところに行くんじやない? それで別にいいけれど、そういう人の図書館に対する欲望は「あったらいいよね」くらいのレベルだよね。あるいは図書館が既得権になっているので、なくなったら怒るというだけで、図書館がなくなったら本当に困るのかというと、そんなことはないでしょ。日本社会はそこまで発展しちゃったんですよ。図書館が必要だという欲望が、日本社会の中にまだ切実にあると思う?

手嶋 欲望というより、知的な欲求というかさ。

沢辺 知的な欲求は本屋に行けばいいんじゃない乃了・手嶋 フローのものはお金を出せば手に入るかもしれないけど、雑誌でもなんでも、それをストックするところが必要ですよ。

沢辺 でも実際は市町村立にはそれほどストックされていないよ。

手嶋 それはストックされてない図書館があるという問題だよ。

沢辺  いやいや、実際にストックを借りる人が少ないから、そういった図書館になるんじやないの?

手嶋 そんなことはないよ。ストックのものを利用したいという要求はかなりありますよ。それを阻んでいるのが、いまの都立図書館だったりするわけで。
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コミュニティとは

『市民参加の行政学』より コミュニティ論による補強

市民参加が、外に向けてさらに効果的な運動体になるためには、組織化というプロセスを経ることになるが、その運動が内に向かうこともある。仲間とか同志などという言葉が運動の中でしばしば使われるが、運動体がコミュニティにも近似することはよくある。というよりも、社会運動はしばしば自閉的で、外部からの影響を受けることを少なくして、理念を純化したいという性向を有している。

社会運動は、むしろコミュニティに支えられるというべきである。その意図関心が外に向かえば、社会運動に転じる。硬貨の表と裏、表裏一体というべきであるが、その間の壁の厚さ、表と裏の隔たりの違いがある。また外に向ける厚さか、内に向ける厚さという違いもある。しかし、社会運動を持続させるためには、コミュニティによる裏打ちは欠かせない。

運動がしばしば前衛という言葉を伴うこともあるように、前章で述べたが、少数の、あるいは一人の熱心なカリスマ的なりーダーに率いられて、関心の薄い人たちも動員されることがあるのに対して、コミュニティは、そのなかにいるすべての人たちが、関心の濃淡はあるが、とりあえず当事者になる。それを何かの便宜のために使うことはある。しかし、そのなかの仕組みが運動のためにいわば一本調子になってしまえば、その意図を厭う人たちをむしろ多くすることで、その内部に分裂を招来することになる。

運動体として捉えるとすれば、少しでも関心のある人をそのなかに囲い込む包括的なところがなければならない。動員力を増せば、前衛的な運動よりもさらに強力になる。本義の議論とは重ならないところもあるが、利害関係者による政策コミュニティや、近年の携帯電話に集う人たちの電子コミュニティも無視できなくなった。市民参加はコミュニティ論による補強が欠かせない。

では、コミュニティとは何か。それ自体の存続を中核的な目的とした集まりである。そこにいること自体が重要で、固有の非道具的価値の実現を目指しているといってよい。また人為的というよりも、すでにある集まりという含意がある。地域社会にその用語を当てるのは、その含みがあるからである。

それ以外にもいくっもの含みがあり、多義的な概念である。それを真正面から定義しようとすれば、それだけで一冊の書籍ができるほどである。定義に関する立ち入った詳細な議論はここではしない。最低限以下の3点を満たすものとする。

 ① 何か価値のあるものを共有している。なお、共有されている価値の重大さをも含めるべきである。

 ② 共有している人たちを、それ以外の人たちから区分できる境界がある。中にいる人たちにはメンバーシップ(成員性)が付与される。

 ③ 境界の中では、比較的濃密な相互作用がある。信頼を介したコミュニケーションが成り立っているということである。

以上の要件を満たすとしても、価値共有の程度、境界の明瞭さ、さらに相互作用の濃密さなどでさまざまのコミュニティが出来上がる。規模もさまざまである。激しいナショナリズムに突き動かされた国家から極小のセルフヘルプ集団まで、その広がりを一つのコミュニティーモデルで論じることはできない。とりあえずは従来の社会学が、地域のなかで成り立ってきた集団、地域社会をその議論の基軸に据えたことから、それを手掛かりに市民運動のための議論につなげることにする。

なお追加的であるが、金子(2011)は、ヒラリー(1955)の文献を援用しながら、コミュニティとは、一定の地理的範域、社会的相互作用、共通の絆の3つによって定義されるとして、大衆社会に対して、同一化と疎外、道徳的統合と道徳的崩壊、包摂と開放、全体性と分節性に対比させることができるとしている。
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生産の民主的コントロールによる持続可能な社会の実現

『現代地球環境論』より 地球環境危機を克服しうる持続可能な社会

地球環境を保全するには、省エネやエネルギー効率改善を推進すると同時に、C02を排出しないエネルギー源利用の拡大が不可欠である。これらを実行して行くうえで市民は重要な役割を演じる。

市民は、環境保全的な消費者「グリーン・コンシューマー」として省エネやエネルギー効率改善などの環境保全に配慮する行動をとることで、社会におけるエネルギー生産のあり方に大きな影響を与えることができる。節電・節ガス・節水などによる省エネを実行するとともに、エネルギー効率の高い家電製品や自動車、国内産の農産物などを選択購入することもエネルギーとC02の削減につながる。交通手段として、自転車や公共交通機関を優先的に利用することもそうである。

さらに、持続可能なエネルギー生産への転換が不可欠であり、再生可能エネルギー普及を促進させねばならないが、その際、市民は生産者として主役を演じることになる。すでに述べたように、再生可能エネルギー資源は地域資源であり、それを活用するエネルギー生産は小規模分散型であるため、市民などの地域主体が参加し取り組むのに適している。しかも環境保全に有効なエネルギ-であるため、市民のなかには積極的に取り組みたいと考える人も多い。また、市民が再生可能エネルギー発電の普及主体となることで普及が促進され、社会に好影響をもたらす。市民は単なる消費者ではなく、再生可能エネルギー中心の社会では、環境保全的な生産者「グリーン・プロデューサー」になれるのである。

このことは、エネルギー生産における生産関係の根本的転換を意味する。企業中心のエネルギー生産から市民主導のエネルギー生産への転換である。こうして、市民の意向が反映される生産、言うなればエネルギー生産の民主的コントロールが強まることになる。市民は、コストや最大利潤獲得を優先するという基準ではなく、環境保全性や安全性などを重視して生産手段を選択するので、再生可能エネルギー中心の社会を目指すことになる。

これまでも、世界各国で市民による再生可能エネルギー普及が進められてきた。日本でも、多くの市民が経済的利益を期待できない条件下でも数十万戸もの住宅に太陽光発電を設置し、全国に200以上の市民共同発電所が3万人以上の人々の参加によってつくられてきた。これまでに5回の「市民共同発電所全国フォーラム」が開催され、全国からの創意工夫を凝らした取り組みの実践を学びあい、日本のエネルギー政策の転換を求めてきた。市民や自治体が廃食油を回収してバイオディーゼル燃料を製造・利用する菜の花プロジェクトなども全国に広がり、毎年「菜の花サミット」が開催されてきた。さらに、「自然エネルギー市民の会」など、多数の再生可能エネルギー普及を目指すNPOが活動を展開している。一方で、全国の多くの原発立地予定地域では、住民たちの反対運動で原発建設を撤回させてきた。これらの事実は、市民が環境保全性や安全性を可能にする持続可能なエネルギー社会をめざしていることを証明している。

適切な再生可能エネルギー普及制度を実現すれば、日本を含め世界各国で、市民参加による飛躍的な普及が可能となり、環境保全的で安全なエネルギー社会を生み出せるはずである。

物的生産が一方通行型から資源循環型へと移行していくわけであるが、その際、拡大生産者責任制の導入の重要性について述べた。しかし、生産者としての企業だけでなく、環境保全に配慮する消費者「グリーン・コンシューマー」としての市民も、物的生産分野での生産活動、産業活動を環境保全的な方向に転換させて行く重要な役割を演じることになる。

従来の生産で実施されてきた資源採取・生産・消費・廃棄の一方通行型生産から廃棄という過程はなくなり、自然から社会に取り込んだ資源はくり返し利用される循環型生産へ移行すると、市民が関与してきた消費過程は使用過程に変化し、その後の再資源化、そして再び生産過程へと戻る資源循環型生産に変化するのである。一方通行型生産は、企業の利潤獲得には好都合な方式で、生産過程と消費過程は意識的に分断され、市民が購入した家電製品などは、部品が壊れても製品ごと廃棄され、買い換えるのが当たり前であった。ところが、循環型生産では市民が関わる使用過程は生産と再資源化を結びつける結節点となる。その結果、生産への市民の関与度が高まり、物的生産においても市民的コントロールが働きやすくなる。市民による使用済み製品の回収や分別の協力なしには、循環型生産は機能しない。また、市民の環境保全に基づく購買行動が、企業の製品生産のあり方に大きな影響を与える。
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2030年が見えた

未唯へ

 やはり、眩暈です。昨日、何となくふらつくので、早めに寝ました。1時にトイレに行ったら、回っています。前の時に、薬を飲んでいないのが原因なのでしょうか。めまいは収まったと思います。朝の3時の段階で回っていた。昨夜は8時半過ぎから寝ていました。

 布団乾燥機だけが頼りです。部屋の暖房器具はありません。電気ヒーターが去年はあったが、火事を起こしたので、今年は使いません。

 8日間はフリーでゆったりと、考えましょう。

2030年が見えた

 今年の最大の成果は、2030年が見えてきたことです。その中には、日本と日本人の弱さ、組織の弱さも見えてきました。それに対するヒントも見えてきた。それに対して、どう持っていくか。プレゼンするにしても、そういうものを考慮して行うのか、まぜ、市民を直接変えていくか、というところからです。

 組織の弱さを強さにするにはbどうしたらいいのか、その意味では販売店の店舗の活性化がポイントになります。それがないと組織は逆作用になります。それがメーカーの役割です。それで市民とつながって、一緒に政治形態まで変えていきます。

 それにしても、今、日本の強さと思われているモノが完全に弱さになっている。方向が掴めない。政治も経済も変えられない。そうしている間に、政治そのものが変わり、国というモノが変わってきた。それをいち早く変えるところが主導権を持ちます。といっても、ハイヒエラルキーではない。

話せる相手がいない

 本当に話せる相手がいないことが分かりました。県にも大学にもいません。2030年の愛知と言いながら、チューターと講師には、そのイメージを持っていない。答を持たずして、争うのではなく、非難するだけです。そんなことは考えたという言い方をします。

 だから、市民に訴えていくしかない。そのための理論化とプレゼンを行います。それが本来の未唯への手紙の意味です。

パートナーの進化のために

 パートナーに言いたいのは、自分の中の組織への幻想と制約を破ることです。目的が何かをハッキリさせて、それに直に当たっていくということです。全部をやらなくてもいいです。

 物事をシンプルにして、責任者を決めていきます。その人間がやらなければ、それまでのことです。組織の限界です。組織を変える方に向かうしかない。

 パートナーは3番目の絶対的存在です。本人は気づいていないけど、私が得たものは多いです。

市民コミュニティのツール

 市民コミュニティのツールとして、iPad2を位置付けましょう。とりあえずは、奥さんとその仲間たちに広げます。その時に、iCloudが社会ライブラリになるかもしれません。

 OnetoOneというメーカーから一方的なものを考えずに、店舗で奥さん向けのiPad2講座を考えた方がいいです。市民側からの動きを作り出すことです

 iPad2を店舗で使える環境はあります。使い方を教えながら、メーカーのコンテンツに誘導させればいい。OnetoOneの展開をiPad2を売ることも含めてやらないとダメです。これはコミュニティに繋がります。スマホでは個人レベルだから、ダメです。

早く、帰りたかったけど

 結局、ディスクコピーで30分以上掛って、時間切れです。めまいがなかなか治らないです。前を向いていないと気分が悪い。

 都市間高速バス停で待っていると、次から次へとキャリアが来ます。やかましいです。不快な音です。バスの運転手のやかましいこと。寝ることができない。それに同じことをくどくいっています。運転していればいい、言っていることが、運転手としての言い訳です。ことが起きた時に、私は言いましたということが言いたいのでしょう。

 奥さんから家族4人で外食しているというメールが入りました。私が豊田市に着くころには、家に還っているということ。要するに、私抜きだと言うことです。

 フィンランドではないけど、フィンランド人の食べたいものはトナカイのステーキではなく、ラーメンです。ということで、行列のできる?つけメン屋のラーメンにしました。

 ラーメン屋のカウンターの紙の文字が小さくて、読めない。食べ物は感動をなくなります。あのラーメンもそうたいしたモノでなくなりました。
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