未唯への手紙
未唯への手紙
『ヨーロッパの100年 上』230.7マツからの抜粋
未唯へ。歴史を「物語」として、感じて、書かれている本を借りてきました。「ヨーロッパの100年」ということだから、歴史を書いているのだけど、分類が都市の名前になっています。都市を「物語」で話し込んでいく書き方はかなり、新しいです。こんな本を携えて、ヨーロッパの都市を回りたいものです。
ヘルシンキ
スウェーデンとフィンランドは二つの分離した世界だ。レーニンは列車で迂回した。わたしはシリヤセレナーデ号で旅をした。
彼はフィンランドの市民戦争の話をした。〈赤い〉農民および労働者と〈白い〉保守派の間に一九一八年に繰り広げられた流血の闘いだ。〈白〉が勝ち、無数の〈赤〉が殺された。ソ連が一九三九年に侵攻してきた際、ようやくフィンランド人はふたたび結束した。
一九三九年から四〇年にかけての冬の戦争で、白い軍服を着てソ連軍に果敢に立ち向った人たちなのだ。彼らはあのとき、赤軍がいかに無能かということを無慈悲に立証したのだ。何百万人からなる軍隊をもってしても、ソ連軍は二十万人のフィンランド軍を制圧することができなかった。ヒトラーはフィンランドにおける赤軍の不甲斐なさを見て、ドイツ軍を楽観的に東部戦線に送るという致命的なまちがいを犯すことになる。
リガ
わたしはヴィリニュス【リトアニアの首都】で降りた。あちこちに突如ドイツの家、アメリカの広告、イタリアのカフェ、スウェーデンのホテルが姿を現わす。まるでこの街が目に見えないガラスのドームで、冬から隔てられているかのように。
このように左派と右派の大量殺戮が周期的に何十年間も繰り返された。
ラトヴィアはいつもロシアとの関係が最も悪く、リトアニアは最も良好だった。
西欧には、ロシアの地図上の〈小さなシミ〉の心配をする国はなかった。
ソ連およびドイツの占領下に、ラトヴィアは五十五万人の命を失いました。人口の三分の一以上です。
ホロコーストを生き残った人の比率はヨーロッパ全土でラトヴィアが最も低く、一・九パーセントだ。
ビーレフェルト
ほとんど誰も口にしない疑問がある。フランクフルトでもケルンでも、なぜあれほど早く人々のメンタリティーが急変したのだろう? 少し前には抗議デモでともに歩いた何十万人もの共産主義者、社会主義者、キリスト教徒、あるいは一九三三年三月五日の選挙でナチスに投票しなかった五六・一パーセントの人たちはいったいどこに行ってしまったのだろうか?。
一つは、一九三三年に六百万人いた失業者が一九三七年には全員再就職していたという事実。そしてもう一つは、ドイツがふたたび重要な大国と見なされるようになっていたことだ。
ダンケルク
ダンケルクの海岸はヨーロッパの歴史がどちらに転ぶかわからない場所の一つだった。小さなこと、一人の人間の査定ミスが歴史の経過を変えたのだ。いったいなぜヒトラーはまさしく敵にとどめの一撃を刺せる瞬間に、部隊の前進を止めたのか? われわれはあの停止命令をどう理解すればいいのか?。
モスクワ
スターリンは完全に不意を突かれた。ドイツにバルト諸国やその他の交換条件を出して、新たな平和条約を結ぼうとした。そして、西部の赤軍の重要な司令官四人を「ソ連に対する軍事的陰謀」を理由に処刑した。二週間後にようやく、彼はみずからソ連国民にむけて演説をおこなった。彼にはドイツ軍の奇襲は信じられないことだった。
スターリンは誰のことも疑っていた。唯一、彼が信頼していたのはヒトラーだった。
スターリンには「日本はどうするのか?」という疑問しかなかった。彼にとって、すべては極東での状況次第だった。
ヘルシンキ
スウェーデンとフィンランドは二つの分離した世界だ。レーニンは列車で迂回した。わたしはシリヤセレナーデ号で旅をした。
彼はフィンランドの市民戦争の話をした。〈赤い〉農民および労働者と〈白い〉保守派の間に一九一八年に繰り広げられた流血の闘いだ。〈白〉が勝ち、無数の〈赤〉が殺された。ソ連が一九三九年に侵攻してきた際、ようやくフィンランド人はふたたび結束した。
一九三九年から四〇年にかけての冬の戦争で、白い軍服を着てソ連軍に果敢に立ち向った人たちなのだ。彼らはあのとき、赤軍がいかに無能かということを無慈悲に立証したのだ。何百万人からなる軍隊をもってしても、ソ連軍は二十万人のフィンランド軍を制圧することができなかった。ヒトラーはフィンランドにおける赤軍の不甲斐なさを見て、ドイツ軍を楽観的に東部戦線に送るという致命的なまちがいを犯すことになる。
リガ
わたしはヴィリニュス【リトアニアの首都】で降りた。あちこちに突如ドイツの家、アメリカの広告、イタリアのカフェ、スウェーデンのホテルが姿を現わす。まるでこの街が目に見えないガラスのドームで、冬から隔てられているかのように。
このように左派と右派の大量殺戮が周期的に何十年間も繰り返された。
ラトヴィアはいつもロシアとの関係が最も悪く、リトアニアは最も良好だった。
西欧には、ロシアの地図上の〈小さなシミ〉の心配をする国はなかった。
ソ連およびドイツの占領下に、ラトヴィアは五十五万人の命を失いました。人口の三分の一以上です。
ホロコーストを生き残った人の比率はヨーロッパ全土でラトヴィアが最も低く、一・九パーセントだ。
ビーレフェルト
ほとんど誰も口にしない疑問がある。フランクフルトでもケルンでも、なぜあれほど早く人々のメンタリティーが急変したのだろう? 少し前には抗議デモでともに歩いた何十万人もの共産主義者、社会主義者、キリスト教徒、あるいは一九三三年三月五日の選挙でナチスに投票しなかった五六・一パーセントの人たちはいったいどこに行ってしまったのだろうか?。
一つは、一九三三年に六百万人いた失業者が一九三七年には全員再就職していたという事実。そしてもう一つは、ドイツがふたたび重要な大国と見なされるようになっていたことだ。
ダンケルク
ダンケルクの海岸はヨーロッパの歴史がどちらに転ぶかわからない場所の一つだった。小さなこと、一人の人間の査定ミスが歴史の経過を変えたのだ。いったいなぜヒトラーはまさしく敵にとどめの一撃を刺せる瞬間に、部隊の前進を止めたのか? われわれはあの停止命令をどう理解すればいいのか?。
モスクワ
スターリンは完全に不意を突かれた。ドイツにバルト諸国やその他の交換条件を出して、新たな平和条約を結ぼうとした。そして、西部の赤軍の重要な司令官四人を「ソ連に対する軍事的陰謀」を理由に処刑した。二週間後にようやく、彼はみずからソ連国民にむけて演説をおこなった。彼にはドイツ軍の奇襲は信じられないことだった。
スターリンは誰のことも疑っていた。唯一、彼が信頼していたのはヒトラーだった。
スターリンには「日本はどうするのか?」という疑問しかなかった。彼にとって、すべては極東での状況次第だった。
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