ガラシャ夫人の生害の様子を知る資料としては、一級(二級?)資料として「霜女覚書」がある。
私はアカデミックな観点からは採用されない、「小須賀覚書」や「関原集」などの記述に共感を覚える。
小須賀覚書
越中守殿奥方之法度世上ニ無之堅き仕置ニ而地震の間と申候て八畳敷に座敷を拵四方之かべニ鉄砲之薬を紙袋に入懸ならへ置候而何時も大地震あり候ハゝ
御内儀右之座敷へ御入候て焼御果候筈ニ不断之仕置ニ而候由。
関原集
大坂玉造ニ越中守屋敷有、奥方の仕置ニ地震の間と名付、八畳敷を拵、四方のかべに鉄炮の薬を紙袋に入かけ置、何時も大地震或火事ニ而も外へハ不出、
地震間へ奥方御入候而火を付、焼死る佐(作)法に相定置・・・
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これらの記述を補強するようなこんな資料がある。
1、常山紀談拾遺・巻四 細川家鉄炮口薬入の事
細川家は、足軽の鉄炮口薬入革にて、鼻紙袋のごとく縫用ふ
事の急なるときに至て、指を以捻入に利有といへり
1、綿考輯録・第二巻 忠興公(上)p126
豊臣秀次反逆の由にて生害(文禄四年七月十五日) この事件に連座の疑いをもって、「石田・長束・増田・前田徳善院など
相談にて忠興君へ切腹いたさすへき由書簡調由也」、このことを知り忠興は「切腹と仰出時の御用心に毎日行水、白き御肌
着を御着被成候」と覚悟の程が伺える。その折の
此時米田助右衛門を聚楽の御屋敷江被遣、伏見より一左右次第ニ上様御子様御生害させ申、御屋形に火を懸、
切腹可仕と議定にて死期を待有之候・・・・・
1、小笠原(少齋)家文書
残念ながら手元に其の詳細な資料を見つけ出せないで居るが・・・・・大意次のようにある。
ご生害のお部屋の鴨居に火薬を撒きいれ・・云々
ガラシャ夫人の生害はこのような事態に至った場合には、細川家の法(決まりごと)として決められたことによる。
其の場所は地震の間であり、火薬の遣い方など具体的であり真実味がある。
俗な資料もなかなか説得力があるではないか・・・・・・・
この系図は、細川家家臣松野右京の家来である臼杵内蔵助が転切支丹であったため、縁戚一族が系図に残されているものである。
ここに出てくる財津休睡とあるのは、200石財津民助家である。その他については良くわからない。正作とあるのは四代目らしい。休睡とは三代目甚右衛門であろうか。陪臣である臼杵氏から養子として直臣である財津家に入ったということか。先祖附を調べなければ成らない。