津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

恩讐を越えて

2012-09-28 17:41:14 | 史料

 私の手元に「釣耕園に育まれた思い出のむら」という冊子の抜粋コピーが有る。平成21年2月牧家の御当主TM様から頂戴したものである。
最近ご厚誼をいただいている高見権右衛門家のご子孫YT様から、一週間ほど前メールに添付されて同様のもの(抜粋)が送られてきた。
三代ほど遡るご親戚であることがわかる。三代遡ると田中閑谷様にいたる。詳しい系図があり、長女が高見家に嫁いでいる。長男は典儀である。二女は益田弥一右衛門に嫁いでいる。三女が牧相之室となり、四女が額田丈十郎に嫁した。藩政時代最後の当主たちの婚姻関係である。これに續家、山本家などの上級武士のお宅がからんでいる。これら一族が續家の拝領屋敷である「釣耕園」に、懐かしい思い出を共有されているのであろう。

                    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E8%80%95%E5%9C%92

                    http://flower-k.at.webry.info/200802/article_14.html

改めてこの冊子を読み、系図を眺めている内にある事に気づいた。
田中家と益田家が血縁関係にあるということである。いわゆる天草嶋原の乱に於ける一番鑓の益田弥一右衛門家と、幻の一番鑓といわれる田中左兵衛のご子孫の二家であり、恩讐を越えて血縁となられたということである。
田中左兵衛の一番鑓は誰もが認めるところであった。やや遅れて益田弥一右衛門が到着する。ところが幕府のお偉方からは左兵衛の活躍は見受けることが出来なかったらしく、弥一右衛門が一番鑓と認められたのである。左兵衛の心中穏やかならざる事であったろうが、忠利公は特に言葉をかけてその功績を認め恩賞を与えた。この事について両者が互いにその事実を認めあい、以降口端に上ることはなかったとされる。
恩讐という言葉も適当ではないかもしれない。しかしこのように血縁が結ばれたことは喜ばしい話では有る。 

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