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自由な論議とルール遵守の両立は、大変難しい

『クラウド「超」仕事法』より クラウドは民主主義と両立するか

ところで、私は、インターネットに簡単に公共圏が構築できるとは考えていない。なぜなら、「自由な市場」とか「競争社会」とは、「何をやっても自由な社会」ではないからだ。市場経済は、強いルールの下でしか機能しない。同じことが、言論についても。‥える。

私は、「ウェブ上の自由な意見の交換」に幻想的な期待を抱いているわけではない。むしろ逆に、インターネットにルールを確立するのはきわめて困難だと考えている。とりわけ問題なのは、匿名での発言が可能であるため、無責任な批判や誹誇や罵倒が横行しやすいことだ。だから、インターネットにそもそも公共圏を形成しうるかさえ、定かではない。

例をあげよう。東日本大震災の直後、私は、「ダイヤモンド・オンライン」の連載で≒電力不足に対処するために電気料金に課税するべきだ」との主張を行なった。そして、それに対する意見を、私のホームページに寄せてほしいと書いた。多数の意見をいただき、その中には、非常に有益なものがあった。

しかし、心ない反応もあった。例えば、「経済学者は、カネ勘定のことしか頭にないのか」との非難もあった。「業界の事情を知らないので、笑ってしまった」というのもあった。これは、意見や批判というより、「口汚い罵り」としか言いようのないものだ。こうした反応に接すると、本当に「こたえる」。そして、仕事に対する意欲を失う。強い反論は、特定の業界の既得権を批判した場合に来る。どの業界を批判した場合にどのような反論が来るかは、はっきりした傾向がある。口汚い罵りを受けて、数日間仕事が手につかなくなることさえある。「難難汝を玉にす」「人間は鍛えられて強くなる」というが、実際には難しいものだ。

私は、「批判を受けたくない」と言っているのではない。しかし、論争には一定のルールが必要だ。ルール違反は出版物にもあるが、完全でないとはいえ、編集者のチェックがかかる。それに対して、ウェブでは、最低限のチェックすらないのだ。

「市場経済は、相互信頼がないと成立しない」と述べた。では、信頼の基礎は何であろうか? もちろん、人間の本性が善を求めるものであることだが、それだけではない。他からの信頼や社会的評価を落とせば、大きな損失を被るという状況が必要である。

逆に言えば、「失うべき何物も持だない」人々は、信頼を裏切る可能性がある。なぜなら、それによって利益を得る半面で、失うものは何もないからである。相互信頼とは、「失うべき多くのものを持つ人々の集まり」でこそ形成されるのだ。問題は、インターネット空間が、そうした条件を満たすコミュニティなのかどうかである。
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発電の方式を市民が選ぶ

『エネルギーを選ぶ時代は来るのか』より 「エネルギー自立」への試み スウェーデンの選択 半世紀にわたる試行錯誤

「これからのエネルギーをどうするのか」を、日本各地の新たな取り組み、そしてスペインの政策に見てきた私たちが最後に見つめたのが、北欧スウェーデンだ。この国では、エネルギーのあり方を国が決めるのではなく、市民の判断に委ねているという。

「私はA社が売る風力発電による電気を使いたい」

「私はB社が扱っている水力の電気を買いたい」

電力会社が決めた発電方式(電源)による電気を使い、決められた料金を支払うことに慣らされている私だちからすると実現できるとは思えない話だが、市民一人ひとりが様々なメニューのなかから発電方式を直接選ぶという仕組みを、スウェーデンでは、どのように可能にしているのだろうか。

取材を始める前に私たちが感じていた疑問は、次のようなものだ。

 ・電気には色や形があるわけでもないのに個別の電力を選ぶとはどういうことなのか。

 ・電気は安定供給が大切というが一人ひとりが勝手に選んで大丈夫なのか。

疑問を胸に取材を進める過程で私たちは、日本のエネルギーのあり方を考えるうえでのヒントや新たな可能性に出会うことになった。

疑問の答えを求めて私たちがまず訪ねたのは、スウェーデンの首都ストックホルム郊外に暮らすヨ(ン・ヴィークストロームさんとエバさん夫妻のお宅だ。コンピューター会社のエンジニアの職を退き、いまは夫婦二人の年金暮らしだが、週末には近所に暮らす六人の子どもと十三人の孫が訪ねてきて、テレビを見たり、パソコンを楽しんだりと、思い思いの時間を過ごしていく。

その様子を見つめながらヨ(ンさんは、電気の発電方式を原子力発電ペースの電力から風力一○○パーセントのメニューに変えた理由をこう語った。

「孫たちに残せるものは何だろうかと考えました。未来の社会が、どのようになるかはわかりませんが、環境に優しい方法で電気を得られる、そんな社会を残したいと考えたのです」

冬の寒さが厳しいスウェーデンだが、ヅィークストロームさんの家の暖房は電気ヒーターとエアコンで、調理にもガスではなく電気を使っている。風力に変えたことでトータルコストは二割程度上がって月額およそ一五〇〇クローネ(日本円でおよそ二万円)になったが、それでもその選択に満足しているという。

「満足できるのは、自分が使っている電力が風力で発電されていると実感できるからです。私たちのこの選択が、社会の変化につながればと願って風力を選びました。これが私にできる社会への貢献だと思っています」

電気の発電方式を自由に選べるスウェーデン。その仕組みはどのようなものなのか。

発電会社と送電会社が分離されているのはスペインと同じだが、独特なのは各家庭に電気を売る「小売り業者」が、消費者向けに様々な独自の料金プランやサービスメニューを展開していることだ。

小売り業者が提示する料金プランの内容を見て、消費者は自分の家で使う発電方式を選ぶ。小売り業者には、それぞれのサービスメニューに使われる発電方式を明らかにする義務がある。

例えばプランAは、水力九〇パーセントに風力一○パーセントを組み合わせたもの。プランBは風力一○○パーセント。あるいはプランCだと原子力一○○パーセントといった具合だ。これが、消費者に発電方式の選択を促すことにつながっている。

電気の小売り業者を選ぶことができる国は世界に数多くあるが、こうした発電方式の明示義務によって消費者が「発電方式」そのものを選択する仕組みを整えているのが、スウェーデンの特徴である。これによって、消費者が選んだ発電方式に消費者が支払う対価が流れ、さらにその発電方式が増えていく。消費者の選択が国のエネルギーのあり方を決めていく、これがスウェーデンの仕組みである。
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『周縁=地域』から新しい変化が始まる

『エネルギー進化論』より 地域から始まった革命

アメリカにおける自然エネルギーの歴史をたどっていくと、カリフォルニアに行き着きます。第2章で述べた世界的な風力発電市場のきっかけもカリフォルニアでしたし、1993年に、サクラメント電力公社(SMUD)がソーフーパイオニアという住民参加型の太陽光発電に取り組んだことが、太陽光発電が普及するきっかけとなったからです。また、カリフォルニアと並んで世界の風力発電市場の「源流」となったデンマークで、もう少し丹念に歴史をたどっていくと、ニーソルベリという小さな町に行き着きます。この町で始まった風力発電協同組合の取り組みが、デンマークで風力発電や自然エネルギーが拡大する源流となったからです。

両国に共通しているのは、自然エネルギーの始点が、中央から離れた「ローカル」にあるということです。はじめは一筋の流れにすぎなかった自然エネルギーという小さな川が、やがて川幅をひろげ水量を増やし、大きな奔流となっていくー。その大河の源流部は、〈中心〉ではなく必ず〈周縁〉にあるのです。

これはたんなる偶然でぱありません。国家レベルの大きな組織においては、新しい制度や枠組みが適切に設定されると、巨大な市場をつくり出すことが可能です。制度の在り方が社会や経済のかたちを決めます。ところが、国家レベルで新しい制度や枠組みを導入することは、容易ではありません。どのような分野であっても既存の体制(いわば「既得権益」)があり、新しい制度や枠組みによって影響を受けざるをえない場合には、こうした既得権益が必ず大きな政治的な影響力を行使します。それだけでなく、権力の中枢である国家レベルには、多様なステークホルダーがさまざまな意見や利害関係を持ちながら、議論に参加してきます。その結果、うまくいった場合でも当初の狙いとは大きく外れた新しい制度や枠組みに変わってゆき、多くの場合は途中で頓挫します。しかも、その手続きは、壮大なる国家システム・官僚主義によって、過剰なまでに緻密な作業を必要とし、合意・決定に膨大な時間と手続きが必要とされます。

それに比べると、地域レペルだと、参加するステークホルダーの利害関係や合意形成のプロセスが、相対的にシンプルです。地域住民が政策決定のプロセスに参加しやすいこと、問題の現場が身近にあること、あるいは、首長のトップダウンで物事が一気に決められることなどが要因となって、地域という単位では、さまざまな新しい試みにチャレンジしやすい条件がそろっているのです。

そのシンプルさと「ゆるさ」こそが、変化が周縁、すなわち地域から始まる大きな理由です。

1992年にブラジルのリオーデ・ジャネイロで開かれた「地球サミット」で、「21世紀に向けた人類の行動計画」と題されたテキストが採択されています。環境問題に対して、さまざまな主体が協力して社会的な障害を克服していくという、新たな社会的アプローチを要請しているこの計画は「アジェンダ21」と呼ばれています。そのなかでもっとも重視されているのが、地方政府の役割です。

「アジェンダ21」で地方政府に期待される役回りとは何なのか、その内実はつぎのように語られています。アジェンダ21で提起されている諸問題および解決策の多くは、地域的な活動に根ざしているものであることから、地方公共団体の参加と協力は、目的達成(持続可能な社会)のための決定的な要素となる。地方公共団体は、経済的、社会的、環境保全的な基盤を建設し、運営し、維持管理するとともに、企画立案過程を監督し、地域の環境政策、規制を制定し、中央政府およびそれに準じるものの環境政策の実施を支援する。地方政府は、その管理のレベルが市民にもっとも直結したものであるため、持続可能な発展を推進するよう市民を教育し、動員し、その期待と要求に応えていくうえで重要な役割を演じている(国連「アジェンダ21第28章第1節」)。

「アジェンダ21」は、日本でこそあまり知られていませんが、スウェーデンでは広く浸透しています。スウェーデンでは日本の自治体にあたる行政単位をコミューンと呼び、スウェーデン全土で帰一のコミューンが存在します。そのすべてのコミューンが、「アジェンダ21」に盛り込まれた、地域における取り組みに関する「ローカルーアジェンダ21」の担当スタッフと予算をもち、持続可能な社会への取り組みをすすめています。

こうした熱心な取り組みの背景には、高い自治性をもつコミューンの歴史があります。徴税権をもち、環境保全と健康維持への責任を有し、エネルギー、廃棄物、上下水道、公共交通を所管し、いくつかの法の執行機関でもあるコミューンは、スウェーデンにおける数々の先進的試みの核となっています。
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地域主権と近傍系

未唯へ

 手が寒い。会社の環境は寒すぎる。手袋を付けるとパソコンができない。

 今の奴を焦ってやっても、持って行き先がまだ、出来ていない。自分のためにやっています。自分で考えたことは何なのか。それらのロジックの構築です。

 人間のロジックは本当にいい加減です。だからいいんでしょうね。跳んでいるモノをいかに戻すかです。

地域主権と近傍系

 地域主権を述べる時に、なぜ、近傍系の考え方が出てこないのか。そうでないと、地域主権の正当性も、先の姿が見えてこない。

 独我論も一緒です。なぜ、そんなことまで言えるのか、なぜ、そんなことを言うのか。そこには独我論がないと説明できない。

 言いたいのは、地域主体、市民主体に変わっていくことは実証されているということです。数学的に、歴史的に、そして社会的に。それが説明されていないだけです。

 紆余曲折があったとしても、2030年のレベルでは、そこまで見えるようになってないと成り立たない。外国との関係もあります。

無線LANの脆弱性

 偶然はまた、色々なものを見せてくれました。日曜日に無線LANを設置することで、脆弱性が分かりました。簡単に侵入できます。

 重要なのは、ローカルで個別に考えて行うことだけではなく、全体としてどう管理するのか。その方向です。

 そこからすると、今回の新幹線事故で、私がアミバに行くのを阻止したのかの意味が分かっていません。偶然には全て意味があるはずです。東京出張を取りやめたので、5日間の雑記帳を整理することができました。

国と企業と市民の関係

 昨日のフィンランドの70分の放送です。あまりにもタイミングがいい内容でした。ノキア市との関係も出ていました。国と企業と市民との関係です。その中で、どう考えるのかは民族性です。

 市民主体という言葉が、色々な本で目につきます。その部分をプロットしていきます。偶然を生かす道です。

8日間の過ごし方

 パートナーの居ない、八日間の過ごし方を決めましょう。

 今日は会話せずに過ごしましょう。新年会も忘年会もなしで。まあ、絶対的存在とした以上はしょうがない。
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