2012年9月28日(金) 21時30分~22時00分、NHK「日本の和芸」をみる。一龍斎貞山による講談「沢村才八郎」である。
このような演目があるとは全然知らずにいたのだが、話を聞いている内に後の家老沢村大学吉重のことと思い至った。
「 丹後の国、細川越中守の家臣で、牛飼いから取り立てられ、武士となった沢村才八郎の立身出世の物語」というのだが、話の筋はまさに講談だが細川大好き人間としてはともかく楽しませていただいた。
ごらんになれなかった皆様・・・・・・残念でした。
2012年9月28日(金) 21時30分~22時00分、NHK「日本の和芸」をみる。一龍斎貞山による講談「沢村才八郎」である。
このような演目があるとは全然知らずにいたのだが、話を聞いている内に後の家老沢村大学吉重のことと思い至った。
「 丹後の国、細川越中守の家臣で、牛飼いから取り立てられ、武士となった沢村才八郎の立身出世の物語」というのだが、話の筋はまさに講談だが細川大好き人間としてはともかく楽しませていただいた。
ごらんになれなかった皆様・・・・・・残念でした。
私の手元に「釣耕園に育まれた思い出のむら」という冊子の抜粋コピーが有る。平成21年2月牧家の御当主TM様から頂戴したものである。
最近ご厚誼をいただいている高見権右衛門家のご子孫YT様から、一週間ほど前メールに添付されて同様のもの(抜粋)が送られてきた。
三代ほど遡るご親戚であることがわかる。三代遡ると田中閑谷様にいたる。詳しい系図があり、長女が高見家に嫁いでいる。長男は典儀である。二女は益田弥一右衛門に嫁いでいる。三女が牧相之室となり、四女が額田丈十郎に嫁した。藩政時代最後の当主たちの婚姻関係である。これに續家、山本家などの上級武士のお宅がからんでいる。これら一族が續家の拝領屋敷である「釣耕園」に、懐かしい思い出を共有されているのであろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E8%80%95%E5%9C%92
http://flower-k.at.webry.info/200802/article_14.html
改めてこの冊子を読み、系図を眺めている内にある事に気づいた。
田中家と益田家が血縁関係にあるということである。いわゆる天草嶋原の乱に於ける一番鑓の益田弥一右衛門家と、幻の一番鑓といわれる田中左兵衛のご子孫の二家であり、恩讐を越えて血縁となられたということである。
田中左兵衛の一番鑓は誰もが認めるところであった。やや遅れて益田弥一右衛門が到着する。ところが幕府のお偉方からは左兵衛の活躍は見受けることが出来なかったらしく、弥一右衛門が一番鑓と認められたのである。左兵衛の心中穏やかならざる事であったろうが、忠利公は特に言葉をかけてその功績を認め恩賞を与えた。この事について両者が互いにその事実を認めあい、以降口端に上ることはなかったとされる。
恩讐という言葉も適当ではないかもしれない。しかしこのように血縁が結ばれたことは喜ばしい話では有る。
江戸末期(文久頃?)の絵図である。齊茲が一時期居を構えた本山御殿が図左下に見える。御門・構口で御府内は厳重に守られていたことが判る。
坪井川・井芹川は現在とは流路が全く異なっているし、熊本城地と京町台はまだ完全に繋がれている。これが開鑿されて広町から花園・島崎方面へ繋がるにはまだまだ時間を経なければならない。泰勝寺・妙解寺が熊本城から表鬼門・裏鬼門に位置することも良くわかる。本妙寺に至る長い直線道路が出来るのもまだまだ先のことである。