津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

二の丸御館

2012-09-07 11:19:26 | 史料

 昨日送られてきた、(財)熊本城顕彰会発行の季刊「熊本城」復刻第八十七号には、「熊本城の歴史と探訪」第二十五回として、「二の丸(六)古京町(二)」がA4判4ページに亘り紹介されている。

ここでは「二の丸御館」のことが紹介されている。現在の刑部邸があるあたりだが其の範囲は東側に少し広かったらしい。
この場所には元々は細川内膳家の屋敷があった。細川齊護は隠居すると、本山に屋敷を建てる。文政三年三月に完成するが、どうやらこの屋敷はお気に召さなかったらしく、文政七年(1824)内膳家を立退かせてこの場所に「二の丸御館」を建設する。
本山の屋敷は非常に寒かったからだとされるが、私はこの屋敷で生まれた末娘・耇姫(コウ 文政六年二月十四日生)を思ってのことではないかと密かに考えている。文政九年十二月廿三日に新築なったこの二の丸館で亡くなっている。島崎・花園地区が遠望できるすばらしい場所だから、耇姫もその景色を堪能したことと思われる。
建物は本山から引きなおされたという。内膳家は牧崎(本妙寺下)の屋敷地をたまわり以降「牧崎内膳家」と呼ばれている。

二枚の「二の丸御館」絵図が残されているが、(1)は長岡義之助(護久)・良之助(護美)兄弟が入った折の屋敷図だが、天保十四年(1843)九月末に入居している。(2)は文久元年(1861)九月細川齊護室・顯光院、齊護長男慶順室・鳳台院肥後帰国のために整備された折のものである。
追ってご紹介しようと思っている。
さきの 「二の丸(六)古京町(二)」によると、西南の役(1877)の時期まで残された建物の写真が紹介されている。
約50年のこの建物の歴史は、幕末期の慌しい世の移ろいと共に生きたともいえる。

 

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