津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

田中意徳なる人物

2012-09-24 13:51:08 | 歴史
大坂城の落城の有様を記した史料に、「お菊物語」がある。これによるとお菊殿は、備前岡山藩の医師田中意徳の祖母だとされる。
一方同名の人物が細川家にもあり、この人物は忠利公幼少時の学友であり、公の死去に当っては殉死をしている。
同一人物としてご紹介してきたが、いささかの疑問も感じていたところだが、今般大坂陣に参加した方々を調べておられる、埼玉在住のTYさまから詳しいご報告を頂戴した。
お許しを得てここにご紹介する。貴重なご指摘であり、別人の可能性が高い。わが侍帳ほか手直しの必要があるように感じている。 

                お 菊 物 語   http://www.enkoji.jp/okiku/index.html
                同上・読み下し  http://www.j-texts.com/kinsei/okiku.html

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大坂城士調査の一環で、あらためて手元資料により、「おきく物語」における菊の孫田中意が誰か考えてみましたので、以下に報告いたします。
  
(1)備前池田家臣田中意

①「岡山藩家中諸士家譜五音寄」岡山大学文学部研究叢書:寛文9年田中意38歳書上 
②「吉備温故秘録」:貞享2年田中意54歳書上
③「先祖書上并御奉公之品書上」池田家文庫:明治3年田中意氣揚書上

それぞれ作成時期は異なりますが、何れも田中家から提出されたものです。
これらを総合しますと、歴代以下の事績がうがえます。

■近江佐々木高嶋の末裔にて近江国田中村に住居し、田中氏を称す。
以後三代田中七右衞門眞は、佐々木義賢に仕え、
主家滅亡後は姓名を隠し近江国内に住居す。

■眞の子田中伊右衞門〔又は猪右衞門〕忠は、織田信長に仕え、
安土在郷方の御役を勤め、千二百石を知行す。
主家滅亡後は山城国八幡田中に住居し、地士となり剃髪して休味と号す。

■忠の子田中伊右衞門〔又は猪右衞門〕は、八幡田中に生る。
24,5歳の時京都に出で、浪人にて弓稽古す。
聚楽の大的で織田有樂家臣と喧嘩に及び宜しき働あり。
南蛮の修道士に金瘡外科の教授を乞い、耶蘇教入信を条件に秘法を伝授さる。
剃髪して「意」と号す。
川家康の代、切支丹穿鑿により、相伝の南蛮の巻物・外科金瘡の道具を
奉行所に提出し、棄教す。この事は上聞に達し、日本の重宝として巻物・道具は
公儀より差下され、以後公式に医業を務む。
二条城にて川家康の指の痛に対して投薬し、早々平癒につき嘉賞せらる。
禁裏へも度々参内し、法橋に叙せらる。
皇族への療治・本復の功により法眼に叙せらる。
死去の前年京都所司代牧野親成に願出で、
弟の子を養子として南蛮一流金瘡外科の家を継がしめ、
意の名を譲り、自らは常安〔又は常庵〕と号す。
万治元年(1658年)病死。


■二代目田中意は、寛永9年(1632年)京都に生る。
先代田中意の甥。或は常悦と号す。
寛文6年8月22日池田光政に召出され、250石を賜る。
貞享3年(1686年)病死。


■三代目田中意は、初め意心と号す。
跡目の内150石を継ぎ、意を号す。
正徳元年(1711年)に100石を加増せられ、都合250石を知行す。
元文2年(1737年)病死す。

■四代目田中意は、跡目250石を継ぐ。
宝暦5年(1755年)病死す。

其子田中意迪は寛政元年に仔細有て泉州堺に退去し、嫡流家は廃絶。


(2)おきく物語における田中意

「菊」の家系

●祖父山口茂助は浅井長政家臣

●父山口茂左衞門は大坂陣にて行方不知

●菊は大坂落城の時(1615年)20歳。備前にて83歳で死去。
※慶長元年(1596年)誕生、延宝6年(1678年)死去に相当します。

●弟甚左衞門後号意朴(在安芸・医師)

●孫池田家醫田中意


(3)菊の孫田中意とは誰か

◆まず初代田中意(常安)は、その事績が菊とほぼ同年代なので対象外とします。

◆二代目田中意(常悦)とすると、菊37歳の時に生誕の孫となってしまい年代的な無理が否めません。

◆三代目田中意(意心)の生年は不明であるが、
家督相続の際に250石の内150石のみを継ぎ、後に100石加増されていることから、
家督相続時点ではまだ若く、修養熟達の後に旧の家禄250石に復した可能性もあるのではないでしょうか。

菊が田中意の父系の祖母ではなく、外祖母(母方の祖母)である可能性も
完全に否定はできないのですが、私の手元にある資料の範囲で考える限り、年代的には 
菊の孫田中意は、三代目田中意(意心)と推定するのが適当かと思われます。

なお、肥後細川家臣田中意は寛永18年(1641年)に63歳で殉死しているので、
生年は、菊より早い天正7年(1579年)になります。

また、備前の田中氏と同じ上方の出身ではあるものの、
細川忠利学問の介抱の履歴と算術に長じていることを重宝がられての召出しであり、
医術への関与は全くうかがわれません。
そもそも備前と肥後それぞれの家筋に関連性を示す記載も双方見当たりません。

私はこれらの点から、細川家臣田中意と、池田家臣田中意とは
偶然名前が同じだけの全くの別人であり、家系の関係性も無いものと考えているのですが、いかがでしょうか?
コメント (2)
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初期の御花畑邸

2012-09-24 08:37:17 | 歴史

寛永九年の末熊本に入国した忠利は、熊本城内に住居したとされる。

            御本丸所々御繕無之候而ハ御住居難被成候ニ付、翌十年二月十九日御花畑ニ御移被成、同年九月御参勤※

そんな中、江戸から熊本城内に「地震の間」の建設を則し、書状を発している。また大久保・川口氏にもその旨を記している。

 

                      ・熊本城本丸家多候故矢蔵ニ無構中の家をのけ我々不下前ニ
                       地震屋を一ツ立候へと申付候家之儀ニ候得とも爰元御年寄衆
                       へ其段御物語申候留守之普請候間其元御両人も何事かと思
                       召候ハん間此由をも申入候其心得可仕候事
                       ( 杉山藤兵衛宛の書状 熊本縣史料・近世編第一巻)

 

                      ・熊本本丸家多候間 矢倉ニハ無構 中之家をこわし 不罷下以前
                       ニ地震屋を壹ツ立候へと申遣候 家之儀ニて候へとも 御年寄衆
                       へも御物語仕候 留守之普請ニ候間 何事かと思召候ハんと申
                       入事候
                               寛永十一年二月廿三日
                       (忠利から大久保助左衛門・川口茂右衛門に宛てた書状 2400 ) 
 

 

            ※十一年八月御下國、十五日御城御移徏被成候、然処御不自由ニ御座候故、一両年いたし候而又花畑ニ御引移被成候

その年月は不分明としているが、綿考輯録の編者・小野武次郎は塩山源内の家記から「寛永十三年六月江戸より御くたり被成候上、秋冬之間ニ御花畑ニ御引移、其後は御城御住居ハ不被遊候か」としている。(十二年一月十六日参勤初駕、十三年六月九日帰国)

            御花畑の御館も加藤氏の時より有之候、佐野の御間より御広間・御次・御台所等ハ先代作事也、すへて竹たる木(垂木)の
            所ハ先代のまゝにて候よし、竹の御間ハ忠利君被仰付候御居間也、鹿の御間ハ光尚君御家督之御祝儀ニ、三齋君を御饗
            応被成候為に被仰付候 
忠利君ハ中柱を常の御居間に被成候て、長いろりにて御料理等被仰付候、夫故ニ中柱の北の方
            竹縁、前々ハ広く有之、其御時代ハ御家老并人持・御物頭以下迄も、心次第朝昼晩共に御広間に罷出居申たる由、忠利君
            ハ毎朝御楊枝なと御くわへ、其まゝニ而御広間へ御出被成候而、罷出居候面々の内、何某々々今朝御相伴仕候へなと被
            仰付候由、或時ハ朝の内田畑へ御出、御鷹御つかひ被成候ヘハ、追付戻る程に待て居候へ、鴨を料理して可振廻なと御
            意にて、御帰之上右之通中柱の御間にて御相伴被仰付、日々大方右之通にて、何もゆる/\と御噺被成候由也、惣而其
            御時代ハ手軽キ御事にて、御花畑の表御玄関板敷ハなく箱段はかりにて、其下ハ竹簀を敷きて有之候、忠利君・光尚君・
            綱利君始め迄ハ右之通にて候か、其後板敷被仰付候由、右同御家老間なと申も無之、御家老ハ御弓の間に居被申、御小
            姓頭・御側物頭なとハ御鑓の間ニ居、御小姓頭の部屋なと云も無之、同物書とてもなく、日記等ハ銘々ニ付置、此日帳爾今
            残り有之候、右之通之事故、 忠利君御時代之委敷記たるもの無之、御礼之次第帳等ハ寛永十三年以来之御帳にて有之
            候由候
                                                          (綿考輯録・忠利公 上 p320) 

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