『レバノン 混迷のモザイク国家』より
レバノンでサアド・ハリーリ政権が瓦解するより約1ヵ月前。
チュニジア中部の町、スィーディーブー・ズィードの県庁前で26歳の青年が焼身自殺を図った。青年は失業中で、食いつなぐために露店で野菜や果物の販売を始めた。それが違法行為であると警察に咎められ、公衆の面前で女性警官の平手打ちをくらった上、商品を没収されてしまった。絶望と屈辱から、思い詰めた青年は自殺を図った。
イスラーム教はキリスト教と同じく、自殺を禁じている。だから、普通の状況であれば青年の行為が国民の共感を招くことはなかっただろう。
しかし、現実には多くの国民、特に同じ青年層が共感した。自殺を図った青年と同じ境遇に生き、同じ憤憑を抱えていたからだ。
出生率が高く、医療環境が悪いため、平均寿命は短い。どうしても人口構成は、若年人口の割合が高いピラミッド型となる。
その若年人口を食わせるだけの仕事がない。苦労して大学や大学院を出て、専門的な知識を身につけた青年たちの場合、不満は一層強い。折角の専門知識をまったく生かせず、屈辱的な単純労働に甘んじるか、祖国を見限り、あるいは偏見や人種差別などに曝されるのを覚悟して、外国に職を探すくらいしか選択はないのだ。
2010年末のチュニジアは、他の多くのアラブ諸国と同様、血の気が多く向こうみずの青年たちが多い社会だった。しかも、SNSやツイッターなど、見ず知らずの人々を瞬時に結びつける新たなコミュニケーション手段を使いこなす層を含んでいた。焼身自殺を図った青年の物語は、他の青年たちの琴線に触れ、魂を揺さぶった。たちまちのうちに各地で抗議行動が始まった。
生活環境、経済状況の改善を求める抗議行動は、往々にして暴動に発展した。治安部隊がデモや抗議行動の群衆を力で制圧しようとして死傷者が出ると、群衆は政権交代を求める「反体制派」となった。
抗議行動が本格的な反体制行動となってから、僅かI週間で、首都チュニスも大渦に飲み込まれた。あくまでも軍事力で国民をねじ伏せようとするベンアリ大統領に対し、軍は命令を拒み、最後は引導を渡した。20年間盤石の独裁体制を築いてきた78歳のベンアリは、ガンヌーシ首相に後事を託して、サウジに逃れた。
独裁者が国民、友好各国、そして頼みの綱の軍の信頼と支持を次々に失い、結果的に政権自体を放棄する……「ジャスミン革命」と呼ばれたチュニジア革命はこうして驚くべき速度で成就した。
「ジャスミン革命」の物語は、独裁者の亡命によって完結したわけではない。革命の動きはあまりに急速で、自然発生的だった。特定の既成野党や政治勢力が主導して体制変革を実現したわけではない。ポストーペンアリ体制の漠然としたかたちすら見えないままに、政権がひっくり返ってしまった。
ガンヌーシ首相の辞任、更なるデモや抗議行動の発生、政権に弾圧されてきたイスラーム系勢力の台頭など、ベンアリ亡命後のチュニジア情勢は依然として混迷している。
「革命」が果たしてチュニジアの人々を本当に解放したのか? 積もり積もった不満を爆発させた青年たちが、革命後に本当に心身ともに満たされる思いをすることができるのか?
チュニジアの人々が「ジャスミン革命」の歴史的意味を本当に評価できるのは、おそらくまだまだ先のことであろう。
しかし、世界史的には「ジャスミン革命」は既に大変な意味を持っている。
国民が勇気をふるって声を上げ、立ちあがった時に、警察力に支えられた独裁体制は呆気ないほどもろい、ということを、独裁下の閉塞感に息を潜めて生きていた全アラブ世界、いや、世界中の人々に示したからだ。
「チュニジアでできて、なぜ自国でできないのか?」
人々がそう思うのは当然すぎるほど当然だ。ましてや、失うものが何もない境遇にある人であれば、息を潜めて生きていくよりも、思い切って声をあげ、それまで自分の人生を圧迫し続けてきた存在に立ち向かう方が、よほどせいせいするに決まっている。要するに、チュニジア革命は、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのだ。
レバノンでサアド・ハリーリ政権が瓦解するより約1ヵ月前。
チュニジア中部の町、スィーディーブー・ズィードの県庁前で26歳の青年が焼身自殺を図った。青年は失業中で、食いつなぐために露店で野菜や果物の販売を始めた。それが違法行為であると警察に咎められ、公衆の面前で女性警官の平手打ちをくらった上、商品を没収されてしまった。絶望と屈辱から、思い詰めた青年は自殺を図った。
イスラーム教はキリスト教と同じく、自殺を禁じている。だから、普通の状況であれば青年の行為が国民の共感を招くことはなかっただろう。
しかし、現実には多くの国民、特に同じ青年層が共感した。自殺を図った青年と同じ境遇に生き、同じ憤憑を抱えていたからだ。
出生率が高く、医療環境が悪いため、平均寿命は短い。どうしても人口構成は、若年人口の割合が高いピラミッド型となる。
その若年人口を食わせるだけの仕事がない。苦労して大学や大学院を出て、専門的な知識を身につけた青年たちの場合、不満は一層強い。折角の専門知識をまったく生かせず、屈辱的な単純労働に甘んじるか、祖国を見限り、あるいは偏見や人種差別などに曝されるのを覚悟して、外国に職を探すくらいしか選択はないのだ。
2010年末のチュニジアは、他の多くのアラブ諸国と同様、血の気が多く向こうみずの青年たちが多い社会だった。しかも、SNSやツイッターなど、見ず知らずの人々を瞬時に結びつける新たなコミュニケーション手段を使いこなす層を含んでいた。焼身自殺を図った青年の物語は、他の青年たちの琴線に触れ、魂を揺さぶった。たちまちのうちに各地で抗議行動が始まった。
生活環境、経済状況の改善を求める抗議行動は、往々にして暴動に発展した。治安部隊がデモや抗議行動の群衆を力で制圧しようとして死傷者が出ると、群衆は政権交代を求める「反体制派」となった。
抗議行動が本格的な反体制行動となってから、僅かI週間で、首都チュニスも大渦に飲み込まれた。あくまでも軍事力で国民をねじ伏せようとするベンアリ大統領に対し、軍は命令を拒み、最後は引導を渡した。20年間盤石の独裁体制を築いてきた78歳のベンアリは、ガンヌーシ首相に後事を託して、サウジに逃れた。
独裁者が国民、友好各国、そして頼みの綱の軍の信頼と支持を次々に失い、結果的に政権自体を放棄する……「ジャスミン革命」と呼ばれたチュニジア革命はこうして驚くべき速度で成就した。
「ジャスミン革命」の物語は、独裁者の亡命によって完結したわけではない。革命の動きはあまりに急速で、自然発生的だった。特定の既成野党や政治勢力が主導して体制変革を実現したわけではない。ポストーペンアリ体制の漠然としたかたちすら見えないままに、政権がひっくり返ってしまった。
ガンヌーシ首相の辞任、更なるデモや抗議行動の発生、政権に弾圧されてきたイスラーム系勢力の台頭など、ベンアリ亡命後のチュニジア情勢は依然として混迷している。
「革命」が果たしてチュニジアの人々を本当に解放したのか? 積もり積もった不満を爆発させた青年たちが、革命後に本当に心身ともに満たされる思いをすることができるのか?
チュニジアの人々が「ジャスミン革命」の歴史的意味を本当に評価できるのは、おそらくまだまだ先のことであろう。
しかし、世界史的には「ジャスミン革命」は既に大変な意味を持っている。
国民が勇気をふるって声を上げ、立ちあがった時に、警察力に支えられた独裁体制は呆気ないほどもろい、ということを、独裁下の閉塞感に息を潜めて生きていた全アラブ世界、いや、世界中の人々に示したからだ。
「チュニジアでできて、なぜ自国でできないのか?」
人々がそう思うのは当然すぎるほど当然だ。ましてや、失うものが何もない境遇にある人であれば、息を潜めて生きていくよりも、思い切って声をあげ、それまで自分の人生を圧迫し続けてきた存在に立ち向かう方が、よほどせいせいするに決まっている。要するに、チュニジア革命は、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのだ。