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『ヨーロッパの100年 下』230.7マツからの抜粋

未唯へ。今日も午後から、『ヨーロッパの100年 下』のOCRを行っていた。ちょっと暑かったので、エアコンは入れました。先週以来、暑さが恐い。いつ、熱が出るか予測がつきません。奥さんからクレームがついても、今年の夏はエアコン頼りにします。

スターリングラード

 その日曜はソ連兵たちにとっても歴史的な日となった。これから生死を賭けた戦いをおこなわねばならないことを彼らは自覚していた。パウルスの軍隊がこれほど速くヴォルガ川に到達するとは思ってもいなかった。

 スターリングラードはドイツ軍にとって、知らぬ間に巨大な囮と化していた。ソ連軍の最も重要な任務は街の防御、そしてドイツ軍が先に進むことがないようにここで押さえておくことだった。その間にも街を敵から解放するために、ほぽ百万人の兵士が極秘に召集されていた。

イスタンブール

 古来よりコンスタンティノープルは東と西の蝶つがいであり、ローマ帝国の最後の砦、ロンドンから北京までの間で最も豊かな大都市、中国のシルクロードの終着点、前方に押し出されたヨーロッパの灯台だった。

 すべての街は物語を語る。イスタンブールの物語はなによりも重心の移動と傷つきやすさに関するものだ。たとえこの大都市が外国からはどう見られているとしても、滅びた栄光、忘れられた絆、失われた寛容のシンボルにすぎない。

ケファロニア

 ギリシア人にとっての第二次世界大戦は、一九四〇年十月二十八日、イタリア軍がアルバニア経由で侵攻しようとしたときにはじまった。ムッソリーニは、ヒトラーばかりが西欧で成功していることに対する苛立ちを徐々に深めていた。

 空から見るとギリシアは大部分が海だ。小さな青い畝のところどころに虫食いのように島がある。黄灰色の土に何本かの刻み目や線があり、交差点と海岸には掃き集められたように白い家々のブロックがある。

ドレスデン

 ドイツ空軍による爆撃で、イギリスでは合計約六万人の市民が亡くなった。それに加えて九万人の重傷者、十五万人の軽傷者が出た。連合軍側によるドイツヘの爆撃では、その五倍のおよそ三十万人の人々が亡くなり(うち児童が七万五千人)、ほぼ八十万人の人々が重傷を負ったと推定される。五分の一の住居が破壊され、七百万人のドイツ人がホームレスとなった。

ブダペスト

 ブダベストはワイルドで気ままでだらしなく、でこぼこに凹みけたたましくクラクションを鳴らす車だらけの街だった。

 ハンガリー動乱はブダベスト工科大学の中央ホールではじまった。一九五五年以降、次第にオープンになりつつあったこのホールであらゆる政治問題が討論されてきた。

 モスクワではその瞬間、ハンガリーを手放そうという意向が強かったことをいまのわれわれは知っている。最大の不安は動乱がブカレスト、プラハ、ペルリンにも広がることだった。

グダニスク

 一つだけ勝者と呼べるグループがあるかもしれません。若者たちです。彼らはヨーロッパを支持しており、何ケ国語も話せます。旅行もするし、世界に向かって開いています。彼らには大きなチャンスがあります。でも、人生の大部分を共産主義下で暮らしてきた世代にとっては、常に希望だけが存在していました。でもその希望はけっして現実にはならなかったのです」

サラエヴォ

 われわれは第四次ユーゴスラビア戦争の余波を生きている。ホテルのテレビはもう何日も、マケドニアの山中の国境手前で援助物資を積んで待機している輸送隊の長蛇の列の映像を流していた。

 エサードが数字を挙げた。四十万人のサラエヴォ市民のうち、包囲の間に千百人以上の児童を含む一万一千人が死亡したという。
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