津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

綿考輯録から「田中意徳」

2012-09-25 08:28:57 | 地図散歩

忠利公に殉じた田中意徳については、綿考輯録は特にページを割いている。先にご紹介した 田中意徳なる人物 をご理解いただくために全文をご紹介する。
タイピングしかかったが長文であるためスキャンすることにした。読みにくい点はご容赦願いたい。
細川家家臣田中威徳と、お菊物語のお菊殿を祖母とする池田家医師・田中意徳とは、まさに別人であるとの確信を深めさせる。 

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江戸名所図屏風―大江戸劇場の幕が開く

2012-09-25 08:24:59 | 書籍・読書
      江戸名所図屏風―大江戸劇場の幕が開く (アートセレクション)
 
                                小学館

わが本棚に江戸と冠する本が十数冊ある。(小説などは別) そして、250年に及ぶ江戸の歴史のどの部分かをちゃんと理解していないまま、まったくあやふやな状態でページをめくっている。嘉永の切絵図などを見て、辰の口に在ったという加賀前田家の場所を探すというような馬鹿なことをやっている。草創期の江戸を知るうえでは面白そうな本のようだ。

 

書籍の内容

草創期の江戸のにぎわいを描く一大パノラマ、濃密な民衆の生き様が展開

我々は、「江戸」というイメージを、どのような形で掴んでいるだろうか。江戸といえば、歌舞伎や浮世絵をすぐさま脳裏に浮かべる人が多い。だが、現在実際に目にする歌舞伎や浮世絵は、江戸時代後期以降の形態をとらえているにすぎない。つまり、250年におよぶ江戸時代のうち、18世紀以降の終わりの部分のみが、江戸のイメージ・ソースなのだ。  では、もっと古い江戸の姿、家康が開府したころの江戸の様子を探ることはできないのだろうか。そこで都市建設途上で、荒々しく活気ある江戸市街が町人たちの生活風俗とともに描かれている『江戸名所図屏風』がその手掛かりとなる。江戸庶民のエネルギッシュな描写、草創期の江戸のにぎわいを鑑賞しつつ、楽しく散策していく本。

    

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田中意徳なる人物

2012-09-24 13:51:08 | 歴史
大坂城の落城の有様を記した史料に、「お菊物語」がある。これによるとお菊殿は、備前岡山藩の医師田中意徳の祖母だとされる。
一方同名の人物が細川家にもあり、この人物は忠利公幼少時の学友であり、公の死去に当っては殉死をしている。
同一人物としてご紹介してきたが、いささかの疑問も感じていたところだが、今般大坂陣に参加した方々を調べておられる、埼玉在住のTYさまから詳しいご報告を頂戴した。
お許しを得てここにご紹介する。貴重なご指摘であり、別人の可能性が高い。わが侍帳ほか手直しの必要があるように感じている。 

                お 菊 物 語   http://www.enkoji.jp/okiku/index.html
                同上・読み下し  http://www.j-texts.com/kinsei/okiku.html

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大坂城士調査の一環で、あらためて手元資料により、「おきく物語」における菊の孫田中意が誰か考えてみましたので、以下に報告いたします。
  
(1)備前池田家臣田中意

①「岡山藩家中諸士家譜五音寄」岡山大学文学部研究叢書:寛文9年田中意38歳書上 
②「吉備温故秘録」:貞享2年田中意54歳書上
③「先祖書上并御奉公之品書上」池田家文庫:明治3年田中意氣揚書上

それぞれ作成時期は異なりますが、何れも田中家から提出されたものです。
これらを総合しますと、歴代以下の事績がうがえます。

■近江佐々木高嶋の末裔にて近江国田中村に住居し、田中氏を称す。
以後三代田中七右衞門眞は、佐々木義賢に仕え、
主家滅亡後は姓名を隠し近江国内に住居す。

■眞の子田中伊右衞門〔又は猪右衞門〕忠は、織田信長に仕え、
安土在郷方の御役を勤め、千二百石を知行す。
主家滅亡後は山城国八幡田中に住居し、地士となり剃髪して休味と号す。

■忠の子田中伊右衞門〔又は猪右衞門〕は、八幡田中に生る。
24,5歳の時京都に出で、浪人にて弓稽古す。
聚楽の大的で織田有樂家臣と喧嘩に及び宜しき働あり。
南蛮の修道士に金瘡外科の教授を乞い、耶蘇教入信を条件に秘法を伝授さる。
剃髪して「意」と号す。
川家康の代、切支丹穿鑿により、相伝の南蛮の巻物・外科金瘡の道具を
奉行所に提出し、棄教す。この事は上聞に達し、日本の重宝として巻物・道具は
公儀より差下され、以後公式に医業を務む。
二条城にて川家康の指の痛に対して投薬し、早々平癒につき嘉賞せらる。
禁裏へも度々参内し、法橋に叙せらる。
皇族への療治・本復の功により法眼に叙せらる。
死去の前年京都所司代牧野親成に願出で、
弟の子を養子として南蛮一流金瘡外科の家を継がしめ、
意の名を譲り、自らは常安〔又は常庵〕と号す。
万治元年(1658年)病死。


■二代目田中意は、寛永9年(1632年)京都に生る。
先代田中意の甥。或は常悦と号す。
寛文6年8月22日池田光政に召出され、250石を賜る。
貞享3年(1686年)病死。


■三代目田中意は、初め意心と号す。
跡目の内150石を継ぎ、意を号す。
正徳元年(1711年)に100石を加増せられ、都合250石を知行す。
元文2年(1737年)病死す。

■四代目田中意は、跡目250石を継ぐ。
宝暦5年(1755年)病死す。

其子田中意迪は寛政元年に仔細有て泉州堺に退去し、嫡流家は廃絶。


(2)おきく物語における田中意

「菊」の家系

●祖父山口茂助は浅井長政家臣

●父山口茂左衞門は大坂陣にて行方不知

●菊は大坂落城の時(1615年)20歳。備前にて83歳で死去。
※慶長元年(1596年)誕生、延宝6年(1678年)死去に相当します。

●弟甚左衞門後号意朴(在安芸・医師)

●孫池田家醫田中意


(3)菊の孫田中意とは誰か

◆まず初代田中意(常安)は、その事績が菊とほぼ同年代なので対象外とします。

◆二代目田中意(常悦)とすると、菊37歳の時に生誕の孫となってしまい年代的な無理が否めません。

◆三代目田中意(意心)の生年は不明であるが、
家督相続の際に250石の内150石のみを継ぎ、後に100石加増されていることから、
家督相続時点ではまだ若く、修養熟達の後に旧の家禄250石に復した可能性もあるのではないでしょうか。

菊が田中意の父系の祖母ではなく、外祖母(母方の祖母)である可能性も
完全に否定はできないのですが、私の手元にある資料の範囲で考える限り、年代的には 
菊の孫田中意は、三代目田中意(意心)と推定するのが適当かと思われます。

なお、肥後細川家臣田中意は寛永18年(1641年)に63歳で殉死しているので、
生年は、菊より早い天正7年(1579年)になります。

また、備前の田中氏と同じ上方の出身ではあるものの、
細川忠利学問の介抱の履歴と算術に長じていることを重宝がられての召出しであり、
医術への関与は全くうかがわれません。
そもそも備前と肥後それぞれの家筋に関連性を示す記載も双方見当たりません。

私はこれらの点から、細川家臣田中意と、池田家臣田中意とは
偶然名前が同じだけの全くの別人であり、家系の関係性も無いものと考えているのですが、いかがでしょうか?
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初期の御花畑邸

2012-09-24 08:37:17 | 歴史

寛永九年の末熊本に入国した忠利は、熊本城内に住居したとされる。

            御本丸所々御繕無之候而ハ御住居難被成候ニ付、翌十年二月十九日御花畑ニ御移被成、同年九月御参勤※

そんな中、江戸から熊本城内に「地震の間」の建設を則し、書状を発している。また大久保・川口氏にもその旨を記している。

 

                      ・熊本城本丸家多候故矢蔵ニ無構中の家をのけ我々不下前ニ
                       地震屋を一ツ立候へと申付候家之儀ニ候得とも爰元御年寄衆
                       へ其段御物語申候留守之普請候間其元御両人も何事かと思
                       召候ハん間此由をも申入候其心得可仕候事
                       ( 杉山藤兵衛宛の書状 熊本縣史料・近世編第一巻)

 

                      ・熊本本丸家多候間 矢倉ニハ無構 中之家をこわし 不罷下以前
                       ニ地震屋を壹ツ立候へと申遣候 家之儀ニて候へとも 御年寄衆
                       へも御物語仕候 留守之普請ニ候間 何事かと思召候ハんと申
                       入事候
                               寛永十一年二月廿三日
                       (忠利から大久保助左衛門・川口茂右衛門に宛てた書状 2400 ) 
 

 

            ※十一年八月御下國、十五日御城御移徏被成候、然処御不自由ニ御座候故、一両年いたし候而又花畑ニ御引移被成候

その年月は不分明としているが、綿考輯録の編者・小野武次郎は塩山源内の家記から「寛永十三年六月江戸より御くたり被成候上、秋冬之間ニ御花畑ニ御引移、其後は御城御住居ハ不被遊候か」としている。(十二年一月十六日参勤初駕、十三年六月九日帰国)

            御花畑の御館も加藤氏の時より有之候、佐野の御間より御広間・御次・御台所等ハ先代作事也、すへて竹たる木(垂木)の
            所ハ先代のまゝにて候よし、竹の御間ハ忠利君被仰付候御居間也、鹿の御間ハ光尚君御家督之御祝儀ニ、三齋君を御饗
            応被成候為に被仰付候 
忠利君ハ中柱を常の御居間に被成候て、長いろりにて御料理等被仰付候、夫故ニ中柱の北の方
            竹縁、前々ハ広く有之、其御時代ハ御家老并人持・御物頭以下迄も、心次第朝昼晩共に御広間に罷出居申たる由、忠利君
            ハ毎朝御楊枝なと御くわへ、其まゝニ而御広間へ御出被成候而、罷出居候面々の内、何某々々今朝御相伴仕候へなと被
            仰付候由、或時ハ朝の内田畑へ御出、御鷹御つかひ被成候ヘハ、追付戻る程に待て居候へ、鴨を料理して可振廻なと御
            意にて、御帰之上右之通中柱の御間にて御相伴被仰付、日々大方右之通にて、何もゆる/\と御噺被成候由也、惣而其
            御時代ハ手軽キ御事にて、御花畑の表御玄関板敷ハなく箱段はかりにて、其下ハ竹簀を敷きて有之候、忠利君・光尚君・
            綱利君始め迄ハ右之通にて候か、其後板敷被仰付候由、右同御家老間なと申も無之、御家老ハ御弓の間に居被申、御小
            姓頭・御側物頭なとハ御鑓の間ニ居、御小姓頭の部屋なと云も無之、同物書とてもなく、日記等ハ銘々ニ付置、此日帳爾今
            残り有之候、右之通之事故、 忠利君御時代之委敷記たるもの無之、御礼之次第帳等ハ寛永十三年以来之御帳にて有之
            候由候
                                                          (綿考輯録・忠利公 上 p320) 

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三宅新兵衛家

2012-09-23 11:46:50 | 歴史

 綿考輯録(巻60-P242)に寛永拾九年十二月九日「三宅藤右衛門・新兵衛・左京ニ御合力米被下候留書」がある。
                覚
            一、米九拾石     三宅藤右衛門
            一、同三拾六石     三宅新兵衛
            一、同拾八石     三宅左京
               右之合力米毎年可相渡者也
                 寛永拾九年十二月九日   御印
                            奉行中
           考ニ、三宅藤右衛門兄弟今年御国江被召呼候なるへし  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

            細川忠興
              |
 明智光秀---+--ガラシャ
          |
          +---女
              |
 出雲---弥平次(明智左馬助)---藤兵衛---+--藤右衛門---+--藤兵衛---・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(平太郎家)
                            |          |
                            |          +--伊兵衛
                            |
                            +---徳助重信
                            |
                            +---加右衛門重豊
                            |
                            +---新兵衛重行---新兵衛---九郎兵衛重房---権兵衛---・・・・・・・・・・・・(新十郎家)
                            |
                            +---庄之助(左京?)

 新兵衛重行の曾孫にあたる権兵衛のお墓が思いがけないところで発見された。 
 旧家A家の敷地内においてである。発見者のT先生にお願いして、ぜひとも拝見したいと思っている。
 どうやら単独のお墓ではなく数代にわたるものらしい。三宅家の知行地は玉名であるといわれる。
 まさにその玉名なのだが、謎解きをいろいろしないといけないようだ。 

 

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10/20 シンポジウム「清正公さんの城下町形成」

2012-09-22 13:53:14 | 熊本
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明治初年の絵図 & 大正五年の熊本市の地図

2012-09-22 08:14:58 | 史料

 T家が愛蔵されている上記の絵図・地図をお借りして、コピーをさせていただいた。特に地図のほうは専門店でA0判に拡大をしてもらった(1,000円)
納得のいかなかった井芹川の川筋の元の位置関係や、古い道筋などが良く判るありがたい資料と成った。現在では古書籍店などでも入手困難で、たとえ入手できたとしても年金生活者としては躊躇するような値段であろう。
明治初年の絵図の方は、神風連の挙や西南の役に参加された方々の名前、また後年名を為された人たちの名前が見えて興味深い。
こちらも川筋が随分変わっているので現在の場所を確認するのに大変だが、そこは今も変わらぬ位置にある御寺が解決してくれる。

この絵図と地図を眺めていると、一日ゆっくり時間を過ごせそうである。コピーをお許しいただいたT様に感謝である。
 

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筑紫氏と細川家

2012-09-22 07:21:50 | 歴史

筑紫廣門という人物がいる。忠興との関係がどこから始まったのか承知していないが、弟・幸隆の息女・兼を廣門の三男・筑紫左近重門(細川家家臣)に嫁がせるなど、その関係が特別であることを伺わせる。
                   http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tikusi_k.html
                   筑紫広門 - Wikipedia

びっくりするのは寛永十年九月頃、忠興が江戸屋敷を「廣門殿へ被遣」と言い出している。忠利の九月八日書状案(679-抜粋)は次のように記す。

                   江戸之御屋敷 御書付之ことく 筑紫殿へ被遣由 承届候 若不入ニおいてハ
                   被成御上ニてハ御座有間敷候哉 何も拝領之屋敷ハ 下ニ而人ニ遣候ハ不
                   成事之様ニ 承かと覚申候 筑紫殿へ被遣候儀隠密之由 奉得其意候 并い
                   つそや得御意候ヘハ 我々下々江戸之屋敷ニ餘申候ハゝ 御下屋敷長屋之
                   明候所ニ置申由 忝奉存候 若人餘候は左様ニ可仕と奉存候事
                        (魚住傳左衛門尉あて) 

横車もここまでくればあきれるばかりである。九月九日書状案(681)尚々書ではさすがにこれを諌めている。

                   尚々 江戸御下やしきの事 我等のニ成候ハゝ 遣候様ニとの御書 先書ニ如
                   申上 とかく下にて やしきを傍輩へ進候儀ハ不成様ニ覚申候 以上
                        (魚住傳左衛門尉あて) 

当たり前のことだが、此の後の書状に見受けられないところを見ると、一件落着といったところか。
此の時期三齋様、老耄はまだ早いと思うのだが・・・・・・・・・・・ 

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槙島云庵消息

2012-09-21 08:59:45 | 徒然

 槙島云庵(昭光)は正保三年正月二十日、三齋の後を追うように亡くなっている。百十余歳であったというが、これはいささか眉唾ものだと思っている。
寛永十年四月十七日書状案(624)にある、忠利から魚住傳左衛門尉へ宛てた書状の一文である。

              云庵にても 御手ニ被持候扇も被成御忘候由 我等さへ左様之事
              多御座候 御尤奉存候

この云庵老、わが先祖召し出しの恩人である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

     孫六・重利(玄蕃頭昭光・云庵雲庵) 将軍家執権職・宇治槙嶋城主

        天正元年七月将軍義昭公、信長との和順破れ、宇治槙嶋城に楯籠給う  
        玄蕃頭昭光、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免
        有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、
        剃髪の名言庵と云                        (綿考輯録・巻二)


        慶長二年八月廿八日一二七月廿八日昌山公(足利義輝)薨、六十一歳、秀吉公より、其旧臣槙嶋
        玄蕃頭昭光に命し、等持院に御葬送(略)
              (綿孝輯録・巻五)
 
            千石 三斎様御附中津ニ相詰候衆    (於豊前小倉御侍帳)

        「三齋槙嶋昭光女ト氏家元高トノ婚姻ヲ望ム」寛永八年十月二日書状案
        云庵息女、氏家志摩へ被遣度、両方へ被成御尋候處、いつれも同心被仕候由、一段似相たる
        儀にて候間、被仰出御尤奉存候事        (大日本近世史料・細川家史料・・10-462)

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光圀伝

2012-09-21 08:20:00 | 地図散歩
         光圀伝
         冲方丁
角川書店(角川グループパブリッシング)

冲方丁(うぶかた とう)氏の「天地明察」はなかなか面白かった。映画化もされて評判のようだ。
永青文庫でも便乗でもなかろうが下記展覧会が25日から開催される 。

    ■ 秋季展示 「細川家に残る江戸の天文学」 9/25(火)~12/24(月・祝)

              http://www.eiseibunko.com/exhibition.html

 

黄門様は継嗣問題なども含め大変興味有る人物である。綱利夫人は黄門様の御妹君、そんなこともあってこの新進気鋭の作家への期待もこめて読んでみようと思う。

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江津湖の鮒ずし

2012-09-21 07:36:23 | 徒然

 資料を読んでいると面白い記事に出会い、驚かされる。
寛永十年二月廿六日というから、忠利の肥後入国からわずかに二ヶ月後のことである。

忠利から忠興へ宛てた書状案(603)に次のように有る。

                   進上
        一、越後塩引三尺 是ハ一両日以前ニ参候
        一、鮒之鮓 一樽 是ハ當國江津と申所之鮒にて御座候 近江之鮓之仕やうニ申付候
                二月廿六日
                              魚住傳左衛門尉殿 

江津については「江津湖、肥後飽託郡」と註があり、江津湖でとれた鮒で、近江の仕様で鮒鮓(なれずしとも)を作ったので、三齋に献上するというのである。
            http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%92%E5%AF%BF%E5%8F%B8
こればかりは、地元に献立として残されている形跡はない。鮒鮓はちょっとな~・・・・・随分臭そうで?
わが幼少時代の遊び場であった江津湖は、いまでも鮒は沢山生息していて、釣りマニアの格好のファイトの相手となっている。
まさかまさかの話である。 

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召出しの消息

2012-09-20 13:08:49 | memo

 小崎五郎左衛門・同三右衛門・速水助兵衛此三人新参ニ召置候
 五郎左衛門千石・三右衛門弐百石・助兵衛六百石遣候筈候間当
 物成之分ハ家中へ遣候知行並のことく蔵米ニ而可相渡候 謹言
    (寛永十六年)九月七日     越 忠利 御判
                西郡要人佐殿
                浅山修理亮殿
                河喜多五郎右衛門殿
                椋梨半兵衛殿 

                       (綿考輯録 忠利公・下 p289)

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猛烈アピール

2012-09-20 07:53:36 | 歴史

 天草島原の乱が終結したのは2月27日である。3月2日飯尾惣兵衛なる人物が猛烈斡旋の書状を長岡監物に届けている。
対象となっている人物は、討死した岩越惣右衛門がかかえる牢人三人である。なかなか面白いので全文をご紹介する。

   態以飛札申上候 先日爰元へ罷下候時 書状以得御意候 其節川尻ニて舟なと被 仰付忝存候
 一爰元いつき共御たいち候て 御父子様御帰陳目出度存候
 一岩越惣右衛門儀内々被懸御目候由及承候 我等おや同前之知音ニて御座候 せかれ九十郎ニ
   不相替被懸御目可被下候 年若ク御座候間 万事御さしつ奉頼存候
 一惣右衛門かゝへおき申ろう人三人御座候由 荒川三太郎と申候ハ惣右衛門おいにて御座候 是
   ハ越中様へ御目見仕候
 一三原勘兵衛と申候者ハ惣右衛門むこニて御座候 加藤肥後殿ニ罷在候 其後惣右衛門所ニかゝ
   ゑおき申候 其段下津将監前後被存候
 一布施十兵衛と申者是も三人之内ニ而御座候 我等も知音ニて御座候故 松倉長門殿へ我等申こ
   ミ身上相済申候 長州帰国次第ニ礼をうけ可被申とやくそく仕候処ニ 今度之儀出来仕候ヘハ 則
   十兵衛嶋原へろう城可仕と申候て罷出候処ニ 惣右衛門申候ハ 数年かゝへおき かやうの刻ろう
   人を他所へ遣候ハゝ惣右衛門ふりちき者と 越中様可思召候 惣右衛門手前すてニ仕候て可罷
   越と存候ヘハ不及是非候と申きり候故 十兵衛なミたをなかし迷惑かり候へ共 嶋原へはいり申事
   不罷成候 今度御陳場をもつとめ申候 三原助兵衛・荒川三太郎・布施十表絵此三人ハ九十郎と
   一所ニ廿七日廿八日かせき申候 惣右衛門とハて加ハり候て廿八日晩まてハ先手ニ居申候故
   惣右衛門手おい申と計承由ニ候 ふひんなる仕合共ニ御座候
 一九十郎ハ惣右衛門をふひんニ 越中様思召候由承候 其上御用ニも立申候間 御ふひんを御く
   ハへ可被成と存候 かゝへ置ろう人共之儀を御取成被下候ハゝ可忝候 貴様へかやうニ申上候事
   なめ過たる儀を申と可思召候へ共 爰元にて及見たいせつニ存候知音之儀ニ御座候ヘハ 思召
   候処をもかへり見申候事不罷成候
 一下津将監・岡部道宇をめしよせられ 様子をも被聞召 惣右衛門あとの儀可然様ニ被仰付被下候
   ハゝ可忝候 恐々謹言
                                           飯尾惣兵衛 判
               三月二日
                   長岡監物様 
 

    岩尾九十郎は別としても、その他三人の名前は細川家直臣としては見つからない。

 しかしこれだけ「なめ過たる」要請をうけたのだから、監物自身の元に召しだされたのかもしれない。しかし強烈な文章ではある。
 この飯尾惣兵衛なる人物についても良くわからないで居る。  (綿考輯録 忠利公・下 p139-140)

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百舌の初鳴き

2012-09-19 18:06:00 | 俳句

 台風一過、一気に秋の気配と成り百舌の初鳴きを聞くことが出来た。近所にある(高さ4メートル程)ザクロの木も、実がすっかり割れて小鳥どもの格好の餌に成っている。窓を開け放って風を入れると、カーテンがおどり、まさに秋のさわやかさを堪能できる。ぎらぎらしていた太陽も、随分穏やかに成り日向ぼっこによさそうな感じでさえある。また下手な俳句を捻ってみようかと思ったりさせる。
                                  

                                   髪上げしひとの襟足秋めきぬ

                            百舌なけるいずこぞ天の青さかな

                            秋風のさやかに鬱憤はれにけり     津々

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忠利の本音

2012-09-19 12:56:28 | 史料

 天草嶋原の乱が勃発する直前まで、忠利は病気療養のために湯治に出かけている。
そんな身を押して一月二十六日忠利は嶋原陣に参着する。向こう一ヶ月間この陣中で過ごすことになる。
戦いそのものや戦後の処理、幕府や多くの知人友人との書状之やり取りなど多忙を極めたであろうことが、多くの書状から推察できる。
そんな中に三月十二日本多政朝宛書状(4192)では、忠利の心の一端が見て取れる。此の時期本多政朝は病中である。

            (抜粋)
            書状可被下候時も 御病者故御延引之段 不及御理候 兎角今度覚申候 身ニやまい御座候
            ては 何ニもかも能事壹つも無御座候 只今御國ニ御座候時 四方を御うち捨候て 公儀之儀
            は不及是非候 可被成御養生事肝用存候 大形ニものを御つくろうなくてはと思召候ハゝ 御
            本復難存候 兎角大とくハきのつき申事壹つと覚申候 我等今度ひょうこニ有馬へ罷越もの之
            気のとくなる身之仕合 書中ニ難達候事

つまる処、「病後の参陣は辛し」という忠利の心中を伺い知ることが出来る。

本多政朝(忠勝の嫡男忠政の子)  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%94%BF%E6%9C%9D はこの年の末に病没、忠利も寛永十八年三月十七日亡くなることになる。

          

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