槙島云庵(昭光)は正保三年正月二十日、三齋の後を追うように亡くなっている。百十余歳であったというが、これはいささか眉唾ものだと思っている。
寛永十年四月十七日書状案(624)にある、忠利から魚住傳左衛門尉へ宛てた書状の一文である。
云庵にても 御手ニ被持候扇も被成御忘候由 我等さへ左様之事
多御座候 御尤奉存候
この云庵老、わが先祖召し出しの恩人である。
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孫六・重利(玄蕃頭昭光・云庵又雲庵) 将軍家執権職・宇治槙嶋城主
天正元年七月将軍義昭公、信長との和順破れ、宇治槙嶋城に楯籠給う
玄蕃頭昭光、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免
有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、
剃髪の名言庵と云 (綿考輯録・巻二)
慶長二年八月廿八日一二七月廿八日昌山公(足利義輝)薨、六十一歳、秀吉公より、其旧臣槙嶋
玄蕃頭昭光に命し、等持院に御葬送(略) (綿孝輯録・巻五)
千石 三斎様御附中津ニ相詰候衆 (於豊前小倉御侍帳)
「三齋槙嶋昭光女ト氏家元高トノ婚姻ヲ望ム」寛永八年十月二日書状案
云庵息女、氏家志摩へ被遣度、両方へ被成御尋候處、いつれも同心被仕候由、一段似相たる
儀にて候間、被仰出御尤奉存候事 (大日本近世史料・細川家史料・・10-462)