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池田昌子(あきこ)さんと話したかった

未唯へ。「14歳からの哲学」の池田晶子さんの『暮らしの哲学』104イケがやっと図書館から回ってきました。内容は「サンデー毎日」2006年4月16日号から2007年3月4日号のエッセイをまとめたものです。「春」「夏」「秋」「冬」までは10編で、その次の「春」は1編で終わっています。

その理由は進行性のガンで亡くなったからです。47歳です。本には単に、「2007年2月23日。没」でだけ書いてあります。最後の編もふつうに書いています。最後まで、哲学者で通しています。そのなかで、私と共通なところがかなりあります。今日と明日にかけて記載します。

『「たまたま」のこの人生』⇒私も偶然は絶対だと思います
 「「たまたま」というのが、こういう考え方をする場合のミソでありまして、実際、なぜ自分はここに生まれて、あそこに生まれなかったということは、考えても、理由がない。理由が見つからない。ということは偶然である。したがって絶対である。絶対的ゆえに相対的。逆も真」
 「考えにおける極端が、暮らしにおける中庸として現われるなら、おそらくそれは間違っていない。すべてを相対化する絶対的な視点から、「たまたま」こういう時代である、「たまたま」私の人生である、とこう気がつくと、人はすごく広い所へ出られます。これはなかなかイイ感じ、たいそう自由な感じです」

『自分であり自分でない体』⇒体より精神が先
 「私はもともと体すなわち肉体という存在に、実在感を覚えにくい。何にリアリティを覚えるかというと、肉体ではなくて精神、それも正確には精神における「思考」、これに私は強烈なリアリティを覚えるわけです。「変わっている」と言われるのは、まさにこの部分だと理解してもいる」
 「体は自分が作ったものではないということだ。誰が作ったのかと言えば、言うまでもなく「自然」です」

『好き嫌いとの付き合い方』⇒好き嫌いでいいのです
 「好きなものは、どうしても好きで、嫌いなものは、どうしても嫌いだ。これはどうしようもない。だって、気がついたら、そうとしか感じられない自分であったのだから。好みは個人のものではない。個人なんてものをはるかに超えて、宇宙へ通じる深い謎です。宇宙生成の動因とも言うべき、不可知の力なのですよ」

こういうことが、言い切れる貴女がすばらしい。会って話がしたかった。
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