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なんと不運な国だ

「9.11の数日前に殺された、マスードが生きていたら、歴史は変わったのか}

九月九日の早朝、マスードは自宅でペルシャ語の詩を読んでいた。翌日朝にヘリコプターでカブールに飛び、自軍の前線を視察しタリバンの陣容を調べる予定だった。マスードは部下から、出発前に二人のアラブ人ジャーナリストと会うよう求められた。彼らは何日間も待ち続けていた。マスードは、諜報担当補佐官アリフが使っているコンクリート建のオフィスでインタビューを受けようと言った。正午ごろに彼はその建物で、背中の痛みを和らげるクッションの上に落ち着いた。友人で駐インド大使のマスードーハリリが彼の隣に座った。背の低い方のアラブ人ジャーナリストがテーブルを動かし、マスードの胸の高さに三脚をセットした。「彼はレスラーなのかカメラマンなのか」とハリリが冗談を言った。

マスードに電話がかかってきた。彼の部隊が前線近くでアラブ人八人を逮捕したのだ。彼はアリフに、もっと詳しい情報がわかるかと尋ね、アリフは部屋を出て行った。

ジャーナリストの一人は、同僚が撮影の準備をしている間に質問の一覧を読み上げた。質問の半分ほどはウサマービンラディンについてだった。マスードは質問を聞き、準備はできたと言った。

爆発でカメラマンの体がばらばらになり、部屋の窓が粉々に壊れて壁が炎に包まれた。マスードの胸が破片で引き裂かれ、彼は崩れ落ち意識を失った。

護衛と側近らが室内に駆け込み、マスードのぐったりした身体を運び出してジープに乗せ、ヘリコプター発着場に向かった。タジキスタン国境がすぐ近くだった。病院までヘリでI〇分だった。

爆弾のすぐ横に座っていたマスードの側近数人とやせた方のアラブ人記者は騒音で意識を回復し、火傷の痛みを感じながら重傷は負っていないことに気づいた。アラブ人は逃走しようとしたがマスードの護衛たちに捕まった。護衛たちはアラブ人を近くの部屋に閉じ込めたが、彼は窓から抜け出し、逃げようとしたときに射殺された。

ヘリコプターの中では、長い間護衛を務めてきたオマルがマスードの頭を支え、彼が息を引き取るのを見守っていた。オマルは「彼が死んでしまう。私も死んでしまう」と思ったという。

アムルラ・サレハがタジキスタンからCIAテロ対策センターに電話をかけ、ビンラディン担当班長のリッチと話した。サレハは泣きじゃくりながら、何が起こったのかを説叫した・

「マスードはどこですか」とリッチは尋ねた。

「冷蔵庫の中」とサレハは言った。モルグ(死体置き場)という英語が出てこなかっか。

マスードは死んだ。だが側近たちはそれを受け入れることができなかった。一方で彼らは大急ぎで戦略を練ろうとした。マスードの死を知れば、タリバンはすぐに大挙してパンジシール渓谷を攻撃してくる。後に残されたマスードの側近たちはそう確信していた。タリバンが征服地でしてきたことを考えれば、パンジシールは破壊と残虐行為に直面しているといえた。側近たちは態勢を建て直し、新指導者を選んで防衛を強化しなければならなかった。彼らには時間が必要だった。

彼らはすでに、マスードは負傷しただけだという話をつくり上げていた。同時にサレハはテロ対策センターに対し、指導者を突然失った北部同盟には、アルカイダ、タリバンと戦うためにCIAの助力が必要だと告げた。

これで北部同盟は終わりだ。CIA担当官の多くがそう思った。マスードの死によって、アフガニスタンでアルカイダと立ち向かうための国家安全保障戦略は中核部分が揺らいだ。五日前にブッシュ政権が閣議承認したばかりの戦略だ。マスードの偉大さに比肩できる者は一人もおらず、彼の連合軍は軍事的にも政治的にも存続できないというのがCIAの緊急分析だった。

テロ対策センターはホワイトハウスにマスードの死を伝えた。数時間のうちに、このニュースはCNNにリークされた。タジキスタンからサレハが怒って電話してきた。彼がマスードの死を伝えたのはCIAだけだった。どうしてそんなに早く漏らしてしまったのだ?

九月十日の朝、CIAはブッシュ大統領と閣僚らに対する通常の機密説明でマスードの死を報告し、アルカイダに対するアメリカの秘密戦争に及ぼす結果について分析した。ホワイトハウスではスティーブンーハドリーが、アフガニスタンとパキスタンに関する新政策の仕上げを目的とした次官級委員会の議長を務めた。六日前に閣議が承認した国家安全保障大統領指令を完成させる会議だった。ブッシュ政権が対アルカイダ新政策の取りまとめに慎重に時間をかけたことについて、ポールーウルフォウィッツは、アフガンとパキスタンについて注意深く考える必要があったと強調した。そうだとしても、五ヵ月にわたる協議と延期の末に彼らかたどり着いたのは比較的用心深い段階的な計画だった。最終的な目的に関してはクリントン政権の政策と決別したものの、直ちに実施する策では前政権と大きな違いはなかった。

ワシントンにいるマスードの顧問とロビイストは真相を知り、メディアからの電話を可能な限り避けていた。マスードは生きているというメディアの推測を長引かせようという努力だった。しかし九月十日が過ぎ行くにつれ、司令官と密接だったアフガン人の多くは電話をかけまくりながら、ドゥシャンペでもテヘランでも、ヨーロッパでもアメリカでも、彼が逝ってしまったことを知った。

ハミド・カルザイは彼の兄が連絡してきたとき、パキスタンにいた。パキスタン情報機関による彼の国外追放が三週間以内に迫っており、カルザイは悩んでいた。アフガン南部で反乱の機が熟しているとは考えていなかったが、ヨーロッパの亡命アフガン人に加わりたくはなかった。カルザイは数日前にマスードと話をしたばかりで、空路ドゥシャンベに向かい、マスードの支配地域を通ってアフガンに入ることを検討していた。そこで反タリバン派パシュトゥン人とともにドンーキホーテ的な反乱を始めることが可能だった。

カルザイの兄は、マスードの死亡が確認されたと言った。

 ハミド・カルザイは短く

 一言だけ口にしたという。

 「なんと不運な国だ」
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そのマスードとは誰だ?

『アフガン諜報戦争』より

「9.11直後にマスードを写真家・長倉さんの記事で知った。彼らの長い付き合いも」

三十歳の誕生日を迎えるまでに、マスードは世界最強の軍による攻撃を六度もかわした。

政治局とソビエト第四〇軍司令部は当初、ソ連軍が支援役を務めて、共産主義者率いるアフガニスタン軍をバックアップすることを望んだ。クレムリン当局者たちは、反乱軍など「バスマチ」(山賊)にすぎないと何度も繰り返した。「バスマチ」とは一九二七年のロシア革命後、ソ連の権威に抵抗して敗北した中央アジアのイスラム教徒反乱軍を示した言葉だ。だがアフガン軍から離脱する兵士は増えるばかりだった。大規模な徴兵によってアフガン軍の規模は水増しされたが、能力向上には結びつかず、次第にソ連軍部隊が自分たちで戦うようになった。

マスードとパンジシール反乱軍の名は標的リストの上位に記されていた。パンジシール渓谷には一五〇〇万国民のうち八万人がいるだけだが、ソ連にとってこの渓谷は死活的に重要だった。パンジシールのすぐ側に、険しい山を縫ってカブールとテルメズを結ぶサラン街道がある。テルメズはアムダリヤ川のほとり、ソ連・アフガン国境にある町だ。アフガンヘの抑えを効かせるため、ソ連にはサラン街道を維持する必要があった。ソ連とカブールを結ぶ信頼できる補給路はほかになかった。食料に制服、燃料、武器に弾薬。ソ連軍とアフガン軍に必要なすべてのものが、サランの危険で曲がりくねったアスファルト道路を通るのだ。

マスードの部隊にとっても、サランは食料と衣類、武器の源だった。ソ連軍の車列が街道に通りかかると、マスードの兵士らは山を駆け降りて集中砲火を浴びせ、車両を襲って闇の中に消えた。彼らはソ連軍から奪ったものは対戦車ミサイルでも戦車の部品でも、分解して馬の背に乗せパンジシールに持ち帰り、そこで技術者たちが組み立てて反乱軍のものとした。マスードがパンジシールからサランに連なる通路を確保していたために、ソ連軍兵士らは、ソ連軍の制服を着てソ連軍の武器を使うイスラム戦士の手にかかって死んでいった。マスードは一九八一年、訪ねてきたジャーナリストに「多数のトラックや戦車を破壊しても物資を持ち帰れなければ、攻撃は成功とは考えない」と語った。マスードはすぐに止めねばならぬ盗賊だ。ソ連はそう結論づけた。

一九八〇年春から八二年秋にかけて六回実施されたソ連軍のパンジシール攻撃で、マスードにはほとんど勝ち目がないと思われた。最初の攻撃時、マスードの手勢はI〇〇〇人ほどしかいなかった。二年後に兵員数は倍増したが、依然として軍事的には大きな差があった。侵攻のたびにソ連軍は兵力と火力を拡大した。八二年秋の攻撃にソ連は一万人の自国軍兵士と四〇〇〇人のアフガン兵、多数の戦車、攻撃ヘリ、戦闘機をカブールから送り込んだ。作戦はサラン峠の確保だけが目的ではなく、より大きな軍事的計画の一環だった。KGBの記録によれば、ソ連はアフガンを長期的に制圧するには「ソ連と国境を接する北部で決定的な勝利を収める必要がある」と決断していたのだ。

マスードは毛沢束とチエーゲバラ、またフランス革命の戦略家レジスードゥブレの著書を熟読していた。彼らの教えに従い、マスードはソ連に正面から立ち向かって食い止めようとはしなかった。彼は戦いの初期からアフガン軍内部にスパイを配置し、だいたい数日から数週間、ときには数カ月も前からソ連軍の攻撃計画を把握した。空爆が始まるときには、マスードの部隊はパンジシールから葉脈のように広がる谷の支流に消えているのが常だった。

空爆後にソ連軍とアフガン軍の地上部隊が谷に入ると、女性と子供、老人と家畜しかおらず、少なくとも最初はイスラム戦士が見当たらないのだ。マスードはソ連軍の戦車部隊を谷の中深くにおびき寄せてから攻撃命令を下した。正面から攻撃することはなく、とくに勇敢な兵士らにロケット砲を持たせて戦車部隊の先頭と最後尾を攻撃させた。そののちに岩陰や木陰に隠れていた反乱軍部隊が姿を現し、動きのとれなくなった戦車部隊に銃撃を浴びせ、谷の支流に逃げ込む。狭いパンジシールには道が一本しかなく、ソ連兵は戦車を捨てるしかなかった。破損した戦車はマスード配下の技術者が修理し、一週間ほどでイスラム戦士の武器となることもあった。

マスードはアフガン兵とソ連兵を争わせることもした。驚くほど多数のアフガン兵がソ連よりも、マスードのような反乱軍指導者に忠誠心を抱いていた。マスードはアフガン軍内部のシンパに対し、軍を離脱しないよう説得する必要に迫られることさえあった。情報源として価値が高かったからだ。パンジシールに侵攻する際、ソ連は反乱軍の奇襲に備えてアフガン軍部隊に先頭を行かせることが多かった。マスードはこれを利用するようになった。アフガン軍を先頭に立てて敵が前進してきたとの情報が見張りから入ると、マスードの部下たちは崖の巨岩を爆破してアフガン軍とソ連軍の間あたりに落とし、部隊を孤立させた。アフガン兵はほとんどの場合、戦うことなく逃亡した。イスラム戦士側には敵が携帯してきた武器がそっくり残るというわけだ。

ソ連兵には降伏という選択肢は与えられなかった。自軍の収容所にソ連兵がいない理由を尋ねられ、マスードは「イスラム戦士の多くは共産軍の攻撃で家族か家を失っており、ロシア人に対する憎しみがあまりに強い。ロシア人に出くわせば、すぐに殺してしまう」と答えた。

一九八二年に六度目のソ連軍攻撃を撃退すると、マスードの名はアフガン全土にとどろいた。
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斜陽の「帝国」

『東アジア近現代通史⑨』より アフガニスタンヘのソ連侵入

アフガニスタンヘのソ連軍投入の問題が議論され始めた一九七九年春から、侵攻後アフガニスタンにおいて戦線が拡大され始めた八○年秋までの一年半、ソ連は分裂傾向が強くダイナミックなアフガニスタンの政局変化に巻き込まれていった。PDPAの内証に困惑したソ連共産党は、七九年三月からハルク派に対して、「人民戦線」の構築を促し、九月にそのハルクさえも分裂すると、代案としてパルチャム派を選択した。そして、彼らを擁立するために軍事的アプローチ(侵攻)を採用した。「PDPAの分裂画策と専横を」繰り返すアミンさえ排除すれば、DRA政権が強化されると信じると同時に、ソ連軍の軍事的優位への自信もあった。

しかし、侵攻直後からソ連軍が解決を迫られた問題は、意外にも、再び起きたPDPAの分裂であった。今度は、大規模な暴力を伴う分裂となった。政府軍から離脱して外国軍に抵抗するハルクの反乱軍が、アフガニスタンの北東部から南東部に至る地域へ拡大し、ついには「外部の」支援を受けるムジャヒディンと結託した。アフガニスタン統合問題において、政治力に限界のあるパルチャムに委ねる以外に、初期の段階では代案がなかった。さまざまな政治勢力を取り込むようDRAに要求してきたソ連が、特定の政派に縛られたことで分裂が一層深まるというアイロニーが生じたのだった。

さらに、この一年半の間に、ソ連によるアフガニスタンに対するマクロ的で長期的な判断は見られなかった。少なくとも、ソ連指導部と「委員会」内では、タラキーとアミンに対してあれほど要求したPDPAの団結と「人民戦線」の結成が、果たして武力支援によって成し遂げられるのかという疑問の提起もなければ、アフガニスタンに潜在している亀裂の可能性や特殊な軍事的地形に関する分析も提示されなかった。結局のところ、侵攻前はダイナミックなアフガニスタンの政局変化に、そして侵攻後は、爆発的な戦線の拡大に対応せざるを得なかったソ連は、中央政府の権威への挑戦と葛藤がアフガニスタンの歴史的な特徴であることを痛感するまでに、さらなる多くの血を流さねばならなかった。勇気と自信は、成功の「経験」からも得られるが、無知と偏見からも生じる。深まりゆく赤い夕焼けに包まれていた「帝国」は、それを美しいとだけ感じていたのであり、あらゆるものを赤く見せる錯視現象を引き起こすこともあるという事実に気づかなかったのである。
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グーグルと中国

『スマート・パワー』より

政府と民間の参加者の複雑な相互作用は、アメリカ企業であるグーグルと中国政府の衝突によく示されている。二〇一〇年前半、グーグルは中国での検索サービス事業から撤退すると発表し、中国のソフト・パワーにかなりの打撃を与えた。グーグルが問題にしたのは三つの動きであり、それぞれ性格が違うものの、政治的に関連づけられた。第一は、中国政府がグーグルのソース・コードを盗もうとしたという疑惑である(知的財産権の問題である)。第二は中国人活動家のGメール・アカウントに侵入しようとしたことである(人権の問題である)。第三はこれに対応して、グーグルが中国での検索サービス事業で自主検閲を行わない決定を下したことだ(ただし、グーグルはそれまで四年にわたって、自主検閲を行ってきた)。技術的には、中国の検索サービス事業から撤退しても、第一と第二の問題は解決しない。中国にあるサーバーが攻撃されたわけではないからだ。しかしグーグルはクラウド事業でトップの座を狙っており(マイクロソフトなどと競争しており)、セキュリティと人権に関連する名声を守ることの方が、中国の検索サービス市場を獲得することより価値が高いと判断したのだろう。中国での検索サービス事業は、地元企業の百度に市場シェアで後れを取っているし、収益源としてそれほど大きくないからだ。

外国企業の知的財産を盗むことを目的とするサイバー攻撃は、中国で珍しくなかったが、二〇〇九年七月からはるかに大胆になり、いくつもの企業が高度なゼロ・デイ・アタックを受けるようになっている。中国は賭け金をつり上げているようであり、中国市場に止まりたいローテク企業なら選択の余地がほとんどないが、グーグルの場合には表現の自由を支える企業という名声がもたらすソフト・パワーを維持することが、創造的な人材を引きつけ育成するにも、セキュリティに関するGメール・ブランドのイメージを維持するにも必要であった。

この時点でアメリカ政府が関与するようになった。グーグルはこの発表についてホワイトハウスに事前に伝えていた。そのとき、クリントン国務長官がインターネットの自由についての講演を予定しており、グーグルの件を原稿に追加したことから、問題が政府間レペルに引き上げられることになった。中国政府は当初、ビジネス上の紛争にすぎないとしていたが、アメリカ政府が関与したことで、中国で事業を行うには中国の法律を遵守する必要があると指摘し、アメリカのサイバー帝国主義を非難する政治的な声明を発表した。中国政府筋は、アメリカがインターネットでの覇権を維持しようとしていると語った。同じころ、中国国内では別の見方も表明されている。グーグル中国事務所の前にある同社のロゴに市民が花束を置き、グーグルの撤退で百度が市場を独占すれば中国にとって打撃になるとの懸念もだされている。「中国企業が海外に進出するとき、国内で競合していたときほど、競争相手を理解できていないことに気づかされるだろう」という。当初、グーグルは中国サイトヘのアクセスを香港サイトに自動転送していたが、中国政府はこの方法を拒否し、事業免許を更新しないと警告した。そこでグーグルは自動転送ではなく、ユーザーが選択すれば香港サイトにつながるようにした。グーグルは中国に残ったが、中国政府は国内法を遵守させる原則を守ったことになる。

しかし、アメリカ政府はこの事例を利用して、インターネットの新しい原則を主張した。だが、アメリカがどのような行動を止めるのかについては語っていない。たとえば、アメリカ政府は民間人による中国のシステムヘの侵入を防ぐ努力をするのだろうか。相手国のコンピューター・システムヘの侵入は一方的ではなく、双方向であり、中国もアメリカも相手のシステムヘの侵入を繰り返している。「要するに、アメリカはクリントン国務長官が批判したことを大規模に行っているのだ。アメリカは中国と違って、アメリカ企業の知的財産を盗んだり、民主運動家のメール・アカウントに侵入したりはしていない。しかし、重要だと考える目的のために、同じ方法や類似した方法を積極的に使っている」。サイバー専門家を対象とする調査では、コンピューター・システムヘの侵入で最大の脅威はアメリカだとみられており、中国がわずかな差で第二位にあげられてい加。アメリカからの侵入のうち一部がアメリカ政府によるものであることは疑う余地がないが、残りは、中国など世界各地の人権とインターネットの自由を擁護しようとする民間のハッカー活動家によるものである。アメリカにはこうした活動を管理する意思と能力があるのだろうか。人権問題でその意思があるとは思えないが、中国はチペット人亡命者や法輪功のハッカーを国家安全保障に対する脅威だととらえている。
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エフェソスの図書館遺跡

社会を変える

 インフラを変えずに、体制を変えましょう。

 市場主義⇒国と来た以上は、次は市民主義です。

 こうやって、車が走り回る社会が豊かな社会なのか。

 新エネルギーのポイントは内容よりもインフラです。それだけのインフラを設置するだけの価値があるかどうか。

 なぜ、皆、エネルギーを使うほうに汲々としているのか。使わないという手はないのか。それで幸せになれるのか。使わないという方向はないのか。

 別に1979年代に戻すことではない。ネットワークが進化した、この時代の知恵を使っていく。

 インフラを新エネルギーで作るというのは、簡単にできるわけでない。中国ではないから。彼らは地図の上に線を引くだけで新幹線が作れる。全ての土地は国のものだから。

 今は論理的にできる時代です。

図書館の基礎

 「図書館と基礎と展望」という本にエフェソスの図書館遺跡の写真がありました。ここは行った所です。私ははしゃぎ回っていた。奥さんが気付くように、本を置いておきました。現地ガイドの説明で、図書館と遊郭が地下道でつながっていて、旦那は「図書館へ行く」と言って、女遊びをしていた。そこだけを奥さんは覚えていた。

 同じところに、ニューヨーク図書館、現在アレキサンドリア図書館、ウィーン公共図書館がついていました。これらには行きたいですね。

 本当に行きたいのは古代のアレキサンドリア図書館です。パピルスの本がずらっと並んでいる。その前のアゴラです。

バルト三国

 経済企画庁を「人間の鎖」で囲うと電子掲示板に出ていました。懐かしいですね。バルト三国の首都を全て、人間の手がつないだのが、1989年の独立につながった。

 そんなバルト三国をロシアは属国と思っている。エネルギー、特に天然ガスです。エネルギーは今の時代は使うことをベースとするとダメです。

 フィンランドは寒いので、一人当たりのエネルギー消耗量が大きい。だから、現在4基の原発を3基増やす計画です。ヘルシンキから見えた巨大な原発のイメージが強い。各家庭への温水を配っていると言っていた。

 12月のラップランドでエネルギーのことも聞きましょう。

エネルギーの地産地消

 ローカルでの地産地消をどう作っていくかです。CO2排出量は倍になるけど、自家発電とかハイブリッドも考慮しましょう。

 ローカルをインフラでやると支配されます。原発の設置場所に対しての国からの援助金も生きていない。ローカルをやるためには、それなりの意識と組織が必要になってくる。それがコミュニティです。

デジタルライブラリ

 本をデジタル化する意味は、加工しやすくして、新しいものを創り出す。公共のデジタル図書館は本を増幅する機能を持たないといけない。やはり、図書館クラウドと生涯学習をつなげていくことです。

 図書館から原爆はできるのは当たり前です。マルクスの資本論も大英図書館から生まれました。知識さえあれば、情報させあればできてしまう。提案も同じです。

自然エネルギーのグリーンな職業

 風力発電のメンテナンスは命がけです。一機当たり、二日間掛かると、NHKのドキュメントで紹介されていた。これもグリーンなのでしょうかね。

石油がなくなるというパニック

 日本が石油のために、太平洋戦争で300万人殺しました。石油欠乏で、ジリ貧を避けて、勝負に出て、ドン尻になりました。そこでの、エネルギーは民生ではなく、軍事用です。戦艦を動かすためです。

 アジアの植民地を解放して、そこから公平な貿易をする道が大東亜の考えです。道は一つではなくて、知恵を使えば、いくらでもあります。

塾の中間報告

 私のパワーポイントは循環が基本です。絵で適当に表すのは難しい。ロジックで追っかけていきます。その代わり、かなり、詳細まで書き込んで置きます。どう使うかは自由です。

 社会の簡易版も書きましょう。ベースになるのは中分類です。

 今回の資料には、参考資料もインスピレーションで渡します。インスピレーションのソフトごと渡したいけど、それはムリでしょう。
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