津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

御恵贈御礼

2012-09-10 11:41:30 | 徒然

 「地震の間」をいろいろ調べている内に、加賀前田家の本郷上屋敷にあったという「地震の間」のことが知りたくなり、北国新聞の記事でお見受けした加賀八家の横山方子様に図々しくお手紙を差し上げ、ご教示をお願いした。
ご丁寧なお手紙と共に諸資料を拝受したので、ここに謝意を表してご紹介する。
     ■三壷聞書   該当項  http://books.google.co.jp/books/about/%E4%B8%89%E5%A3%B7%E8%81%9E%E6%9B%B8.html?id=5gQeywAACAAJ&redir_esc=y
     ■石川郷土史学会々誌 第四十四号抜刷 横山方子氏著 「金沢に生きた小堀遠州」
     ■歴史・時代読切 加州 金城 さくらざか十二 櫻坂
     ■江戸御上屋敷御絵図  一部分コピー
     ■(財)北国総研発行 北國TODAY 
     ■ その他

また石川郷土史学会会員で「佐久間会」の会員でもあられる吉原実様にはお手数をお掛けした。併せて御礼申し上げる。
吉原様を通じて「佐久間会」会長・佐久間凡雄様が発行された御著をお送りいただいた。佐久間様・吉原様に深く御礼申し上げる。
     ■『四代茶会記』『今井宗久茶湯書抜』抜粋 

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加賀前田家・辰ノ口邸

2012-09-10 08:13:51 | 史料

 加賀前田藩の話である。本郷の東京大学が加賀前田藩の江戸上屋敷であることはよく知られるところだが、ここは元々は下屋敷であり、上屋敷は辰ノ口に在ったのだそうな。細川家同様寛永九年十二月の末、火事で消失している。その後本郷邸が上屋敷となったという。
金沢の横山様(加賀八家)から頂戴した資料には、その経緯が次のようにある。

                   辰ノ口邸
                   江戸に在った加賀藩邸。辰口はまた竜口に作り、江戸城和田蔵門外の汎称である。
                   初め慶長十年徳川家康、前田利常にこの邸地を与え、利常は父利家が豊臣秀吉よ
                   り得た伏見城の殿閣を移して建築したと伝える。これ即ち加賀藩の当時の上屋敷で、
                   元和三年五月十三日徳川秀忠が利常の邸に臨んだ時の旧記に、初めて辰口邸の
                   称を用ひられる。後利常・光高共にこゝに住んだが、寛永九年十二月廿九日備前侯
                   池田光政の邸から出火して延焼した為、利常は本郷邸に在って工事を指揮し、十年
                   冬に至って竣成した。因って十二月五日光高の新夫人はこの邸に入輿し、その子綱
                   紀も亦二十年十二月十六日を以てそこに生誕した。明暦三年正月十九日小石川か
                   ら火を発して、辰口邸再び類焼の厄に罹つた時、綱紀は難を本郷邸に避け、同年三
                   月この邸地七千五百歩を幕府に納め、幕府はこれを甲府侯徳川綱重に与へた。爾
                   後屢変革があり、終に小倉侯小笠原氏の居る所となつた。

                    http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/josetsu/2007_12/case2.html 
                    http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2000Kaga/00/000500.html

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