未唯への手紙
未唯への手紙
チュニジア政変
『レバノン 混迷のモザイク国家』より
レバノンでサアド・ハリーリ政権が瓦解するより約1ヵ月前。
チュニジア中部の町、スィーディーブー・ズィードの県庁前で26歳の青年が焼身自殺を図った。青年は失業中で、食いつなぐために露店で野菜や果物の販売を始めた。それが違法行為であると警察に咎められ、公衆の面前で女性警官の平手打ちをくらった上、商品を没収されてしまった。絶望と屈辱から、思い詰めた青年は自殺を図った。
イスラーム教はキリスト教と同じく、自殺を禁じている。だから、普通の状況であれば青年の行為が国民の共感を招くことはなかっただろう。
しかし、現実には多くの国民、特に同じ青年層が共感した。自殺を図った青年と同じ境遇に生き、同じ憤憑を抱えていたからだ。
出生率が高く、医療環境が悪いため、平均寿命は短い。どうしても人口構成は、若年人口の割合が高いピラミッド型となる。
その若年人口を食わせるだけの仕事がない。苦労して大学や大学院を出て、専門的な知識を身につけた青年たちの場合、不満は一層強い。折角の専門知識をまったく生かせず、屈辱的な単純労働に甘んじるか、祖国を見限り、あるいは偏見や人種差別などに曝されるのを覚悟して、外国に職を探すくらいしか選択はないのだ。
2010年末のチュニジアは、他の多くのアラブ諸国と同様、血の気が多く向こうみずの青年たちが多い社会だった。しかも、SNSやツイッターなど、見ず知らずの人々を瞬時に結びつける新たなコミュニケーション手段を使いこなす層を含んでいた。焼身自殺を図った青年の物語は、他の青年たちの琴線に触れ、魂を揺さぶった。たちまちのうちに各地で抗議行動が始まった。
生活環境、経済状況の改善を求める抗議行動は、往々にして暴動に発展した。治安部隊がデモや抗議行動の群衆を力で制圧しようとして死傷者が出ると、群衆は政権交代を求める「反体制派」となった。
抗議行動が本格的な反体制行動となってから、僅かI週間で、首都チュニスも大渦に飲み込まれた。あくまでも軍事力で国民をねじ伏せようとするベンアリ大統領に対し、軍は命令を拒み、最後は引導を渡した。20年間盤石の独裁体制を築いてきた78歳のベンアリは、ガンヌーシ首相に後事を託して、サウジに逃れた。
独裁者が国民、友好各国、そして頼みの綱の軍の信頼と支持を次々に失い、結果的に政権自体を放棄する……「ジャスミン革命」と呼ばれたチュニジア革命はこうして驚くべき速度で成就した。
「ジャスミン革命」の物語は、独裁者の亡命によって完結したわけではない。革命の動きはあまりに急速で、自然発生的だった。特定の既成野党や政治勢力が主導して体制変革を実現したわけではない。ポストーペンアリ体制の漠然としたかたちすら見えないままに、政権がひっくり返ってしまった。
ガンヌーシ首相の辞任、更なるデモや抗議行動の発生、政権に弾圧されてきたイスラーム系勢力の台頭など、ベンアリ亡命後のチュニジア情勢は依然として混迷している。
「革命」が果たしてチュニジアの人々を本当に解放したのか? 積もり積もった不満を爆発させた青年たちが、革命後に本当に心身ともに満たされる思いをすることができるのか?
チュニジアの人々が「ジャスミン革命」の歴史的意味を本当に評価できるのは、おそらくまだまだ先のことであろう。
しかし、世界史的には「ジャスミン革命」は既に大変な意味を持っている。
国民が勇気をふるって声を上げ、立ちあがった時に、警察力に支えられた独裁体制は呆気ないほどもろい、ということを、独裁下の閉塞感に息を潜めて生きていた全アラブ世界、いや、世界中の人々に示したからだ。
「チュニジアでできて、なぜ自国でできないのか?」
人々がそう思うのは当然すぎるほど当然だ。ましてや、失うものが何もない境遇にある人であれば、息を潜めて生きていくよりも、思い切って声をあげ、それまで自分の人生を圧迫し続けてきた存在に立ち向かう方が、よほどせいせいするに決まっている。要するに、チュニジア革命は、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのだ。
レバノンでサアド・ハリーリ政権が瓦解するより約1ヵ月前。
チュニジア中部の町、スィーディーブー・ズィードの県庁前で26歳の青年が焼身自殺を図った。青年は失業中で、食いつなぐために露店で野菜や果物の販売を始めた。それが違法行為であると警察に咎められ、公衆の面前で女性警官の平手打ちをくらった上、商品を没収されてしまった。絶望と屈辱から、思い詰めた青年は自殺を図った。
イスラーム教はキリスト教と同じく、自殺を禁じている。だから、普通の状況であれば青年の行為が国民の共感を招くことはなかっただろう。
しかし、現実には多くの国民、特に同じ青年層が共感した。自殺を図った青年と同じ境遇に生き、同じ憤憑を抱えていたからだ。
出生率が高く、医療環境が悪いため、平均寿命は短い。どうしても人口構成は、若年人口の割合が高いピラミッド型となる。
その若年人口を食わせるだけの仕事がない。苦労して大学や大学院を出て、専門的な知識を身につけた青年たちの場合、不満は一層強い。折角の専門知識をまったく生かせず、屈辱的な単純労働に甘んじるか、祖国を見限り、あるいは偏見や人種差別などに曝されるのを覚悟して、外国に職を探すくらいしか選択はないのだ。
2010年末のチュニジアは、他の多くのアラブ諸国と同様、血の気が多く向こうみずの青年たちが多い社会だった。しかも、SNSやツイッターなど、見ず知らずの人々を瞬時に結びつける新たなコミュニケーション手段を使いこなす層を含んでいた。焼身自殺を図った青年の物語は、他の青年たちの琴線に触れ、魂を揺さぶった。たちまちのうちに各地で抗議行動が始まった。
生活環境、経済状況の改善を求める抗議行動は、往々にして暴動に発展した。治安部隊がデモや抗議行動の群衆を力で制圧しようとして死傷者が出ると、群衆は政権交代を求める「反体制派」となった。
抗議行動が本格的な反体制行動となってから、僅かI週間で、首都チュニスも大渦に飲み込まれた。あくまでも軍事力で国民をねじ伏せようとするベンアリ大統領に対し、軍は命令を拒み、最後は引導を渡した。20年間盤石の独裁体制を築いてきた78歳のベンアリは、ガンヌーシ首相に後事を託して、サウジに逃れた。
独裁者が国民、友好各国、そして頼みの綱の軍の信頼と支持を次々に失い、結果的に政権自体を放棄する……「ジャスミン革命」と呼ばれたチュニジア革命はこうして驚くべき速度で成就した。
「ジャスミン革命」の物語は、独裁者の亡命によって完結したわけではない。革命の動きはあまりに急速で、自然発生的だった。特定の既成野党や政治勢力が主導して体制変革を実現したわけではない。ポストーペンアリ体制の漠然としたかたちすら見えないままに、政権がひっくり返ってしまった。
ガンヌーシ首相の辞任、更なるデモや抗議行動の発生、政権に弾圧されてきたイスラーム系勢力の台頭など、ベンアリ亡命後のチュニジア情勢は依然として混迷している。
「革命」が果たしてチュニジアの人々を本当に解放したのか? 積もり積もった不満を爆発させた青年たちが、革命後に本当に心身ともに満たされる思いをすることができるのか?
チュニジアの人々が「ジャスミン革命」の歴史的意味を本当に評価できるのは、おそらくまだまだ先のことであろう。
しかし、世界史的には「ジャスミン革命」は既に大変な意味を持っている。
国民が勇気をふるって声を上げ、立ちあがった時に、警察力に支えられた独裁体制は呆気ないほどもろい、ということを、独裁下の閉塞感に息を潜めて生きていた全アラブ世界、いや、世界中の人々に示したからだ。
「チュニジアでできて、なぜ自国でできないのか?」
人々がそう思うのは当然すぎるほど当然だ。ましてや、失うものが何もない境遇にある人であれば、息を潜めて生きていくよりも、思い切って声をあげ、それまで自分の人生を圧迫し続けてきた存在に立ち向かう方が、よほどせいせいするに決まっている。要するに、チュニジア革命は、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのだ。
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吹きすさぶ革命の嵐
『レバノン 混迷のモザイク国家』より
チュニジア政変
レバノンでサアド・ハリーリ政権が瓦解するより約1ヵ月前。
チュニジア中部の町、スィーディーブー・ズィードの県庁前で26歳の青年が焼身自殺を図った。青年は失業中で、食いつなぐために露店で野菜や果物の販売を始めた。それが違法行為であると警察に咎められ、公衆の面前で女性警官の平手打ちをくらった上、商品を没収されてしまった。絶望と屈辱から、思い詰めた青年は自殺を図った。
イスラーム教はキリスト教と同じく、自殺を禁じている。だから、普通の状況であれば青年の行為が国民の共感を招くことはなかっただろう。
しかし、現実には多くの国民、特に同じ青年層が共感した。自殺を図った青年と同じ境遇に生き、同じ憤憑を抱えていたからだ。
出生率が高く、医療環境が悪いため、平均寿命は短い。どうしても人口構成は、若年人口の割合が高いピラミッド型となる。
その若年人口を食わせるだけの仕事がない。苦労して大学や大学院を出て、専門的な知識を身につけた青年たちの場合、不満は一層強い。折角の専門知識をまったく生かせず、屈辱的な単純労働に甘んじるか、祖国を見限り、あるいは偏見や人種差別などに曝されるのを覚悟して、外国に職を探すくらいしか選択はないのだ。
2010年末のチュニジアは、他の多くのアラブ諸国と同様、血の気が多く向こうみずの青年たちが多い社会だった。しかも、SNSやツイッターなど、見ず知らずの人々を瞬時に結びつける新たなコミュニケーション手段を使いこなす層を含んでいた。焼身自殺を図った青年の物語は、他の青年たちの琴線に触れ、魂を揺さぶった。たちまちのうちに各地で抗議行動が始まった。
生活環境、経済状況の改善を求める抗議行動は、往々にして暴動に発展した。治安部隊がデモや抗議行動の群衆を力で制圧しようとして死傷者が出ると、群衆は政権交代を求める「反体制派」となった。
抗議行動が本格的な反体制行動となってから、僅かI週間で、首都チュニスも大渦に飲み込まれた。あくまでも軍事力で国民をねじ伏せようとするベンアリ大統領に対し、軍は命令を拒み、最後は引導を渡した。20年間盤石の独裁体制を築いてきた78歳のベンアリは、ガンヌーシ首相に後事を託して、サウジに逃れた。
独裁者が国民、友好各国、そして頼みの綱の軍の信頼と支持を次々に失い、結果的に政権自体を放棄する……「ジャスミン革命」と呼ばれたチュニジア革命はこうして驚くべき速度で成就した。
「ジャスミン革命」の物語は、独裁者の亡命によって完結したわけではない。革命の動きはあまりに急速で、自然発生的だった。特定の既成野党や政治勢力が主導して体制変革を実現したわけではない。ポストーペンアリ体制の漠然としたかたちすら見えないままに、政権がひっくり返ってしまった。
ガンヌーシ首相の辞任、更なるデモや抗議行動の発生、政権に弾圧されてきたイスラーム系勢力の台頭など、ベンアリ亡命後のチュニジア情勢は依然として混迷している。
「革命」が果たしてチュニジアの人々を本当に解放したのか? 積もり積もった不満を爆発させた青年たちが、革命後に本当に心身ともに満たされる思いをすることができるのか?
チュニジアの人々が「ジャスミン革命」の歴史的意味を本当に評価できるのは、おそらくまだまだ先のことであろう。
しかし、世界史的には「ジャスミン革命」は既に大変な意味を持っている。
国民が勇気をふるって声を上げ、立ちあがった時に、警察力に支えられた独裁体制は呆気ないほどもろい、ということを、独裁下の閉塞感に息を潜めて生きていた全アラブ世界、いや、世界中の人々に示したからだ。
「チュニジアでできて、なぜ自国でできないのか?」
人々がそう思うのは当然すぎるほど当然だ。ましてや、失うものが何もない境遇にある人であれば、息を潜めて生きていくよりも、思い切って声をあげ、それまで自分の人生を圧迫し続けてきた存在に立ち向かう方が、よほどせいせいするに決まっている。要するに、チュニジア革命は、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのだ。
チュニジア政変
レバノンでサアド・ハリーリ政権が瓦解するより約1ヵ月前。
チュニジア中部の町、スィーディーブー・ズィードの県庁前で26歳の青年が焼身自殺を図った。青年は失業中で、食いつなぐために露店で野菜や果物の販売を始めた。それが違法行為であると警察に咎められ、公衆の面前で女性警官の平手打ちをくらった上、商品を没収されてしまった。絶望と屈辱から、思い詰めた青年は自殺を図った。
イスラーム教はキリスト教と同じく、自殺を禁じている。だから、普通の状況であれば青年の行為が国民の共感を招くことはなかっただろう。
しかし、現実には多くの国民、特に同じ青年層が共感した。自殺を図った青年と同じ境遇に生き、同じ憤憑を抱えていたからだ。
出生率が高く、医療環境が悪いため、平均寿命は短い。どうしても人口構成は、若年人口の割合が高いピラミッド型となる。
その若年人口を食わせるだけの仕事がない。苦労して大学や大学院を出て、専門的な知識を身につけた青年たちの場合、不満は一層強い。折角の専門知識をまったく生かせず、屈辱的な単純労働に甘んじるか、祖国を見限り、あるいは偏見や人種差別などに曝されるのを覚悟して、外国に職を探すくらいしか選択はないのだ。
2010年末のチュニジアは、他の多くのアラブ諸国と同様、血の気が多く向こうみずの青年たちが多い社会だった。しかも、SNSやツイッターなど、見ず知らずの人々を瞬時に結びつける新たなコミュニケーション手段を使いこなす層を含んでいた。焼身自殺を図った青年の物語は、他の青年たちの琴線に触れ、魂を揺さぶった。たちまちのうちに各地で抗議行動が始まった。
生活環境、経済状況の改善を求める抗議行動は、往々にして暴動に発展した。治安部隊がデモや抗議行動の群衆を力で制圧しようとして死傷者が出ると、群衆は政権交代を求める「反体制派」となった。
抗議行動が本格的な反体制行動となってから、僅かI週間で、首都チュニスも大渦に飲み込まれた。あくまでも軍事力で国民をねじ伏せようとするベンアリ大統領に対し、軍は命令を拒み、最後は引導を渡した。20年間盤石の独裁体制を築いてきた78歳のベンアリは、ガンヌーシ首相に後事を託して、サウジに逃れた。
独裁者が国民、友好各国、そして頼みの綱の軍の信頼と支持を次々に失い、結果的に政権自体を放棄する……「ジャスミン革命」と呼ばれたチュニジア革命はこうして驚くべき速度で成就した。
「ジャスミン革命」の物語は、独裁者の亡命によって完結したわけではない。革命の動きはあまりに急速で、自然発生的だった。特定の既成野党や政治勢力が主導して体制変革を実現したわけではない。ポストーペンアリ体制の漠然としたかたちすら見えないままに、政権がひっくり返ってしまった。
ガンヌーシ首相の辞任、更なるデモや抗議行動の発生、政権に弾圧されてきたイスラーム系勢力の台頭など、ベンアリ亡命後のチュニジア情勢は依然として混迷している。
「革命」が果たしてチュニジアの人々を本当に解放したのか? 積もり積もった不満を爆発させた青年たちが、革命後に本当に心身ともに満たされる思いをすることができるのか?
チュニジアの人々が「ジャスミン革命」の歴史的意味を本当に評価できるのは、おそらくまだまだ先のことであろう。
しかし、世界史的には「ジャスミン革命」は既に大変な意味を持っている。
国民が勇気をふるって声を上げ、立ちあがった時に、警察力に支えられた独裁体制は呆気ないほどもろい、ということを、独裁下の閉塞感に息を潜めて生きていた全アラブ世界、いや、世界中の人々に示したからだ。
「チュニジアでできて、なぜ自国でできないのか?」
人々がそう思うのは当然すぎるほど当然だ。ましてや、失うものが何もない境遇にある人であれば、息を潜めて生きていくよりも、思い切って声をあげ、それまで自分の人生を圧迫し続けてきた存在に立ち向かう方が、よほどせいせいするに決まっている。要するに、チュニジア革命は、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのだ。
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「意味」の世界に生きている
『法然入門』より
大きな「物語」
現代の文明社会では、「あの世」の実在を信じなくなって久しい。それはおとぎ話やメルヘンの世界のことであり、大の大人が真正面から論じたり、ましてや信じるに値する事柄ではない。死ねば「天国」や「極楽」へ行くとか「お星さまになる」というのは、幼稚な者の言い分である。大人たるものは、死ねば「無」になると考えるのが普通なのだ。
誕生から死までの一生だけが信頼するに足る世界であり、誕生以前も、死後のことも考えないというのが現代の大人というもの。そういう風潮のなかで、あえて「浄土」を持ち出すのはどういう意図があってのことか、と読者も冴られるであろう。だが、これから説明するように、現世以外にもう一つ別の世界を想定することは、人間の自然に根差す考え方なのであり、現世だけしか信じない考え方の方が不自然なのである。
つまり、現世は「あの世」とか「他界」という考え方に裏付けられてはじめて意味をもつことができる。なぜならば、現世はそれだけでは完結した世界とはなりえないからだ。私たちはどこから生まれてきたのか、どこへ死んでゆくのか、この世を生きる意味はどこにあるのか、どれIつとっても完全で客観的な答えはない。あるのは、そうした人間存在の不安定さに対する意味づけ、解釈があるだけである。問題は、どのような「物語」を選ぶか、ということであろう。
私たちは「意味」の世界に生きている
くり返すが、人は生物学的に生存しているだけでは生きているという実感は得られない。「意味」が必要なのだ。なんのために生まれてきたのか、この人生はなんのためにあるのか、についての「物語」が必要な動物なのだ。そうした「物語」の究極が「宗教」である。だが、現世での快適な生活が保障されるようになってから、そうした究極的な「物語」は不必要となった。日々の便利さと快適さを享受しているうちに人生は過ぎて行ってしまうのだ。気がつけば死を迎えているのだが、その死も快適に迎えることができそうだ。
だが、である。もともと人は「意味」なくしては生きてゆけない存在だから、充実した人生であれ、なんのために生きていたのか分からないような悲惨な人生であれ、そこに「意味」が見出されないと、安心して死んでもゆけない。多くはその「意味」を見出せないままに、無念のまま、死んでゆくのであろう。
こうした事態を招いたのは、科学的な証明が得られることだけが本当に存在するという「迷信」にとらわれてしまったからであろう。非科学的なことは信じない、というのが現代人のプライドとたふている。そして、科学が答えられない問題に対しては、そうした問題がないことにしてすましている。
だが、たとえば、癌にかかふた患者にとって大きな関心は、癌が治癒するかどうかということだが、同時に、余人ならずこの私が癌にかかったのはどうしてなのか、ということなのだ。どうして私が癌にかからねばならなかったのか、私は人に恨まれるような暮らしをしていたわけでもないし、精いっぱい努力をして今の人生を築いてきたのだ、それが突然不治の癌にかかるなんて、と医者に訴えても、医者は癌発生のメカニズムや患者の不摂生を説明しても、当の本人が不治の癌にかからねばならなかった理由を説明することはむつかしい。天変地異についても、どうしてそのような災害を身に受けねばならなかったのか、その場所に、その時間に現場にいたからだという以外に説明のしようがない。「意味」を求めても簡単には得られないから、多くの場合はあきらめてそれ以上の追求はしない。「運命」だとあきらめるだけである。そうでなければ、文字通り荒唐無稽な説明におぼれてしまう。だが、そこには身の不幸を心底納得するという安らぎはない。
もちろん、不幸を納得するために「他界」が必要だというわけではない。「浄土」が人間の幸・不幸の説明となるから、人間に必要なのだ、といっているのではない。現世の幸・不幸をふくめて、人間の営みのすべてを「納得」できるためには、現世そのものを位置付ける「意味の大海」が必要だといいたいのである。
「意味の大海」とはレトリックに過ぎるかもしれないが、仮に現世を小島に讐えるならば私が必要だと考えている「他界」、「浄土」というのは、その小島を浮かべている大海に讐えられる。そして、小島のなかだけでは解決できない問題も、大海から解釈すれば理解できることもある、ということなのだ。大海を大きな「物語」といってもよい。現世を位置付ける「物語」がないと、現世内だけの「物語」では、十分な意味が見いだせないのである。
そういう意味では、宗教とは、現実を位置付けることができる大きな「物語」ということもできるであろう。その意味で、「浄土」は仏教が人類に提供する、大きな「物語」の有力なIつなのである。
大きな「物語」
現代の文明社会では、「あの世」の実在を信じなくなって久しい。それはおとぎ話やメルヘンの世界のことであり、大の大人が真正面から論じたり、ましてや信じるに値する事柄ではない。死ねば「天国」や「極楽」へ行くとか「お星さまになる」というのは、幼稚な者の言い分である。大人たるものは、死ねば「無」になると考えるのが普通なのだ。
誕生から死までの一生だけが信頼するに足る世界であり、誕生以前も、死後のことも考えないというのが現代の大人というもの。そういう風潮のなかで、あえて「浄土」を持ち出すのはどういう意図があってのことか、と読者も冴られるであろう。だが、これから説明するように、現世以外にもう一つ別の世界を想定することは、人間の自然に根差す考え方なのであり、現世だけしか信じない考え方の方が不自然なのである。
つまり、現世は「あの世」とか「他界」という考え方に裏付けられてはじめて意味をもつことができる。なぜならば、現世はそれだけでは完結した世界とはなりえないからだ。私たちはどこから生まれてきたのか、どこへ死んでゆくのか、この世を生きる意味はどこにあるのか、どれIつとっても完全で客観的な答えはない。あるのは、そうした人間存在の不安定さに対する意味づけ、解釈があるだけである。問題は、どのような「物語」を選ぶか、ということであろう。
私たちは「意味」の世界に生きている
くり返すが、人は生物学的に生存しているだけでは生きているという実感は得られない。「意味」が必要なのだ。なんのために生まれてきたのか、この人生はなんのためにあるのか、についての「物語」が必要な動物なのだ。そうした「物語」の究極が「宗教」である。だが、現世での快適な生活が保障されるようになってから、そうした究極的な「物語」は不必要となった。日々の便利さと快適さを享受しているうちに人生は過ぎて行ってしまうのだ。気がつけば死を迎えているのだが、その死も快適に迎えることができそうだ。
だが、である。もともと人は「意味」なくしては生きてゆけない存在だから、充実した人生であれ、なんのために生きていたのか分からないような悲惨な人生であれ、そこに「意味」が見出されないと、安心して死んでもゆけない。多くはその「意味」を見出せないままに、無念のまま、死んでゆくのであろう。
こうした事態を招いたのは、科学的な証明が得られることだけが本当に存在するという「迷信」にとらわれてしまったからであろう。非科学的なことは信じない、というのが現代人のプライドとたふている。そして、科学が答えられない問題に対しては、そうした問題がないことにしてすましている。
だが、たとえば、癌にかかふた患者にとって大きな関心は、癌が治癒するかどうかということだが、同時に、余人ならずこの私が癌にかかったのはどうしてなのか、ということなのだ。どうして私が癌にかからねばならなかったのか、私は人に恨まれるような暮らしをしていたわけでもないし、精いっぱい努力をして今の人生を築いてきたのだ、それが突然不治の癌にかかるなんて、と医者に訴えても、医者は癌発生のメカニズムや患者の不摂生を説明しても、当の本人が不治の癌にかからねばならなかった理由を説明することはむつかしい。天変地異についても、どうしてそのような災害を身に受けねばならなかったのか、その場所に、その時間に現場にいたからだという以外に説明のしようがない。「意味」を求めても簡単には得られないから、多くの場合はあきらめてそれ以上の追求はしない。「運命」だとあきらめるだけである。そうでなければ、文字通り荒唐無稽な説明におぼれてしまう。だが、そこには身の不幸を心底納得するという安らぎはない。
もちろん、不幸を納得するために「他界」が必要だというわけではない。「浄土」が人間の幸・不幸の説明となるから、人間に必要なのだ、といっているのではない。現世の幸・不幸をふくめて、人間の営みのすべてを「納得」できるためには、現世そのものを位置付ける「意味の大海」が必要だといいたいのである。
「意味の大海」とはレトリックに過ぎるかもしれないが、仮に現世を小島に讐えるならば私が必要だと考えている「他界」、「浄土」というのは、その小島を浮かべている大海に讐えられる。そして、小島のなかだけでは解決できない問題も、大海から解釈すれば理解できることもある、ということなのだ。大海を大きな「物語」といってもよい。現世を位置付ける「物語」がないと、現世内だけの「物語」では、十分な意味が見いだせないのである。
そういう意味では、宗教とは、現実を位置付けることができる大きな「物語」ということもできるであろう。その意味で、「浄土」は仏教が人類に提供する、大きな「物語」の有力なIつなのである。
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歴史的な図書館
『図書館の基礎と展望』より 図書館の現状と動向
「エフェソスの図書館の空間はよかった。隣が遊郭というシチュエーションも好きです」
歴史的な図書館
人類が文字を発明すると,書物が誕生した。書物は,本,書籍,図書,文献などさまざまないい方がある。書物が誕生するとそれを収める図書館が必要になる。ヘレニズム時代,地中海に面したエジプトの都市アレクサンドリアには,世界中のすべての「知」を集めようとするかのような大図書館があった。この時代は,「本」といえば,パピルスの巻物(巻子本という)である。はるか昔の紀元前にあって,蔵書70万巻も収集し,膨大な目録を作成したこの図書館は,当時の「地中海世界のデータベース」といわれている。古代アレクサンドリア図書館の主要部は現代に伝わっていないため,今,その姿を知る由もない。ほぽ同時代のエフェソスの図書館(現トルコ)の遺構を見ると,古代ギリシア・ローマ建築の粋を集めた荘厳な建物であることがわかる。書架は朽ち果て今に伝わっていないが,壁の窪みに巻子本が重ね置きされていたと想像される。古代ローマの遺跡で有名なカラカラ浴場にも図書館があった。当時の貴族らのリソート施設に図書館が併設され,優雅な文化的な暮らしをしていたことが想像される。
中世のヨーロッパは暗黒の時代といわれる。キリスト教以外のものは排斥され,それ以前の時代と比べると,文化的に停滞した時代で,文字を読める人も少なく,社会に流通する書物の量も少なかった。紙ですら異教に端を発するものとして排斥され,羊皮紙がもっぱら用いられた。この時代は,印刷機はまだ出現していないので,本はすべて手で書き写され,製本され,立派な装飾が施された羊皮紙冊子本がっくられた。図書館として機能したのが,わずかに修道院図書館である。本は,まだ貴重なものであったので,鎖でつながれ,書見台で読書した。
近未来的な図書館
古代アレクサンドリア図書館の跡地と推定されているところに,現代アレクサンドリア図書館が建設されている。エジプト政府が計画し、UNESCOと地中海沿岸諸国を中心とする世界中の図書館関係者が協力して現代に蘇らせた図書館である。その規模の大きさと超近代的な建築様式に驚嘆するばかりである。約2000人が同時に利用できるという広大な利用空間に圧倒される。建築ばかりではなく,コンピュータを用いたデータベース化も進んでいる。
現代の図書館にコンピュータは欠かせない。「図書館とコンピュータは柑l生かよい」とは,試験にも出されるほどよくいわれる言葉である。いくつかの理由があるが,コンピュータの開発の当初から,図書館はコンピュータをより賢くするための応用フィールドとして意識されてきたこと8),図書館の蔵書データベースはデータベースの分野で典型的教科書的な事例であること,早くから実用的なネットワークとして稼働したこと9)などがあげられる。
そして,図書館界に大きな影響を与えたのが、1969年に登場するインターネットである。インターネット上には有益な情報から,単なる憶測や,他人を誹誇中傷するもの,子どもたちには見せたくないもの,犯罪まがいの情報まで,玉石混淆である。図書館は正確な情報を提供する社会的な責務があるので,インターネット上の情報のなかから適切なものを選別する能力が一般の人よりもはるかに求められる。インターネットは絶えず変化しており,こうした変化が,今後,図書館に新しい変革を求めるようになることは容易に想像できる。
たとえば、2010 (平成22)年は「電子書籍元年」といわれ、書物は電子の世界にも広がりつつある。電子の本を集めれば電子図書館かというと,そう単純ではない。ここで肝心なのは,それは単なるデータファイルなのか,それとも図書館と呼んでよいのか,という区別である。現実の世界であろうと電子の世界であろうと,正しく図書館と呼ぶためには一定の条件がある。その区別ができるようになるためには,図書館とは何かという確かな見識をもつ必要がある。
そして,私たちは,電子の世界に住んでいるわけではないので,リアルな図書館と電子図書館をうまく使い分ける必要がある。両方の機能を混在させた図書館をハイブリッド図書館ということがある。電子図書館のなかには,純粋にデジタルデータだけを扱うデジタル図書館もあれば,実世界の仕組みを仮想的につくり上げたバーチャル図書館もある。そこには,バーチャル図書館員がいて,利用者の求めるサービスをしてくれる。現在,ハイブリット図書館の先進事例といわれているのが,千代田区立千代田図書館である。この図書館では,千代田区在住・在勤・在学者に限られるが,電子書籍の貸出もおこなっている。
「エフェソスの図書館の空間はよかった。隣が遊郭というシチュエーションも好きです」
歴史的な図書館
人類が文字を発明すると,書物が誕生した。書物は,本,書籍,図書,文献などさまざまないい方がある。書物が誕生するとそれを収める図書館が必要になる。ヘレニズム時代,地中海に面したエジプトの都市アレクサンドリアには,世界中のすべての「知」を集めようとするかのような大図書館があった。この時代は,「本」といえば,パピルスの巻物(巻子本という)である。はるか昔の紀元前にあって,蔵書70万巻も収集し,膨大な目録を作成したこの図書館は,当時の「地中海世界のデータベース」といわれている。古代アレクサンドリア図書館の主要部は現代に伝わっていないため,今,その姿を知る由もない。ほぽ同時代のエフェソスの図書館(現トルコ)の遺構を見ると,古代ギリシア・ローマ建築の粋を集めた荘厳な建物であることがわかる。書架は朽ち果て今に伝わっていないが,壁の窪みに巻子本が重ね置きされていたと想像される。古代ローマの遺跡で有名なカラカラ浴場にも図書館があった。当時の貴族らのリソート施設に図書館が併設され,優雅な文化的な暮らしをしていたことが想像される。
中世のヨーロッパは暗黒の時代といわれる。キリスト教以外のものは排斥され,それ以前の時代と比べると,文化的に停滞した時代で,文字を読める人も少なく,社会に流通する書物の量も少なかった。紙ですら異教に端を発するものとして排斥され,羊皮紙がもっぱら用いられた。この時代は,印刷機はまだ出現していないので,本はすべて手で書き写され,製本され,立派な装飾が施された羊皮紙冊子本がっくられた。図書館として機能したのが,わずかに修道院図書館である。本は,まだ貴重なものであったので,鎖でつながれ,書見台で読書した。
近未来的な図書館
古代アレクサンドリア図書館の跡地と推定されているところに,現代アレクサンドリア図書館が建設されている。エジプト政府が計画し、UNESCOと地中海沿岸諸国を中心とする世界中の図書館関係者が協力して現代に蘇らせた図書館である。その規模の大きさと超近代的な建築様式に驚嘆するばかりである。約2000人が同時に利用できるという広大な利用空間に圧倒される。建築ばかりではなく,コンピュータを用いたデータベース化も進んでいる。
現代の図書館にコンピュータは欠かせない。「図書館とコンピュータは柑l生かよい」とは,試験にも出されるほどよくいわれる言葉である。いくつかの理由があるが,コンピュータの開発の当初から,図書館はコンピュータをより賢くするための応用フィールドとして意識されてきたこと8),図書館の蔵書データベースはデータベースの分野で典型的教科書的な事例であること,早くから実用的なネットワークとして稼働したこと9)などがあげられる。
そして,図書館界に大きな影響を与えたのが、1969年に登場するインターネットである。インターネット上には有益な情報から,単なる憶測や,他人を誹誇中傷するもの,子どもたちには見せたくないもの,犯罪まがいの情報まで,玉石混淆である。図書館は正確な情報を提供する社会的な責務があるので,インターネット上の情報のなかから適切なものを選別する能力が一般の人よりもはるかに求められる。インターネットは絶えず変化しており,こうした変化が,今後,図書館に新しい変革を求めるようになることは容易に想像できる。
たとえば、2010 (平成22)年は「電子書籍元年」といわれ、書物は電子の世界にも広がりつつある。電子の本を集めれば電子図書館かというと,そう単純ではない。ここで肝心なのは,それは単なるデータファイルなのか,それとも図書館と呼んでよいのか,という区別である。現実の世界であろうと電子の世界であろうと,正しく図書館と呼ぶためには一定の条件がある。その区別ができるようになるためには,図書館とは何かという確かな見識をもつ必要がある。
そして,私たちは,電子の世界に住んでいるわけではないので,リアルな図書館と電子図書館をうまく使い分ける必要がある。両方の機能を混在させた図書館をハイブリッド図書館ということがある。電子図書館のなかには,純粋にデジタルデータだけを扱うデジタル図書館もあれば,実世界の仕組みを仮想的につくり上げたバーチャル図書館もある。そこには,バーチャル図書館員がいて,利用者の求めるサービスをしてくれる。現在,ハイブリット図書館の先進事例といわれているのが,千代田区立千代田図書館である。この図書館では,千代田区在住・在勤・在学者に限られるが,電子書籍の貸出もおこなっている。
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どのような社会基盤が必要か
『低炭素社会のデザイン』より
低炭素社会の方向を見誤らない
都市・道路・住宅といった社会インフラヘの投資を低炭素化に向けることは、緊急にそして熟慮してやらねばならない。都市インフラを一旦作ってしまうと、それ自体が長期の社会発展方向を固定し、その慣性の大きさから時には変革のための障害ともなる。低炭素時代を前にして、社会インフラ投資手順を間違えると、今後五〇-一〇〇年間にわたって高炭素社会を継続せざるをえない状況にがんじがらめに縛りっけられる。その典型的な例が、地下鉄より道路投資を先行させ、今自動車の渋滞と大気汚染になやむバンコクやジヤカルタである。先に示した日本の筑波学園都市もその一例である。
国土の形成事業は、人口動態をふまえ、技術システムの方向をみきわめ、景気対策の短期資金に踊らされることなく、長期的な見通しを持ってのぞまないと後世代につけが回る。われわれが歴史の上でどのような位置にいるのか、低炭素社会の意味をしっかりみきわめた議論が必要である。
技術を社会に組み込むためには、社会基盤、すなわちインフラが整っていなくてはならない。すでに論じた都市や交通システムはその一部であり、政策や法律もソフトな社会基盤である。ほかに、エネルギーシステム、金融システムそして人材といった基盤を低炭素向けに整備してゆかねばならない。これまでの記述をまとめながら考えてみたい。
エネルギーインフラ
低炭素社会実現の鍵は、前節で述べたエネルギーシステムの転換にある。需要側の省エネルギー推進と供給エネルギーの低炭素化を念頭に置いた、需給両者を統合した新たなエネルギーインフラを構築しなければならない。
需要側のエネルギー技術使用形態もすっかり変わる。安全性と利便性の観点から、今後も電化率が高まると見られる。ガソリン車に代わって電気自動車が増える。自動車は家庭でのプラグイン充電がなされるだけでなく、配電網の一部として蓄電機能を受け持ち、短期の電力需給の平準化にも寄与する。街にはガソリンスタンドに代わって、急速充電ステーションが必要である。ガスも水素等燃料電池自動車に使われ、定置型燃料電池として家庭に熱と電力を供給する。
住宅の高断熱化か進み、スマートメーター・コントロールシステムが家庭のエネルギー使用状況を常時個別に把握し最適運転するだけでなく、配電会社に情報を送る。配電会社はこれらの情報をただちに分析し、さらに天気予報を分析し、今日の使用量をはじき、どれだけの発電をするべきか刻々発電所に指令する。
一次エネルギーの低炭素化をめざした、再生可能エネルギーの大幅導入は避けて通れない。地熱を除く再生可能エネルギーは、基本的には太陽エネルギー起源であって、地域的に分散し、出力が時間的に変動するエネルギーである。こうした制御しにくいエネルギーを、火力のように変動追従性のよい電源を組み合わせながら、日常の変動にうまく追従する配電網を構築してゆかねばならない。固定価格買取制度(FIT)(第5章)の導入で家庭・オフィス・工場が分散型超小発電所の様相をみせる。そこからの電力供給を引き受け、さらには電気自動車に配電網の蓄電能力の一部を受け持たせて、全体にこれらを最適・確実にコントロールする、スマートグリッドヘ進んでいく。
金融インフラ
低炭素化のために、年間にGDPの約一%の直接費用が必要と計算される(第2章)。毎年これだけの資金が動きながら、二〇五〇年まで四〇年かけて低炭素社会へ移行してゆく。低炭素技術やその導入のためのインフラ構築に要する資金需要は膨大になる。太陽光発電の資本回収にはI〇-一五年程度を要する。現在、回転の速い経済に対応するために取られているニー三年での資金回収を狙った投資方針では、低炭素技術は導入されにくい。長期を見た投資ができるよう、低炭素技術に対する長期投融資システムの構築も不可欠のインフラ整備である。
人的資源
低炭素社会構築の最大の障壁は、人的資源の不足である。
高断熱住宅の普及は、省エネルギーだけでなく快適な住宅を楽しむ観点からも望ましい。今大手住宅メーカーで作られる住宅は、全体の約一五%程度と見られる。他は、いわゆる地元の工務店が請け負う。何十万もある地方工務店で、省エネルギーのための建築ノウ(ウと技術を学習体得している技能者は決して多くない。
既存住宅の省エネルギー改修もきわめて効果的であり、建築学会では住宅診断のガイドライン(CASBEEなど)を出している。しかし、住宅の省エネルギー診断ができる技術者はまだきわめて少ない。
社会が炭素経済に移ると、炭素の価値をベースにした取引が始まり、いわば新たな貨幣での経済が構築される。このようなとき、市場に出された炭素量が、どれはどの実態を伴っての削減量であるかの判断は、炭素経済の信用を決める重要なポイントとなる。炭素会計に関する、計測、報告、確認といった作業を確実にこなす人材も今後は重要になってくる。
大学、企業内、職業訓練機関まで、低炭素時代の人材を育てることが、どの局面にもある壁を乗り越えるために不可欠である。
低炭素社会の方向を見誤らない
都市・道路・住宅といった社会インフラヘの投資を低炭素化に向けることは、緊急にそして熟慮してやらねばならない。都市インフラを一旦作ってしまうと、それ自体が長期の社会発展方向を固定し、その慣性の大きさから時には変革のための障害ともなる。低炭素時代を前にして、社会インフラ投資手順を間違えると、今後五〇-一〇〇年間にわたって高炭素社会を継続せざるをえない状況にがんじがらめに縛りっけられる。その典型的な例が、地下鉄より道路投資を先行させ、今自動車の渋滞と大気汚染になやむバンコクやジヤカルタである。先に示した日本の筑波学園都市もその一例である。
国土の形成事業は、人口動態をふまえ、技術システムの方向をみきわめ、景気対策の短期資金に踊らされることなく、長期的な見通しを持ってのぞまないと後世代につけが回る。われわれが歴史の上でどのような位置にいるのか、低炭素社会の意味をしっかりみきわめた議論が必要である。
技術を社会に組み込むためには、社会基盤、すなわちインフラが整っていなくてはならない。すでに論じた都市や交通システムはその一部であり、政策や法律もソフトな社会基盤である。ほかに、エネルギーシステム、金融システムそして人材といった基盤を低炭素向けに整備してゆかねばならない。これまでの記述をまとめながら考えてみたい。
エネルギーインフラ
低炭素社会実現の鍵は、前節で述べたエネルギーシステムの転換にある。需要側の省エネルギー推進と供給エネルギーの低炭素化を念頭に置いた、需給両者を統合した新たなエネルギーインフラを構築しなければならない。
需要側のエネルギー技術使用形態もすっかり変わる。安全性と利便性の観点から、今後も電化率が高まると見られる。ガソリン車に代わって電気自動車が増える。自動車は家庭でのプラグイン充電がなされるだけでなく、配電網の一部として蓄電機能を受け持ち、短期の電力需給の平準化にも寄与する。街にはガソリンスタンドに代わって、急速充電ステーションが必要である。ガスも水素等燃料電池自動車に使われ、定置型燃料電池として家庭に熱と電力を供給する。
住宅の高断熱化か進み、スマートメーター・コントロールシステムが家庭のエネルギー使用状況を常時個別に把握し最適運転するだけでなく、配電会社に情報を送る。配電会社はこれらの情報をただちに分析し、さらに天気予報を分析し、今日の使用量をはじき、どれだけの発電をするべきか刻々発電所に指令する。
一次エネルギーの低炭素化をめざした、再生可能エネルギーの大幅導入は避けて通れない。地熱を除く再生可能エネルギーは、基本的には太陽エネルギー起源であって、地域的に分散し、出力が時間的に変動するエネルギーである。こうした制御しにくいエネルギーを、火力のように変動追従性のよい電源を組み合わせながら、日常の変動にうまく追従する配電網を構築してゆかねばならない。固定価格買取制度(FIT)(第5章)の導入で家庭・オフィス・工場が分散型超小発電所の様相をみせる。そこからの電力供給を引き受け、さらには電気自動車に配電網の蓄電能力の一部を受け持たせて、全体にこれらを最適・確実にコントロールする、スマートグリッドヘ進んでいく。
金融インフラ
低炭素化のために、年間にGDPの約一%の直接費用が必要と計算される(第2章)。毎年これだけの資金が動きながら、二〇五〇年まで四〇年かけて低炭素社会へ移行してゆく。低炭素技術やその導入のためのインフラ構築に要する資金需要は膨大になる。太陽光発電の資本回収にはI〇-一五年程度を要する。現在、回転の速い経済に対応するために取られているニー三年での資金回収を狙った投資方針では、低炭素技術は導入されにくい。長期を見た投資ができるよう、低炭素技術に対する長期投融資システムの構築も不可欠のインフラ整備である。
人的資源
低炭素社会構築の最大の障壁は、人的資源の不足である。
高断熱住宅の普及は、省エネルギーだけでなく快適な住宅を楽しむ観点からも望ましい。今大手住宅メーカーで作られる住宅は、全体の約一五%程度と見られる。他は、いわゆる地元の工務店が請け負う。何十万もある地方工務店で、省エネルギーのための建築ノウ(ウと技術を学習体得している技能者は決して多くない。
既存住宅の省エネルギー改修もきわめて効果的であり、建築学会では住宅診断のガイドライン(CASBEEなど)を出している。しかし、住宅の省エネルギー診断ができる技術者はまだきわめて少ない。
社会が炭素経済に移ると、炭素の価値をベースにした取引が始まり、いわば新たな貨幣での経済が構築される。このようなとき、市場に出された炭素量が、どれはどの実態を伴っての削減量であるかの判断は、炭素経済の信用を決める重要なポイントとなる。炭素会計に関する、計測、報告、確認といった作業を確実にこなす人材も今後は重要になってくる。
大学、企業内、職業訓練機関まで、低炭素時代の人材を育てることが、どの局面にもある壁を乗り越えるために不可欠である。
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先行する都市
『低炭素社会のデザイン』より
「活力社会」と「ゆとり社会」の二つのシナリオを示した。このとき地域社会はどのように変貌するであろうか。まず、都市を中心に、二つのシナリオを詳しく見てゆくことにしよう。
「活力社会」では
都市居住選好志向や利便性・効率性の追求から都心部への人口・資本の集中が進展している。土地の高度利用(高層化、地下化)が進む。職住近接が可能になり、郊外から利便性が高い中心部に移り住む人々の比率が増加。都心部へ人口が流出するが、計画的で効率の良い都市計画により、アミューズメント施設や自然共生地を適切に配置している。
地方都市では人口が大幅に減少するため、中核都市としての機能を果たせない都市が増加するが、土地や資源を利用したビジネス大規模農業、発電プラントなど)の拠点として再生される都市も現れる。
農地、山間部においては過疎化が進展し、人口が大幅に減少する。地域の特性に応じた、土地や資源の効率的な利用に向けた取り組みが進められる。農業・林業・漁業などは民間会社などによって大規模経営され、機械化などによって大幅に省力化される中、ひと・もの・かねの資源の効率的な利用が進む。一方で、国立公園に指定される地域も増加する。
「ゆとり社会」では
都心から地方・農山村への人口流出が進み、人口や資本の分散化が進展する。自らのライフスタイルに合った地域に移り住む人が増加し、中心部の人口は減少する。首都など主要都市においては適正な規模と密度が維持されており、過度なインフラ投資は行わない。この結果、都市部郊外というよりは独立性の高い都市としての再生が図られる。
地方においても充分な医療サービスや教育を受けることが可能になり、シナリオAと比べて人口の減少がある程度抑制される。地域の独自性や文化が前面に出され、活気ある地方都市が数多く現れる。地域社会の意思決定の過程には、NGOや市民が積極的に参加し、理想の地域を自ら作る意欲に満ち溢れている。農林水産業に対する魅力性が高まり、農村や山村、漁村への人口回帰が進む。低い地価を利用した個人・地域経営のもと、工夫を凝らした「おもしろい」一次産業を営む人も現れる。農業を職業として営む人のみならず、自然が豊かな地域に自宅とオフィスを構え、SOHOTT技術を使って小規模オフィスや自宅でビジネスを行なう形態)によって収入を得ながら、自ら家庭菜園を営み、おいしく、安全な食と健康的な生活を求める家族も現れる。
コンパクトな街づくり
どちらの社会になるにしても低炭素社会にすることができる、というのがこれまでの結論である。
いずれの社会になるとしても、今後は、高齢化に対応して歩いて暮らせるコンパクトな街づくりが進められる(コンパクトシティ)。これまでの多くの街づくりは、郊外ショッピングセンターに客を取られて中心街はシャッター街となって人通りがまばらという事態を生み出した。店が遠くなって買い物が一人ではできなくなった買い物難民は、高齢者を中心に五〇〇万人にのぽるといわれる。街の作りを変え、シャッター街を若者に貸して店を開かせ、そこで年寄りが会話を交わしながら買い物を楽しむ、「職・住・商近接型」への都市づくりへの回帰が今求められている。
コンパクトといってもぎゅうぎゅう詰めの街ということではなく、ヨーロッパの中小都市のように、産地直送の品物が並んだ広場での買いものに品定めやおしゃべりをしてゆったりすごせる街である。これで車による移動が減る。都市内交通は、バスや軽量軌道交通(LRT)など大量輸送公共交通を優先的に通行させ、最初の切符で一時間どの公共交通機関にでも乗り放題といった、ヨーロッパ各国で見られる便利で安心な輸送サービスを構築する。これは、多大な投資を必要としないソフトな政策である。商店街は鉄道の駅を囲むように作られるとより移動が楽になるし、客足が遠のかない。
地域ごとに異なる街づくり
一口に低炭素社会といっても、地域によってどんな街にしたいのか、それによって効果的な施策は異なる。大都市では、機能の高効率化か目標となるだろう。中規模都市では、コンパクト化を進めることがポイントとなる。小規模市町村では、例えば農村と結んでバイオマスを活用しながら地域経済の自立を図る。
都市では、建て替えに当たって個々の住宅やオフィスビルが高断熱で省エネルギー型管理が可能な設計にしなければならない。各部屋に空調設備が取り付けられ、省エネルギー努力が報われるシステムが必要である。こうしたことの積み重ねが、エネルギー供給産業から計測情報産業への産業構造転換となって現れる。
全体としてみれば、ペンシルビルの乱立を防ぐ土地改革が進められねばならない。これには大変な制度的改革を覚悟しなければならない。再生可能エネルギーを独自に供給するか、あるいは既存電力網につなぎ、河川やごみなど未利用エネルギーを取り入れ、東京丸の内などですでに進められているような地域ぐるみの省エネルギー型街づくりのため、地域企業が業種を越えて協力することが当たり前になるだろう。
低炭素社会は都市の単位で早く実現できるだろうといわれる。そこには社会の要素がすべてととのっており、市民が自分のこととして論議でき、市長の強い意思があれば理想の社会づくりができるからである。バスレーンについて第2章で触れたが、必要なのは明確な政治の意思表明とそれにもとづく都市計画、インフラ投資である。
「活力社会」と「ゆとり社会」の二つのシナリオを示した。このとき地域社会はどのように変貌するであろうか。まず、都市を中心に、二つのシナリオを詳しく見てゆくことにしよう。
「活力社会」では
都市居住選好志向や利便性・効率性の追求から都心部への人口・資本の集中が進展している。土地の高度利用(高層化、地下化)が進む。職住近接が可能になり、郊外から利便性が高い中心部に移り住む人々の比率が増加。都心部へ人口が流出するが、計画的で効率の良い都市計画により、アミューズメント施設や自然共生地を適切に配置している。
地方都市では人口が大幅に減少するため、中核都市としての機能を果たせない都市が増加するが、土地や資源を利用したビジネス大規模農業、発電プラントなど)の拠点として再生される都市も現れる。
農地、山間部においては過疎化が進展し、人口が大幅に減少する。地域の特性に応じた、土地や資源の効率的な利用に向けた取り組みが進められる。農業・林業・漁業などは民間会社などによって大規模経営され、機械化などによって大幅に省力化される中、ひと・もの・かねの資源の効率的な利用が進む。一方で、国立公園に指定される地域も増加する。
「ゆとり社会」では
都心から地方・農山村への人口流出が進み、人口や資本の分散化が進展する。自らのライフスタイルに合った地域に移り住む人が増加し、中心部の人口は減少する。首都など主要都市においては適正な規模と密度が維持されており、過度なインフラ投資は行わない。この結果、都市部郊外というよりは独立性の高い都市としての再生が図られる。
地方においても充分な医療サービスや教育を受けることが可能になり、シナリオAと比べて人口の減少がある程度抑制される。地域の独自性や文化が前面に出され、活気ある地方都市が数多く現れる。地域社会の意思決定の過程には、NGOや市民が積極的に参加し、理想の地域を自ら作る意欲に満ち溢れている。農林水産業に対する魅力性が高まり、農村や山村、漁村への人口回帰が進む。低い地価を利用した個人・地域経営のもと、工夫を凝らした「おもしろい」一次産業を営む人も現れる。農業を職業として営む人のみならず、自然が豊かな地域に自宅とオフィスを構え、SOHOTT技術を使って小規模オフィスや自宅でビジネスを行なう形態)によって収入を得ながら、自ら家庭菜園を営み、おいしく、安全な食と健康的な生活を求める家族も現れる。
コンパクトな街づくり
どちらの社会になるにしても低炭素社会にすることができる、というのがこれまでの結論である。
いずれの社会になるとしても、今後は、高齢化に対応して歩いて暮らせるコンパクトな街づくりが進められる(コンパクトシティ)。これまでの多くの街づくりは、郊外ショッピングセンターに客を取られて中心街はシャッター街となって人通りがまばらという事態を生み出した。店が遠くなって買い物が一人ではできなくなった買い物難民は、高齢者を中心に五〇〇万人にのぽるといわれる。街の作りを変え、シャッター街を若者に貸して店を開かせ、そこで年寄りが会話を交わしながら買い物を楽しむ、「職・住・商近接型」への都市づくりへの回帰が今求められている。
コンパクトといってもぎゅうぎゅう詰めの街ということではなく、ヨーロッパの中小都市のように、産地直送の品物が並んだ広場での買いものに品定めやおしゃべりをしてゆったりすごせる街である。これで車による移動が減る。都市内交通は、バスや軽量軌道交通(LRT)など大量輸送公共交通を優先的に通行させ、最初の切符で一時間どの公共交通機関にでも乗り放題といった、ヨーロッパ各国で見られる便利で安心な輸送サービスを構築する。これは、多大な投資を必要としないソフトな政策である。商店街は鉄道の駅を囲むように作られるとより移動が楽になるし、客足が遠のかない。
地域ごとに異なる街づくり
一口に低炭素社会といっても、地域によってどんな街にしたいのか、それによって効果的な施策は異なる。大都市では、機能の高効率化か目標となるだろう。中規模都市では、コンパクト化を進めることがポイントとなる。小規模市町村では、例えば農村と結んでバイオマスを活用しながら地域経済の自立を図る。
都市では、建て替えに当たって個々の住宅やオフィスビルが高断熱で省エネルギー型管理が可能な設計にしなければならない。各部屋に空調設備が取り付けられ、省エネルギー努力が報われるシステムが必要である。こうしたことの積み重ねが、エネルギー供給産業から計測情報産業への産業構造転換となって現れる。
全体としてみれば、ペンシルビルの乱立を防ぐ土地改革が進められねばならない。これには大変な制度的改革を覚悟しなければならない。再生可能エネルギーを独自に供給するか、あるいは既存電力網につなぎ、河川やごみなど未利用エネルギーを取り入れ、東京丸の内などですでに進められているような地域ぐるみの省エネルギー型街づくりのため、地域企業が業種を越えて協力することが当たり前になるだろう。
低炭素社会は都市の単位で早く実現できるだろうといわれる。そこには社会の要素がすべてととのっており、市民が自分のこととして論議でき、市長の強い意思があれば理想の社会づくりができるからである。バスレーンについて第2章で触れたが、必要なのは明確な政治の意思表明とそれにもとづく都市計画、インフラ投資である。
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コンパクトシティとクルマレス
地区のコミュニティの連携イメージ
中国の自身の時は中国政府は、上海はこの地区、北京はこの地区と支援する範囲を決めました。そこで競争関係を生みだした。たとえば、名古屋は仙台、東京は福島というカタチにすれば、できます。それが仕掛けです。
あとは、それぞれのコミュニティが動き出せばいい。お互いさまの関係を作り出していく。特に、東海地区は積極的に作っていくことが。「次」に備えることになります。姉妹都市という、いい加減な制度ではなく、コミュニティ同士が接続する、キッチリしたコミュニケーションができます。
そういうことにすることで、新しい公共も出てきます。豊田市はフィンランドのハメリンナ市と連携すれば、Think Globally, Act Locallyの行政のやり方を理解します。ハメリンナ一つとっても、非常に役立ちます。そういう考え方を手に入れていかないと、日本はあまりにもローカルです。
提案すること
提案するというのは、あんなところであんなことをしているということを紹介することではない。また、こんなことを私たちは聞いてきたとか、こんなことを私たちはやりますというものではない。提案は実行を伴いません。全体を動かすことです。自分ができることを探しまわることが、横行している。人間を狭くします。組織に使われます。
コンパクトシティとクルマレス
コンパクトシティでクルマでなくなるのか、減るのか。減るかも知れないけど、人がコンパクトシティに動くことのエネルギーが大きい。そして、集まり過ぎてもダメだし、少なすぎてもダメというバランスの問題は行政にコントロールできない。うまくいくはずがない。
むしろ、今のままの状態で、いかにして、クルマを減らすのかを考えていかないといけない。公共機関そのものをシェアと考えればいい。バス電車の類に、クルマを入れていく。コンパクトシティがいいとしたら、自転車ですこれが行政側から述べられていない。
コペンハーゲンのように自転車にすれば、行動範囲が違います。30Kmぐらいまで拡がるので、シティに移らなくても、コンパクトになります。自転車なら、バス電車に載せることもできます。
エネルギー消費の節約
エネルギー消費の節約を考えているのは、提言の中では田中優だけみたいです。ドンドン、エネルギーを獲得しても、高くしても使わなければいい。利用者が権限を握るとはそういうことです。昔のOPECのように、力の関係を変えることです。
タダでない限りは、使わないという論理に対抗できる論理はないです。タダにして、使わせるという論理ほど、惨めなものはない。傲慢です。提案は土地のモノはパスします。色々なパスが考えられるから。
中国の自身の時は中国政府は、上海はこの地区、北京はこの地区と支援する範囲を決めました。そこで競争関係を生みだした。たとえば、名古屋は仙台、東京は福島というカタチにすれば、できます。それが仕掛けです。
あとは、それぞれのコミュニティが動き出せばいい。お互いさまの関係を作り出していく。特に、東海地区は積極的に作っていくことが。「次」に備えることになります。姉妹都市という、いい加減な制度ではなく、コミュニティ同士が接続する、キッチリしたコミュニケーションができます。
そういうことにすることで、新しい公共も出てきます。豊田市はフィンランドのハメリンナ市と連携すれば、Think Globally, Act Locallyの行政のやり方を理解します。ハメリンナ一つとっても、非常に役立ちます。そういう考え方を手に入れていかないと、日本はあまりにもローカルです。
提案すること
提案するというのは、あんなところであんなことをしているということを紹介することではない。また、こんなことを私たちは聞いてきたとか、こんなことを私たちはやりますというものではない。提案は実行を伴いません。全体を動かすことです。自分ができることを探しまわることが、横行している。人間を狭くします。組織に使われます。
コンパクトシティとクルマレス
コンパクトシティでクルマでなくなるのか、減るのか。減るかも知れないけど、人がコンパクトシティに動くことのエネルギーが大きい。そして、集まり過ぎてもダメだし、少なすぎてもダメというバランスの問題は行政にコントロールできない。うまくいくはずがない。
むしろ、今のままの状態で、いかにして、クルマを減らすのかを考えていかないといけない。公共機関そのものをシェアと考えればいい。バス電車の類に、クルマを入れていく。コンパクトシティがいいとしたら、自転車ですこれが行政側から述べられていない。
コペンハーゲンのように自転車にすれば、行動範囲が違います。30Kmぐらいまで拡がるので、シティに移らなくても、コンパクトになります。自転車なら、バス電車に載せることもできます。
エネルギー消費の節約
エネルギー消費の節約を考えているのは、提言の中では田中優だけみたいです。ドンドン、エネルギーを獲得しても、高くしても使わなければいい。利用者が権限を握るとはそういうことです。昔のOPECのように、力の関係を変えることです。
タダでない限りは、使わないという論理に対抗できる論理はないです。タダにして、使わせるという論理ほど、惨めなものはない。傲慢です。提案は土地のモノはパスします。色々なパスが考えられるから。
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未唯へ
ラテもダブルにすると、苦いことは苦いけど、疲れが取れます。
ウォークマンの新発売をチェックしたけど、テレビ視聴と録画の部分がハッキリしない。10月に出るのは19800です。12月に出るスマホタイプはアンドロイドを使うから、バッテリ消費が激しい。テレビ録画ないと意味ないです。
つながるの徹底分析
現在の行政を追っかけても何も出てきません。彼らは時間つぶしです。企業でも同様です。過去の成功体験をやっているところは無視すればいい。何をしたいかが判断基準です。その意味で、つながると徹底分析します。
何故、つながりたいのか。企業を社会とどういう関係にしていきたいのか。行政は本来、何も持っていないから、大きなモーメントで動きます。温暖化を始めた以上は、なんでも温暖化です。温暖化の原因がCO2でなくても、そのまま続行です。それは無駄なことです。
エネルギーの地産地消
今やることは、エネルギーの地産地消でしょう。その時にCD2を考慮していてはできるはずがない。そんなものは産業用のエネルギーを作るところで、大規模に考えてもらえばいい。地域はあくまでも分散型ですから、CO2は関係なしにやります。単に買うだけの消費者としての市民でなくなります。だから、宣伝よりも、自分たちをどう変えていくのかのNPOの目標をシフトさせないといけな。
あとは、やはりネットワークです。センサーをくっつけて、双方向で発信させます。それがつながることです。それによって、上から勝手に決められていたことを一緒にやっていくことと、お互いがどういう状況になっているかを知ることです。これが一番大きいです。市民を横に連携するために、コミュニティが必要なのです。縦からの連携・支配に対して、横のつながりで力を持たせます。
そのためのサーバーとかコラボレーションのツールも用意されています。FaceBookで実際に行われています。クルマも含めたコミュニケーションの世界にした上で、活動拠点を用意した上に、市民が力を持てば変わります。これらはマーケティングであり、かつシェアの世界です。
シェアする世界
いかに、使わなくするか、使わなくても、お互いを幸せにするか。多くあっても、幸せになれないのであれば、少ない状態で幸せになれる方法を考えればいい。リサイクルのごみも一緒です。ごみと考えずに、コミュニティ内で使い切ってしまうことです。海外も含むことも可能です。
クルマは自家発電機です。エネルギーの地産地消の最小単位です。少ないガソリンでいかに多くの電気を作り、電気をためるかです。大きなクルマなら、家庭の4時間分はカバーします。
プラグインハイブリッドが答えの一つですね。大きなインフラを作らなくも、市民のニーズを満たします。ついでに移動することもできます。これは3.11クライシス直後に考えて、ブログにアップしたことです。
市民にとって、人類の将来にとって、ムダなものにお金を使ったことを「需要喚起」と言ってほしくない。電気自動車と太陽光発電を全家庭が設置するのに、131兆円必要になる。そんなこと使うよりも、エネルギーの地産地消するためにやるべきことは多い。市民にはお金よりも知恵を出すようにしたい。そうしないと循環しない。
シェアで考えるなら、クルマがつぶやくことも必要です。高機能化します。その代わり、台数は半分でいい。ある時間で考えると、半分以上は駐車場に居ます。それを有功活用するには、人間とのコミュニケーションも必要になってきます。
所有しているから、そういうカタチで放置している。電車バスは有効活用するために、時刻表が必要になってくる。
そうすることで、インフラそのものを変えていきます。日本に特化したものができます。ハードを作るのではなく、ネットワークを使ったソフトが中心になるので、安くて、柔軟に変えられます。その次に、海外に仕組み自体を海外に渡していきます。
論理をぶつける相手
論理というものはぶつけるものであって、説得するものではない。考えてない人に対して、それはムリです。何も生まれません。
専門家から講義を受けた時に、一つの答が出てくるのは、自分の考え方をぶつけているからです。専門家の言葉をそのまま、自分の言葉にするのは、よほど、シンクロしない限り、ムリです。
ラテもダブルにすると、苦いことは苦いけど、疲れが取れます。
ウォークマンの新発売をチェックしたけど、テレビ視聴と録画の部分がハッキリしない。10月に出るのは19800です。12月に出るスマホタイプはアンドロイドを使うから、バッテリ消費が激しい。テレビ録画ないと意味ないです。
つながるの徹底分析
現在の行政を追っかけても何も出てきません。彼らは時間つぶしです。企業でも同様です。過去の成功体験をやっているところは無視すればいい。何をしたいかが判断基準です。その意味で、つながると徹底分析します。
何故、つながりたいのか。企業を社会とどういう関係にしていきたいのか。行政は本来、何も持っていないから、大きなモーメントで動きます。温暖化を始めた以上は、なんでも温暖化です。温暖化の原因がCO2でなくても、そのまま続行です。それは無駄なことです。
エネルギーの地産地消
今やることは、エネルギーの地産地消でしょう。その時にCD2を考慮していてはできるはずがない。そんなものは産業用のエネルギーを作るところで、大規模に考えてもらえばいい。地域はあくまでも分散型ですから、CO2は関係なしにやります。単に買うだけの消費者としての市民でなくなります。だから、宣伝よりも、自分たちをどう変えていくのかのNPOの目標をシフトさせないといけな。
あとは、やはりネットワークです。センサーをくっつけて、双方向で発信させます。それがつながることです。それによって、上から勝手に決められていたことを一緒にやっていくことと、お互いがどういう状況になっているかを知ることです。これが一番大きいです。市民を横に連携するために、コミュニティが必要なのです。縦からの連携・支配に対して、横のつながりで力を持たせます。
そのためのサーバーとかコラボレーションのツールも用意されています。FaceBookで実際に行われています。クルマも含めたコミュニケーションの世界にした上で、活動拠点を用意した上に、市民が力を持てば変わります。これらはマーケティングであり、かつシェアの世界です。
シェアする世界
いかに、使わなくするか、使わなくても、お互いを幸せにするか。多くあっても、幸せになれないのであれば、少ない状態で幸せになれる方法を考えればいい。リサイクルのごみも一緒です。ごみと考えずに、コミュニティ内で使い切ってしまうことです。海外も含むことも可能です。
クルマは自家発電機です。エネルギーの地産地消の最小単位です。少ないガソリンでいかに多くの電気を作り、電気をためるかです。大きなクルマなら、家庭の4時間分はカバーします。
プラグインハイブリッドが答えの一つですね。大きなインフラを作らなくも、市民のニーズを満たします。ついでに移動することもできます。これは3.11クライシス直後に考えて、ブログにアップしたことです。
市民にとって、人類の将来にとって、ムダなものにお金を使ったことを「需要喚起」と言ってほしくない。電気自動車と太陽光発電を全家庭が設置するのに、131兆円必要になる。そんなこと使うよりも、エネルギーの地産地消するためにやるべきことは多い。市民にはお金よりも知恵を出すようにしたい。そうしないと循環しない。
シェアで考えるなら、クルマがつぶやくことも必要です。高機能化します。その代わり、台数は半分でいい。ある時間で考えると、半分以上は駐車場に居ます。それを有功活用するには、人間とのコミュニケーションも必要になってきます。
所有しているから、そういうカタチで放置している。電車バスは有効活用するために、時刻表が必要になってくる。
そうすることで、インフラそのものを変えていきます。日本に特化したものができます。ハードを作るのではなく、ネットワークを使ったソフトが中心になるので、安くて、柔軟に変えられます。その次に、海外に仕組み自体を海外に渡していきます。
論理をぶつける相手
論理というものはぶつけるものであって、説得するものではない。考えてない人に対して、それはムリです。何も生まれません。
専門家から講義を受けた時に、一つの答が出てくるのは、自分の考え方をぶつけているからです。専門家の言葉をそのまま、自分の言葉にするのは、よほど、シンクロしない限り、ムリです。
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チーム「社会」の中間報告
未唯へ
最低限で生きていきます。
老人ホームに来たけど、本人を連れていかれました。まあ、適当に引き上げましょう。
来週の会社へのバックは、更にコンパクトにします。日ごとの厚いノートは、その日だけを切って、4つに折って持っていきます。その日の分はその日に片付ける。
次期ネットとマーケティング
論理が異なる世界との接続。これが今後の社会です。イントラとインターネット、無料と有料の世界が混ざり合ってきた。これらは、マーケティングの違いが大きいかもしれない。ケータイを売るために、ホットスポットを10万カ所も作ることが仕事になっている。
これはグーグルと同様の論理です。マーケティングが違うところでの戦術です。図書館のデジタル化もその範疇にはいります。これは、原価を直価する企業のマーケティングにとっては脅威になります。だけど、ユーザーには選択肢が増えます。どのように融合させるのか。
電子図書の世界の競争
電子図書も同じです。いくらでもコピーできる世界。一度、入れてしまえば、いくらでも拡げることができる。その世界と本の世界。
本を作ることは個人作業ではない。デジタルは個人作業です。今は紙のモノを作るけど。今後はデジタルを先に作る。そこでいかにペイさせるのか。これらが多く発生しています。その意味では論理がバラバラになってきます。それに対しての論理は使用者からつくることです。論理の集約点です。
チーム「社会」の中間報告
グループのミーティング資料を見たけど、未だに同じところに止まっている。変える理由です。理由とはキッカケです。適当でいいんです。それぞれが様々な理由で行えばいいです。それよりも何を提案するかです。
何故、変えるのかというところはコンパクトシティを提案する行政で実態が分かりました。今後のことを考えている行政としては、やはり、コンパクトシティが必要なんです。今のように無造作に拡大を前提として、それにインフラを提供するのはムリです。
もう一つは、農村撤退ではないけど、非効率なところをどのように効率化するという発想です。それは人が減ってくるからです。人が増えて、資産が増え、税金が増えてくれば、いくらでも拡大すればいいけど、今は縮小していることはできない。むしろ、縮小することです。その感覚があるからコンパクトシティです。
では、市民レベルに行った時に、そんな感覚があるかというと、そんな感覚はない。統計的に見ていないから、人が減っているという感覚はない。自分の生活から見たら、何も困らない。人が少なくなっても困らない。インフラを考えないといけない、全体を考えるところ、その中から、自分の存在理由を示さないといけないところには死活問題です。
それで、市民協働のような概念ができた。だけど、市民の方はそんなレベルではない。自分の言いたいことを行政を使ってやっていこうというぐらいの感覚です。全体を見ていない。市民側の勉強が足りないでしょう。それはそうでしょう。本を読まないから。
未唯空間の最新版
私の未唯空間の最新版は頭に中にあるようにしましょう。いつでも取り出せます。そのために、上からのロジックと下から上へのロジックをいかにシンプル化です。それがないと、市民は考えられないです。全部を考えなさいと、急に言われてもムリです。
それを可能にするのは、社会モデルを認識することです。バラバラに起こってることを整理できます。そのための体制をどうするかについても、社会モデルを使えば、何が足りないかがわかります。
環境塾の事務局の足りないところ
足りないのは、ThinkLloballyの事務局です。あすこは適当です。皆をどう助けるのかの意識がない。本来、グローバルのアイデアを実現するためのチューターがアルバイト的になっています。自分の知っている方へ持って行こうとします。そうではなく、市民が考えられるようにするのが、あなたたちの仕事です。事務局の中に、県とメーカーが入っています。
最低限で生きていきます。
老人ホームに来たけど、本人を連れていかれました。まあ、適当に引き上げましょう。
来週の会社へのバックは、更にコンパクトにします。日ごとの厚いノートは、その日だけを切って、4つに折って持っていきます。その日の分はその日に片付ける。
次期ネットとマーケティング
論理が異なる世界との接続。これが今後の社会です。イントラとインターネット、無料と有料の世界が混ざり合ってきた。これらは、マーケティングの違いが大きいかもしれない。ケータイを売るために、ホットスポットを10万カ所も作ることが仕事になっている。
これはグーグルと同様の論理です。マーケティングが違うところでの戦術です。図書館のデジタル化もその範疇にはいります。これは、原価を直価する企業のマーケティングにとっては脅威になります。だけど、ユーザーには選択肢が増えます。どのように融合させるのか。
電子図書の世界の競争
電子図書も同じです。いくらでもコピーできる世界。一度、入れてしまえば、いくらでも拡げることができる。その世界と本の世界。
本を作ることは個人作業ではない。デジタルは個人作業です。今は紙のモノを作るけど。今後はデジタルを先に作る。そこでいかにペイさせるのか。これらが多く発生しています。その意味では論理がバラバラになってきます。それに対しての論理は使用者からつくることです。論理の集約点です。
チーム「社会」の中間報告
グループのミーティング資料を見たけど、未だに同じところに止まっている。変える理由です。理由とはキッカケです。適当でいいんです。それぞれが様々な理由で行えばいいです。それよりも何を提案するかです。
何故、変えるのかというところはコンパクトシティを提案する行政で実態が分かりました。今後のことを考えている行政としては、やはり、コンパクトシティが必要なんです。今のように無造作に拡大を前提として、それにインフラを提供するのはムリです。
もう一つは、農村撤退ではないけど、非効率なところをどのように効率化するという発想です。それは人が減ってくるからです。人が増えて、資産が増え、税金が増えてくれば、いくらでも拡大すればいいけど、今は縮小していることはできない。むしろ、縮小することです。その感覚があるからコンパクトシティです。
では、市民レベルに行った時に、そんな感覚があるかというと、そんな感覚はない。統計的に見ていないから、人が減っているという感覚はない。自分の生活から見たら、何も困らない。人が少なくなっても困らない。インフラを考えないといけない、全体を考えるところ、その中から、自分の存在理由を示さないといけないところには死活問題です。
それで、市民協働のような概念ができた。だけど、市民の方はそんなレベルではない。自分の言いたいことを行政を使ってやっていこうというぐらいの感覚です。全体を見ていない。市民側の勉強が足りないでしょう。それはそうでしょう。本を読まないから。
未唯空間の最新版
私の未唯空間の最新版は頭に中にあるようにしましょう。いつでも取り出せます。そのために、上からのロジックと下から上へのロジックをいかにシンプル化です。それがないと、市民は考えられないです。全部を考えなさいと、急に言われてもムリです。
それを可能にするのは、社会モデルを認識することです。バラバラに起こってることを整理できます。そのための体制をどうするかについても、社会モデルを使えば、何が足りないかがわかります。
環境塾の事務局の足りないところ
足りないのは、ThinkLloballyの事務局です。あすこは適当です。皆をどう助けるのかの意識がない。本来、グローバルのアイデアを実現するためのチューターがアルバイト的になっています。自分の知っている方へ持って行こうとします。そうではなく、市民が考えられるようにするのが、あなたたちの仕事です。事務局の中に、県とメーカーが入っています。
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