津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

槙島云庵消息

2012-09-21 08:59:45 | 徒然

 槙島云庵(昭光)は正保三年正月二十日、三齋の後を追うように亡くなっている。百十余歳であったというが、これはいささか眉唾ものだと思っている。
寛永十年四月十七日書状案(624)にある、忠利から魚住傳左衛門尉へ宛てた書状の一文である。

              云庵にても 御手ニ被持候扇も被成御忘候由 我等さへ左様之事
              多御座候 御尤奉存候

この云庵老、わが先祖召し出しの恩人である。

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     孫六・重利(玄蕃頭昭光・云庵雲庵) 将軍家執権職・宇治槙嶋城主

        天正元年七月将軍義昭公、信長との和順破れ、宇治槙嶋城に楯籠給う  
        玄蕃頭昭光、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免
        有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、
        剃髪の名言庵と云                        (綿考輯録・巻二)


        慶長二年八月廿八日一二七月廿八日昌山公(足利義輝)薨、六十一歳、秀吉公より、其旧臣槙嶋
        玄蕃頭昭光に命し、等持院に御葬送(略)
              (綿孝輯録・巻五)
 
            千石 三斎様御附中津ニ相詰候衆    (於豊前小倉御侍帳)

        「三齋槙嶋昭光女ト氏家元高トノ婚姻ヲ望ム」寛永八年十月二日書状案
        云庵息女、氏家志摩へ被遣度、両方へ被成御尋候處、いつれも同心被仕候由、一段似相たる
        儀にて候間、被仰出御尤奉存候事        (大日本近世史料・細川家史料・・10-462)

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光圀伝

2012-09-21 08:20:00 | 地図散歩
         光圀伝
         冲方丁
角川書店(角川グループパブリッシング)

冲方丁(うぶかた とう)氏の「天地明察」はなかなか面白かった。映画化もされて評判のようだ。
永青文庫でも便乗でもなかろうが下記展覧会が25日から開催される 。

    ■ 秋季展示 「細川家に残る江戸の天文学」 9/25(火)~12/24(月・祝)

              http://www.eiseibunko.com/exhibition.html

 

黄門様は継嗣問題なども含め大変興味有る人物である。綱利夫人は黄門様の御妹君、そんなこともあってこの新進気鋭の作家への期待もこめて読んでみようと思う。

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江津湖の鮒ずし

2012-09-21 07:36:23 | 徒然

 資料を読んでいると面白い記事に出会い、驚かされる。
寛永十年二月廿六日というから、忠利の肥後入国からわずかに二ヶ月後のことである。

忠利から忠興へ宛てた書状案(603)に次のように有る。

                   進上
        一、越後塩引三尺 是ハ一両日以前ニ参候
        一、鮒之鮓 一樽 是ハ當國江津と申所之鮒にて御座候 近江之鮓之仕やうニ申付候
                二月廿六日
                              魚住傳左衛門尉殿 

江津については「江津湖、肥後飽託郡」と註があり、江津湖でとれた鮒で、近江の仕様で鮒鮓(なれずしとも)を作ったので、三齋に献上するというのである。
            http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AE%92%E5%AF%BF%E5%8F%B8
こればかりは、地元に献立として残されている形跡はない。鮒鮓はちょっとな~・・・・・随分臭そうで?
わが幼少時代の遊び場であった江津湖は、いまでも鮒は沢山生息していて、釣りマニアの格好のファイトの相手となっている。
まさかまさかの話である。 

コメント (2)
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