津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

本日大多忙に付き

2012-09-11 16:34:17 | 徒然

 本日は多忙を極めています。準備の原稿もなく・・・・お休みとさせていただきます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

辰ノ口周辺の諸家屋敷

2012-09-11 08:54:37 | 史料

 寛永九年の大名小路周辺の絵図である。まさに細川家、加賀前田家そのたの屋敷が消失した時代のものである。
左から火元の松平新太郎(池田光政)邸、中央が細川越中守邸、右が松平肥前守(前田利長)邸である。

           池田新太郎  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%85%89%E6%94%BF                           細川越中守  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E5%88%A9
           松平肥前守  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7

この時期細川家はまだ豊前小倉藩主で禄高からして、池田・前田家に比べると格下の感じが藩邸の大きさからしてよく理解できる。
もっともこの絵図ができた時期細川家は54万石の太守となった。

この絵図は「 武州豊嶋郡江戸庄図」によっている。全体像は http://www.chuo-kanko.or.jp/knowledge/maps/01.html をごらんいただくと、拡大してみることができる。大名小路の下方にあたるブロックは現在の八重洲にあたるところだが、この時期は其の名の通り海に近く、船付き場がたくさん見受けられる。寛永九年の火事は海風が影響しての延焼ではないかと想像できる。この火事についての記録があまり見受けられず、どんな範囲に広がったのかが良くわからないでいる。

細川家竜之口邸は上図の如く敷地が狭く、この後隣の敷地を取得して建築が為された。それでも狭いため御成屋敷としての造りができず、先にご紹介した将監橋際に建設する下屋敷を整備することとなる。細川家御成屋敷(芝下屋敷)

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする