吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2025:4:21日発行 第79号
本能寺からお玉ヶ池へ ~その㉓~ 医局:西岡 暁
雪とけて 村いっぱいの子供かな (小林一茶)
「雪とけて」春。
雪浅き街・江戸にも春はやって来ます。この「本能寺からお玉ヶ池へ」の道行は、5度目の春を歩きます。
昔々、まだお玉ケ池が「池」だった頃のお話です。徳川家康が1601年(慶長6年)に「東海道」を拓いたとき、その起点は本芝(現・港区芝4丁目)でした。翌年、日比谷入り江を埋め立てて、芝浜が江戸前崎と地続きになると、(平川の支流《現・日本橋川》に)「日本橋」を掛け、東海道の起点とします。東海道を芝から日本橋まで延ばすにあたって汐留川とその北の水路にもう一つ新しく橋を架けました。汐留川の橋に「新橋」の名を譲った(?)北側の橋には、京に向かう東海道の最初の橋であるので「京橋}の名が付けられました。京橋の北詰西側に「京橋大根河岸(かし)」と呼ばれる青物市場が、北詰東側には「京橋竹河岸」と呼ばれる竹問屋が出来、250年以上の長きに亘って賑わいました。
京橋の北東1㎞ほどに「歌川広重住居跡」(‘@中央区京橋1丁目)があります。案内板が立っていますので、読んでみましょう。
「浮世絵師歌川広重(1797~1858)が、嘉永二年(1849)から死去までのおよそ十年間を過ごした住居跡です。広重は、幕府の定火消組同心安藤源右衛門の長男として、八代洲海岸(やよすかし-現在の千代田区丸の内二丁目)の火消し屋敷で生まれました。・・・・晩年描いた「江戸名所百景」は、当時大鋸町と呼ばれていたこの地の代表作です。」
歌川広重「名所江戸百景 京橋」 出典:ウィキペディア
痘瘡の治療法、予防法がなかった当時、「疱瘡絵」と呼ばれる赤絵が「疱瘡除け」として盛んに使われ、広重も書いています。絵柄は「為朝」や「鐘馗」「達磨」「金太郎」などがありました。その効果からか広重は痘瘡には罹らなかったようですが、疱瘡除けの決定打である種痘を施す種痘施す場がえどにも「お玉ケ池種痘所」として開かれた僅か4か月後、これらに斃れました。享年61。旧暦9月6日(1858年10月12日)の広重忌は、秋の季語になっています。
あをあをと 暮るるも露の 広重忌 (加藤楸邨)
余談になりますが、落語「芝浜」の枕で三代目桂三木助(1902~1961)は、こう語ったそうです。
「・・・・翁の句に 明ぼのや しら魚しろきこと 一寸 なんてえのがございますようですが・・・・」
これは、芭蕉さんが1684年(天和4年)「野ざらし紀行」で伊勢桑名に寄った際に詠んだ句です(から、「翁」は芭蕉さんのことですが、この句の芭蕉さんは39歳ですから、幾ら江戸時代とは云え「翁」と呼ぶには若くないですか?)。芭蕉さんが読んだ白魚は伊勢湾のものですが、三木助は江戸芝浜の噺の枕に使ったのです。日本橋長浜町の蘭方医(で桂川甫周に学んだ)・武井周作の「魚鑑」によれば、「(白魚は)備前平江、伊勢桑名に多し。武蔵角田川および中川のものも桑名の種といへども、水美なれば魚もまた美なり。」とあり、江戸の白魚は、実は「桑名の種」なのでした。
落語「芝浜」の時代は勿論、三代目三木助(若い)時代まで白魚漁は江戸の春の風物詩でした。ただ白魚漁は、(芝浜ではなく)隅田川(=「魚鑑」では角田川)河口辺りで盛んにおこなわれ、歌川広重も名所江戸百景「永代橋佃しま」として描いています。また、(京橋の西の)三十三間堀の東岸には「白魚河岸」(=江戸城に白魚を献上する「白魚役」の屋敷地)がありました。
歌川広重「名所江戸百景 永代橋佃しま」 出典:ウィキペディア
[27]京橋南伝馬町
「本能寺の変」の中心人物・斎藤利三の子孫である(と思われる)7代将軍・徳川家継は僅か8歳でこの世を去ったため、8代将軍に就いたのは家継の親族ではなく、皆様ご存知、徳川吉宗(1684~1751)です。吉宗は、家継の祖父・德川綱重の弟、5代将軍綱吉の兄)と同じく家康の曽孫です。ですから、徳川将軍家は家康の血族ですが、家継を最後に斎藤利三の血族ではなくなりました。
吉宗の嫡男・徳川家重(脳性麻痺で言語障害があったそうです。村木嵐の小説「まいまいつぶろ」は家重を感動的に描いています。)が、9代将軍だった1747年(延享4年)、大坂の菓子職人だった小倉喜右衛門は、「江戸にも上方の美味しい菓子を」と意気込んで江戸に下り、京橋鈴木町に菓子店「大坂屋」を開きました。今の「京橋江戸グラン」の向かい側「レム東京京橋」(@中央区京橋2丁目)の建つ辺り、歌川広重宅から南東に250mの処です。
小倉喜右衛門には子供がいなかったので、姪の恂(じゅん)を養子とし、恂は唐津藩主・水野忠光の側室になって忠邦を生みました。唐津藩は、明智光秀の孫(で、お玉が池種痘所発起人・三宅艮斎の先祖)・三宅藤兵衛が仕官した寺沢広高が藩祖ですが、藤兵衛が討ち死にした「島原の乱」の後、大久保家、松平家、土井家を経て1762年(宝暦12年)から水野家が藩主となり、忠光はその3代目、忠邦が4代目です。1805年(文化2年)、忠邦が世嗣となり恂が小倉家に戻されると、恂が二代目喜右衛門を婿にとりました(ので、その後に生まれた3代目喜右衛門は水野忠邦の異父弟です。)水野忠邦(1794~1851)は(唐津時代は勿論、浜松藩に転じた後も、義父となった喜右衛門の)大坂屋を御用達としました。二代目喜右衛門の時大坂屋は、鈴木町から(すぐ隣と云って良いほど近くの)南伝馬町(同じく現・京橋2丁目「みずほ銀行京橋支店」辺り)に移転します。
水野忠邦が幕府老中に就いた時の将軍は(11代)徳川家斉(1773~1841)で、次男・家慶(1793~1853)に将軍職を譲った後も大御所として君臨しましたが、家斉の死後忠邦は、家慶将軍の下で「天保の改革」を推し進めました。改革にあたって忠邦は、家斉派を排して新勢力の幕閣を組織しましたが、その中で「小普請奉行」に登用したのが佐渡奉行だった川路聖謨です。
川路聖謨を憶えていますか?[6]で述べたように、「お玉が池種痘所」が誕生した処は、当時勘定奉行になっていた川路聖謨の下屋敷でした。お玉が池種痘所が開かれた時の将軍は、家慶の四男・家定(1824~1858)です。家定は(も?)、16歳の時に痘瘡に罹り、頭に痘痕(あばた)が残ったそうです。将軍になってから発症した脚気の(お玉が池種痘所開所の二か月後の)悪化しに際して幕府奥医師に初の蘭方医(伊藤玄朴、戸塚静海の二人)を採りたてた人で(したが、その僅か3日後に逝去しました。享年34。)その正室はあの(2008年の大河ドラマのヒロイン・)天璋院篤姫です。
「天保の改革」は苛烈なものだったため、庶民は苦しい生活を強いられ、水野忠邦を怨むものが続出しました。1841年(天保14年)秋、忠邦が失脚すると、そのうわさを聞きつけた数万(?)とも云われる江戸庶民が江戸城西丸下の忠邦の屋敷(@千代田区皇居外苑1丁目)を襲撃し、その様子が川柳に詠まれました。一見してお分かりのように、この句は芭蕉さんの名句「古池や・・・・」の句の本歌取になっています。
ふる石や 瓦とびこむ 水の家 (詠人知らず)
さて、話は更に半世紀ほど遡ります。大坂屋の菓子はその佳味が好評で、唐津藩水野家のみならず諸大名家の御用達となっていきました。それら諸家の一つ、陸奥白川藩の藩主・松平定信(徳川吉宗の孫で12代将軍候補にもなったと云われ、大河ドラマ「べらぼう」にも登場しています。1759~1829)からは、上屋敷(@中央区八丁堀1丁目)が大坂屋のご近所だったこともあって、とても贔屓にして貰ったそうです。その御縁で大坂屋は、定信の雅号「凮月」を屋号に賜つて「凮月堂」になり、苗字をそれ迄の小倉から「大坂屋」に因んで「大住」に改めました。
話は変わりますが、お玉が池種痘所の発起人(の一人)三宅艮斎の住まいの西ほど近くに幕府韮山代官・江川太郎左衛門(1801~1855)の江戸屋敷(@墨田区亀沢1丁目)がありました。近所の誼からか、この江戸屋敷は艮斎の患家でした。屋敷跡の説明板にはこう書かれています。
「・・・・日本に西洋砲術を普及し、韮山に反射炉を築いて江戸防御のため、江戸湾内に数か所あった砲台(お台場)を造りました。また、日本で初めてパンを焼いた人物だとも言われています。・・・・嵐で遭難し、米国の捕鯨船に救われ、ほぼ十年振りに帰国した中濱万次郎を敷地内の長屋に住まわせ、英語を講義させたといわれています。」
「日本で初めてパンを焼いた」ことから、江川太郎左衛門は「パン祖」と呼ばれています。ただその場所は江戸屋敷ではなく本邸(@静岡県伊豆の国市韮山)の方で、韮山の江川屋敷には「パン祖江川坦庵先生邸」碑が建てられています。
パンは兵糧として優れていたことから、その後各地に普及して、戊辰戦争にあっては江戸・京橋南伝馬町の凮月堂が1868年(慶応4年=明治元年)官軍の兵糧としてパンを納めました。芝日陰町(現・港区新橋2丁目)に日本初のパン屋=文英堂(現・木村屋総本店)がかいてんしてパンの製造、販売を始める一年前のことでした。その4年後の1872年(明治5年)、凮月堂5代目・大住喜右衛門は、洋菓子製造に乗り出します。そして凮月堂の番頭だった米津松造が暖簾分けして領国若松町(現・中央区日本橋)に開いた「米津凮月堂」が「明治20年、三宅秀がヨーロッパより持ち帰ったカルルス煎餅を模倣して・・・・」(「東京凮月堂社史」)商品化しました。この三宅秀の渡欧は、当時の日本の医学が(次回に述べる慈恵医大を除けば)ドイツ医学に偏っていたことに疑問を抱いてヨーロッパの医学事情を視察するのが目的でした。三宅秀の「カルルス煎餅」と云うのは、ボヘミア(現在のチェコ西部)にある温泉保養地カルロヴィ・バリ(Karlovy Vary;ドイツ語でKarisbad)の焼き菓子「オプラツキー」(チェコ語でウエハース)のことで、このカルルス煎餅は、1927年(昭和2年)に米津凮月堂が発表し(て今では全国各地の凮月堂の主力商品になっ)た「ゴーフル」の基になりました。
凮月の ゴーフルとヾく 避寒かな (久保田万太郎)
梅素薫「東京自慢名物会 宮内省御用菓子調進所 風月堂」
出典:東京都立図書館デジタルアーカイブス
川路聖謨は、細川藩柔術師範・江口秀種の息子・窪田治部左衛門の従兄弟でした。
松田聖子は、窪田治部左衛門の子孫なのですね。
「雪とけて…」の句の作者を「小林一茶」と書いたつもりが、全然違う蕪村にしてしまっていました。しかも掲載誌が発行されてから2か月近くもの間全く気付かずにいたのです。お恥ずかしい限りです。
遅まきながら、大間違いを深くお詫びして訂正いたします。申し訳ありませんでした。