津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「太閤記」と肥後国衆一揆まつり

2011-02-21 14:31:27 | 歴史

 報告するにはいささか時期を失したが、2月13日和水(なごみ)町では「肥後国衆一揆まつり」が三加和総合支所隣接の多目的広場で行われた。今年は第34回目というから歴史あるイベントである。
        http://kumanichi.com/news/local/main/20110213006.shtml

天正十五年九州平定を終えた秀吉は、肥後国に割拠する国衆に対して大変厳しい内容の所領安堵の朱印状を発するとともに、肥後国の新たな国主として佐々成政を派遣する。その折成政に対して「制書」五箇条を発したとされる。

          一 五十二人之国人に先規の如く知行相渡すべき事
          一 三年検地有るまじき事
          一 百姓等痛まざる様に肝要の事
          一 一揆起こさざる様に遠慮あるべき事
          一 上方普請三年免許せしめ候事
             右之条々相違無く此旨を守らべく也
             仍而件の如し
                天正十五年六月六日 秀吉御朱印
                                     佐々内蔵助とのへ

成政は入国するとすぐに、「三年検地有るまじき事」の一条に反して検地を始め、そのことが国衆の反発を招き「国衆一揆」に至っている。この「制書」が小瀬甫庵が著した「太閤記」の記述のみにしか存在しないもので、その信憑性が問われている。(この時期の朱印状や書状の宛名が、「羽柴陸奥守」「羽柴肥後侍従」とあるのに対し、太閤記では「佐々内蔵助」とあるのがおかしいと指摘する学者がある。)

責任を追及された成政は、秀吉により切腹を命ぜられる。一方国衆も大方の所領を没収されてしまう。喧嘩両成敗を最初から目論んだ、秀吉の狡猾な作戦であったのかもしれない。

一見のどかで楽しそうなまつりには、肥後の中世以来の数多くの小領主の没落という歴史の真実がそこにある。

「三年検地有るまじき事」の一条が、小瀬甫庵の創作によるものだとする昨今の考え方だが、ひょっとすると本当かもしれないと考えると成政の評価も随分違ってくるのである。

 

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金春流 第2回若楠会鑑賞能 肥後金春流 相伝400年記念

2011-02-21 08:05:04 | 熊本
          【日時】2011/02/27(日) 12時半開場 13時開演 終了予定17時ごろ
          【公演名】金春流 第2回若楠会鑑賞能 肥後金春流 相伝400年記念
          【場所】熊本県立劇場 演劇ホール(熊本市大江2丁目)
          【料金】S席6,000円 A席4,000円 B席2,000円  ※当日は各500円高
          【問合せ】Tel.096-352-7801(肥後金春流保存会事務局)
 

                   ■仕舞
                     「八島」        鬼頭尚久
                     「井筒」        本田光洋
                     「玉の段」       本田芳樹
                     「山姥」        本田布由樹

                   ■舞囃子「葛城」     金春安明

                   ■狂言「隠狸」      野村万禄

                   ■能「熊坂」              中村一路

                皆様のお出でを心よりお待ち申し上げます。
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細川コレクション 永青文庫の至宝展 ・・ ほか

2011-02-20 21:31:39 | 熊本

 九州新幹線の全線開通(3/12日)まであと20日となった。
準備万端となっているのか疑わしいところもあるが、なんとか目途がついたというところか?
協賛の行事がいろいろ催されるようだが、なんといっても一番うれしいのは、3/8日から熊本県立美術館で開催される開通記念の 細川コレクション 永青文庫の至宝展 である。

 http://www.museum.pref.kumamoto.jp/event/kikaku/20110308-0508_shiho/index.html

 出品の品物が何度か入れ替わるので、そのつど出かけることになるだろう・・・
現在行われている『ガラシャと細川家の女性たち』も、もう一度見てみたいと思っている。

熊本城には「桜の馬場城彩苑」が出来、こちらは3/5日のオープン。熊本城を訪ねられる観光客の皆様には楽しい施設と成りそうである。
         http://www.sakuranobaba-johsaien.jp/

3月下旬はいよいよ桜のシーズン、どうぞ熊本においでまっせ。

 

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第32回熊日出版文化賞

2011-02-20 18:36:27 | 熊本

 地元熊本日々新聞が主催する、第32回出版文化賞が発表された。途中で候補作19点が発表されたとき、これは間違いないなと思った二つの作品が選ばれていた。
           
       ■熊本大学永青文庫研究センター編「永青文庫叢書 細川家文書 中世編」

            http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b59959.html

 「永青文庫叢書 細川家文書 中世編」も、細川家大フアンとしてはうれしい処で当然といえば当然だろう。2月24日発売の、「永青文庫叢書」の第二弾「細川家文書 絵図・地図・指図編 Ⅰ」も、第33回に於いて受賞はするだろう。(100%間違いないと予言しておく)


       ■島津亮二著「小西行長 抹殺されたキリシタン大名の実態」 

       http://www.books-yagi.co.jp/pub/cgi-bin/bookisbn.cgi?isbn=ISBN978-4-8406-2049-9   

 島津亮二氏は八代市立博物館「未来の森ミュージアム」の学芸員である。
小西行長に関する展覧会を計画されるなど、深く行長の研究に係ってこられたようで、今回の受賞は更なる行長研究の充実への励ましとなることであろう。
全国の歴史愛好家にお読みいただきたいものである。

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齊護の正室・篤姫

2011-02-20 11:45:40 | 歴史

 細川齊樹に「篤姫」という末娘があった。これを齊樹の室・紀姫(一橋大納言治済女・蓮性院)が文化十二年養女とした。一橋家の縁類の姫となった。そのことを示す文書がある。

    篤姫様御事、此節御前様養女ニ被遊候ニ付、右之段御用番之御老中様え
    先月廿一日被遊御届候、依之御中老以上、篤姫様と可奉穪旨被仰出候段
    従江戸申来候條、奉得其意、觸支配方えも可被達候、以上
        亥六月十七日                    奉行所

 篤姫は文化八年の生まれである。文政五年この篤姫が幕府の許可を得て、齊樹の実兄・宇土細川藩主立之の嫡男・立政(宗家に入り齊護)に嫁いでいる。しかしながら文政七年篤姫は僅か十四歳で亡くなった。宇土細川家の墓所ではなく、宗家の墓所・妙解院に葬られた。

 齊樹が亡くなった直後、江戸藩邸では蓮性院の実家一橋家から養子を迎えるという動きがあった。一方地元熊本では、細川家の血脈が途絶えることを憂慮し、宇土支藩の立政を迎えるべく奔走している。
連性院からすれば娘が亡くなったとはいえ婿殿である。喜ばしい結果で収まったというべきであろう。

 ところで齊樹の跡目を継いだ文政九年斎護は23歳であり、前の年に生まれた雅之進という男子があった。この男子は齊護の生母栄昌院によって育てられ、本家に入るのは天保五年のことである。生母上村氏(久)については良くわからない。そういう状況で齊護は本家を相続し、文政十年浅野安藝守斎賢女益子を正室として迎えるのである。(正確には継室とすべきであろうが・・・)益姫は三人の子をなすが全て女子であり、雅之進を本家に迎え入れたものと考えられる。側室比企氏に男子(韶邦)が生まれるのはその翌年であり、雅之助(護前)が若くしてなくなったために、韶邦が跡目を継ぐということになる。
     9      10      11          12       13
 細川治年===齊茲---齊樹=======齊護---韶邦・・・・・・・・→細川宗家
          ↑            ↑
      細川立礼---立之---+--立政
          7       8    |   9
                    |
                    +--行芬・・・・・・・・・・・・・・・→宇土細川家
                        10

 私は手元の細川家系図に、「正室・細川齊樹女篤姫・一橋大納言治済女紀姫養女」と書き込んだ。

 

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藩主の婚姻や養子について

2011-02-18 16:09:52 | memo

 慶長20年(1615)発令の武家諸法度13条の「元和令」は、「私に婚姻を締ぶべからざる事」と定めた。将軍から婚姻を許可された女性をして正室と認めた。

 寛文三年の「諸士法度条々に於いては、 「国主・城主・壱万石以上近習并物頭ハ私不可婚姻事」と具体的記述と成り、 幕府の許可無く勝手に結婚してはならないとした。
又公家との婚姻についても附書にて「与公家於結縁辺者、向後達奉行所、可受差図事」とし、奉行所に伺いを立て差図を受ける事としている。
 跡目に養子を立てることについても細かな決まりが誕生している。
「跡目之義養子ハ、存生之内可致言上之、及末期雖申之不可用之、雖然其父年五拾已下之輩、雖為末期、依其品可立之、十七歳以下之者、於致養子ハ吟味之上許容すべし、向後ハ同姓之弟・同甥・同従弟・同又甥・同又従弟此内を以、相応之者を可撰、若同姓無之ハ入婿・娘方之孫姉妹之子、種替り之弟、此等之者其父之人柄により可立之、自然右之内ニ而も可致養子者、於無之ハ達奉行所可受差図也、縦雖為実子、筋目違たる遺言立べからざる事」

 
跡目の養子は藩主の存生中に言上し、末期に及び申出ても取上ないとしている。しかし藩主が五十歳以下の場合は末期でも認める事があるとする。十七歳以下の者が養子を立てる場合の許可は吟味の上でとし、同姓の弟・甥・従弟・又甥・又従弟の中で相応の者を選ぶ事とし、同姓の者がいなければ入婿・娘方の孫姉妹の子、種替りの弟などこれ等の者もその父親の人柄により立てる事、それでもこの中で養子にする者がいない場合は奉行所に届け指示を待つようにとしている。そして例え実子であっても筋目が違う遺言では立ててはならないとする。

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佳代子夫人と栄昌院さま

2011-02-18 09:50:37 | 歴史

 宇土細川家家臣・佐方信規の「栄昌大夫人遺事」という文書が残されている。
この文章により私達は夫人の人間的すばらしさを思い知るのである。
栄昌大夫人すなわち宇土細川家八代藩主立之夫人冨姫(福姫とも 栄昌院)は、時の老中土井利厚(下総古河藩第3代藩主。土井家宗家10代)の三女であり、細川宗家を継いだ齊護の生母である。細川齊樹が疱瘡でなくなったあと、齊樹夫人が一橋大納言家の出身であることから、一橋家より養子を迎えることが取りざたされた。血脈の途絶えることを憂慮した細川家では、急きょ齊樹の甥(兄立之の子)宇土藩九代当主立政(齊護)を急養子として迎えるのである。思いがけず細川宗家を相続した立政(齊護)にたいして、栄昌院は教訓文を与えている。
 柴桂子氏の「女性たちの書いた江戸後期の教訓書」にも取り上げられているが、細川佳代子夫人は、この栄昌院の教訓文を取り上げて講演をもたれたことがあった。
栄昌院のDNAは現在の細川家にも脈々と流れており、佳代子夫人も敬愛されるところであろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 このたび存じがけなく龍之口ご相続の儀、まことに御身においてこの上もなき御誉、この身迄も面目これにまさり候こと無く候 ついては御心得の端にもと及ばずながら書き付け候 第一御身もち正しく人々に情深く公の御勤め怠りなく、御家ご大切にご家風みだれざるよう御政道能々お心かけられ、大小のこと共御家来中衆議をお聞置き得中、ご勘弁の上にて取り行われ万事ご一存にて無きようお心がけらるべく候 ご家来中多く候えば万事御心くばりのこと共に候わんか、いかようにお心を労され候でも御落度なきよう能々お心得ありたく候 御大国の御あるじとなり候ことは容易なきことにてはなく候あいだ、よくよくご思慮ありたく候
まさに日々のおこないには毎朝ご神拝の後、ご先祖様のご拝礼一日も怠りなくご養父様は御存生の如く何ごとも置かせあそばされ候ことは当分そのままに御改めなく随分ご大切にあそばされ候と人々も存じ候様になされ、何ぞのかど目にはまづご吹聴仰せあげられ候ようにありたく候 自然ござ候はぬお方はついつい御礼儀も疎かになり候ようのこともありがちなるものゆえ、能々ご失念無くお仏参りなどは尚更御怠りなきようにと存じ候 御暇々にはご学問お心にかけられ弓馬諸芸ともにご出精なされ、ご家中の励みにもあいなり候ようにと思召しにてご自身ご出精第一に候 御前様へは能々朝夕になにくれとこまやかにお心をつけられますよう、このところはこれまでも私へ御仕え候もこまやかに候へば安心に候 お上にはことのほかご孝心に居られそうろうだん承り及び候へば、尚さらその心にて万事ご孝行を尽くさるべく候 奥方様おいでの後はことさらに奥向最初よりよく取締り、乱りがわしきことども随分御慎みなされ、自然召遣いの人などでき候とも常々も申し候とおり我ままにならぬよう姑より能くお仕置き候よう、家風など乱れ候は兎角寵愛の過ぎ候より起り候 唐土にも大和にも昔より様々のためし有り候ことに候ゆえ、このところ能々わきまえ召遣われ候よう専一に存じ候 若きうちは随分と慎み深き人も年積りて却つて心緩み我儘募り身持悪しくなり候も間々あり候 なにごとも自然と御心にまかせ候節にいたり、御慎み肝要に候 無益の御驕りなど無く候ようなに事もこの方にて是まで種々心苦致され質素に暮しおり候を、かつてお忘れなく身に不足なときには昔のことはついつい忘れ候ままくれぐれも元を忘れぬよう朝暮お心にかけられ、だいたいお家のためご大切にたることをしばしば思召し忘れず候よう、第一にお心かけらるべく候 このたび加様に御めかねにて御譲りなされ候御家ご大切たることは幾度も申し候如く起臥にもお忘れあるまじくと存じ候 泰崇院様遠行ののちは別して此方家来共々入に心を砕き、丹精をこらし勤めまいらせ候人々のことをも思召しだされてしかるべく候 これ迄も孝心深くかねがね家居をさへ一つに住居候ようにとまで思召され候お心差し恭くとも嬉くとも言葉なく、さばかりのお志を頼みにてかかることとも書記しるし候 必ず別れ候てもその志空しからず候は、このしるし候こととも能々御守りたまわり、万事御身を慎み永く人々の尊敬したてまつり候ように御取治め下され候は、いかばかりの喜び、且は此方御先祖様・泰崇院様・寛敬院様までも御誉たるべく候 まことにかい無き心にてただただ心りに候へば、存じ候方端をだにとしるしつけ候まま、対面と思召しこの書折々ご覧賜り候べく候 御身養生専一に候へばこれ迄のとおり灸治等をも役目にて御すえなさるべく候 すすめ候人無きちきは怠り申すべく候 何くれを案しられ候あまりに、かかる事迄書き付け候も心のやみにて候 お許し賜るべく候 あなかしこ

        中務少輔殿                         栄昌院

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 立政は文政九年三月二十九日本家相続を命ぜらる。同四月十八日越中守と改む(23歳)
尚、栄昌院は立之の嫡男・雅之進(のち慶前)が、天保五年正月本家に入るまで(当時10歳)、その養育に尽力した。宇土細川家は栄昌院の二男・行芬が襲封した。

栄昌院 天保十二年正月廿五日卒 五十五歳 墓所・江戸清光院

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兵備

2011-02-17 10:33:49 | 歴史

明和六年武備を整える
    図示凡例・・・・・・・・・公族・家老  上太夫  中太夫  上士  中士

■御備組(外司馬)
  家老・六人            十二人    廿二人   六百人・十二組
   ○備頭--------------+--番頭------組頭-----番方
            | 五十人                 千百八拾餘人
            +--鉄炮頭----小頭------------------足軽
            | 十四人
            +--副頭
            | 二人             四百三十人・十二組
            +--長柄頭---------------------------足軽
            | 六人 又小荷駄奉行トモ云フ
            +--物奉行

■御留守居組(内司馬)
  公族隔年守之・二人   二人     二人    四人    百人
   ○城代---留守居大頭--+--番頭-----組脇-------組-----支配
             |
             +--着座
             |   四人     四人
             +--中小姓觸頭----組脇---+--組
             |           |
             |           +--列
             |           |
             |           +--格
             |   四人
             +--切米取支配頭---觸組
             |   一人     小頭二人・組廿八人
             +--掃除頭-----+--鉄炮
             |      |   組二百四十人
             |      +--新地鉄炮
             |      |   三十人
             |      +--掃除人
             |      |
             |      +--掃除頭支配
             |      |
             |      +--掃除方支配
             |
             +--大組附
             |
             +--物頭列
             |        十七人
             +--浦番-------+--口屋番
             |      |   六十八人
             |      +--下番
             |
             +--郡代-------+--一領一匹三百餘人(郡中ニ散在ス)
             |      |
             |      +--地侍   五百餘人(同右)
             |      |
             |      +--地鉄炮  二百三十餘人(土着)
             +--天守方

    家老松井氏           二人        五十人
   ○八代城代-----------------番頭----+--組脇-------城付
                   |  二人          外ニ城代松井氏ノ家臣アリ
                   +--目付
                      二人     二十五人
   ○佐敷番代-------------------------+--組脇-------詰番
                   |
                     +--目付
               二人
   ○鶴崎番代-----------+--郡代------+--一領一匹
            |      |
            |      +--地侍
            |      |
            |      +--足軽
            |
            +--船頭頭-----+--組脇二人
                   |
                   +--船頭-------加子

■御側組(大僕)
     家老一人          四人        六人      九十人
   ○側大頭-------------+--側鉄炮頭--------小頭-------側足軽
            |   四人       二人     三十人
            +--側弓頭----------小頭------側足軽
            |   二人      二十人     七百人
            +--長柄------------小頭------長柄者
            |   二十人
            +--使番
            |   二人      四人     三十人
            +--歩使番頭--------組脇------歩使番
            |   四人              八十人
            +--歩頭------------組脇------歩小姓
            |   二人              三十二人
            +--昇副頭----------小頭------昇者
            |   二人
            +--持筒頭----------小頭------持筒者 

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「当時養子の法なく・・・」

2011-02-16 19:11:18 | 歴史
宇野東風著「細川霊感(重賢)公」に、綱利に関する記述がある。言葉は穏やかであるが、綱利の奢侈ぶりを批判している。

 「按(あんずるに)本藩の困窮なりし事は、上編にも既に記述せし所なるが、其の原因を察するに、単に奢侈の風に感染せるのみならず、幕府の政策として、諸侯の富を削り、江戸の邸宅参勤の費用のほか、其の身代に應じて公邉属役を命じ、金穀を徴収せしより、入費増々嵩み、且綱利公甫(はじ)めて七歳にて就封せられ、又其際は削封分知の風説もありて、一藩大に動揺せし程なりしが、特例を以て遺領相続あり、又公子二人ましましゝかど、皆早世し給ひて継嗣なく、故に当時養子の法なく、遺子なき諸侯は没収せられければ、公は自身一代との考えにて、後世子孫の計なく、万事闊達に取賄はれ、収支相償はざることとなりしに、後養子の許可ありて、同族若狭守重利公の二子宣紀公を養子とせられ・・・・・・(以下略)」 
 綱利には側室・安住院に二人の男子(與一郎・吉利)があったが、惜しくも14歳・18歳で亡くなっている。ここで興味深いのは、「当時養子の法なく」という記述である。「二人の男子が亡くなり養子も取れないので、細川家も自分一代限り」と闊達に振舞われたと、いう訳である。
「当時養子の法なく」とはいかなることなのか、次のようなことではないかと思い至った。
 18歳で二男吉利が亡くなったのは、宝永三年四月廿五日である。
この時期綱利は「夜中越中」とあだ名されながらも、柳沢吉保の元を度々訪れている。
吉利の死後綱利はあろう事か、吉保の三男・安基を養子にすべく画策している。吉保は承諾したらしいが、当時の老中稲葉正住が「国許の家中は同心するのか、近親はいないのか、無縁の者の養子は御条目にたがうと反対をしたというのである。これは武家諸法度に定めがあるところであり、柳沢も綱利も承知の上での養子話であったのだろう。処が老中稲葉正住は、柳沢吉保のしっぺ返しを受けて老中を罷免されてしまうのである。宝永四年十二月、綱利は弟・利重の二男・利武を養子とすべく幕府に願い出、翌年の正月十九日に許可された。
 綱利は幕府に願い出て帰国を先延ばしにしている。江戸では「帰国すれば押し込めにあうからだろうと」うわさが立つほどであった。(尾張藩朝日定衛門重章・鸚鵡籠中記)
家老木村半平が諫言すべく次之間に詰めて数日を過ごしたという。(肥後先哲遺跡)
綱利が隠居し、宣紀(利武)が襲封するのは、正徳二年七月のことである。
 生母・清高院とともに奢侈の質であった綱利の時代、側近の横暴もあり細川家の財政は悪化の一途をたどる。宝永九年の九州筋巡見使報告「九州土地大概」によると、「国政悪民大ニ困窮ニオヨフ」と痛烈である。
このような資料を読まされると、気が重くなってしまう。
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資料の取り出し

2011-02-16 10:15:44 | 徒然

 昨日はある資料(古書)を読んだり、20:00からはBS-TBSの「唐招提寺」を二時間みたりしていたら、ブログを書きそびれてしまった。(本当のところはネタ切れなのだが・・・)

 現在エクセルで所有する資料の一覧を作っている。どこに何があるかが判らず、いまだに発見できない資料があったりして往生している。キーワードを幾つも忍ばせた一覧表から、「検索」機能をつかって一気に探し出そうという魂胆である。

 ファイルに背表紙をいれナンバーを打ち、収納しているもののインデックスをつくる。
袋に入れているものも同様である。
先祖附は「あいうえお」順に並べ替えてファイルしなおしたり、大仕事となってしまった。
おまけに検索のためのキーワードを見つけるために、内容を読み返したりしていると、すぐ一日を費やしてしまう。とんでもないことを始めたもんだと、いささか悔やんでもいるが引っ込みも付かない。

 皆様は資料の取り出しはどうなさっていますか・・・・

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目からうろこ

2011-02-14 23:06:39 | 歴史

 今日のぴえーるさんのブログ、「中院通勝と伊与局」にはちょっとショックを受けてしまった。
        http://d.hatena.ne.jp/muxia/

 ガラシャ夫人をキリスト教入信へと導いたとされる清原マリア(いと=清原枝賢女)が、天正八年不義事件で勅勘を蒙った中院通勝の相手女官の伊与局だと解説しておられる。
詳細は上記アドレスから全文をお読みいただきたいが、なるほどと納得してしまった。
相変わらずの博学ぶりにただただ脱帽し、感謝申し上げたい。

 中院通勝はこの事件で、慶長四年に赦されるまで十九年もの間細川家庇護の下にあった。
翌慶長五年、幽齋が籠城する田邊城に朝廷の使者として来るのが通勝等である。
その直前ガラシャ夫人は玉造の屋敷で生害するのである。
一方清原マリアの「勅勘を蒙った不義事件」から「クリスチャン」への転進、そしてガラシャ夫人を入信へと導いた事実、非常に謎に満ちていてミステリアスである。

 付け足し:中院通勝女・権典侍中院局も又、慶長十二年朝廷を揺るがした不義密通事件(猪熊事件)に連座して伊豆新島に配流されている。
     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E7%86%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6


 追記:
2/15 ぴえーるさんのブログに、『言継卿記』及び『お湯殿の上の日記』の記述から中院通勝の不義の相手は「伊与局」ではないであろうとのコメントがあった。
内容が高尚すぎて近寄りがたいが、こういうやり取りは小気味良くてうれしくなってしまう。
お二方に感謝。

兼見卿記・一 天正8年6月19日   (これは別人か・・・・・?) 
吉田兼見、当番として二条御所へ祗候。
殿中に於いて水無瀬兼成より、中院通勝が伊与局との不義により逐電した由を知らされる。


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2/24日発売・予約受付中

2011-02-14 15:11:25 | 書籍・読書

熊本大学永青文庫研究センターが、「永青文庫叢書」の第二弾として、「細川家文書 絵図・地図・指図編 Ⅰ」を吉川弘文館から刊行する。
以下同社のサイトから引用ご紹介する。(一部編集) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

中・近世屈指の大名家に伝来する最大級の資料群 細川家の政治活動と伝統文化を知る待望の第二冊!

    著者:        熊本大学文学部付属永青文庫研究センター編
    出版年月日:   平成23年2月24日
    判型・ページ数: A4・258ページ
    定価:        本体25,000円+税

【目次】
序文…小堀富夫/例言/図版編(細川家肥後入国以前〈山城・丹後在国期関係/豊前在国期関係〉/細川家肥後入国以後〈江戸/熊本藩・熊本/熊本藩領の町と村/豊後国の熊本藩領(鶴崎・佐賀ノ関)〉)/解説編(永青文庫諸蔵の「絵図・地図・指図」―景観と建築―…北野 隆/跋文…甲元眞之/収録史料目録

【内容説明】
細川家に伝わる1000点余に及ぶ絵図類のうち、「景観と建築」に関わる重要資料168点を厳選し収録する。細川幽斎の田辺籠城図など貴重な戦国期資料をはじめ、江戸城や大名屋敷・町屋を描いた江戸関係の図、熊本城や国許屋敷、寺院・茶屋・民家など領国肥後における図をオールカラーで掲載。中・近世大名の政治活動と伝統文化を知る待望の史料集。

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和敬塾+永青文庫+新江戸川公園

2011-02-13 14:40:11 | 徒然

 

 永青文庫や新江戸川公園、和敬塾を含めた旧細川邸の敷地は、高田老松町・高田豊川町・関口臺町にまたがる、12.5ha(約37,800坪)の土地である。写真の二本の老松が町名の由来になっている。かつて東京のS様からお贈りいただいた、昭和21年の東京市小石川区の地図は、私の貴重な財産となった。この写真の二本の松の位置は、切絵図(雑司ケ谷音羽絵図)にも「鶴松・亀松」の表記があり、現在の目白通り和敬塾入り口あたりだろうか。   http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=27

 昭和42年町名変更により目白台1丁目になった。ちなみに永青文庫は1丁目1番1号である。この場所はかっての家政所の跡だそうだから、わがじい様が勤めていた所である。
     http://www.eiseibunko.com/history.html
 邸内にあった職員宿舎(?)が、何処にあったのかがいまだ判らない。何方かご存じないだろうか。

 護立公がお建てになった、通称「細川侯爵邸」は、戦後オランダ軍に接収され、その後和敬塾となった。
     http://www.wakei.org/honkan/index.html
     http://homepage2.nifty.com/matsuken/sanpo01.htm

 庭園部分は現在「新江戸川公園」となっている。ここにあった学問所「松聲閣」のことを調べていたら、次のような資料に遭遇した。平面図もあってこれはGOOD。 http://www.city.bunkyo.lg.jp/var/rev0/0021/3698/tyousahoukokusyo.pdf
今後どのように活用されるのか期待するところである。
 
 早稲田方面に出るために母は苦労して胸突坂を上り下りしたと言う。
今でこそ舗装された道だが、昭和10年代どのような有様だったのだろうか。
元気なうちに今一度訪ねてみたい胸突坂である。(タモリ氏にレポートしてほしいな~)

 若干の思い違いがあり一部訂正す 2/14 18:47

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講演「細川ガラシャの最後をめぐって」

2011-02-12 17:15:53 | 歴史

 熊本県立美術館においての、東京大学史料編纂所の金子拓先生の上記講演会に出かけた。信長研究の金子先生がなぜガラシャに興味をもたれたのか、それは太田牛一の著になる「関ヶ原御合戦双紙」の研究を通してだそうだ。それと「内府公軍記」「太田和泉守記」との比較である。確かな資料による解説は説得力があり、大変面白い。

 細川家に伝わる「ガラシャの最後」は、ガラシャの孫光尚の要請に応えたあの「霜女覚書」によっている。一方夫忠興が得た情報が、宇土細川家に伝わったのではないかと思われる節が在る。宇土細川家は本藩とは別に、いろいろ調べたらしい。宇土の史料は、水害や戦火に遭い散逸しており、残されたものは九州大学の所蔵するところとなっている。
こちらの史料からはいささか趣を異にする情報が伺える。稲富祐直の逃亡などは、弟子達が集まって屋敷からの退散を促したのだという。又兼見卿記における、ガラシャと思われる人(与一郎女房衆)の安産祈願に関する記事など、大変興味深く拝聴した。

 今回の講演は参加者が一番多かったそうで、資料が足らず担当者が右往左往する有様で、開演が遅れるという事態が起きた。さすがに女性の参加が目立った。
質問の時間に「小須賀覚書」その他一二をお尋ねしご丁寧な回答をいただいた。帰り際に一言ご挨拶を申し上げて、帰途に着いた。詳しいレジュメは有難い資料としてわが本棚に並ぶことと相成った。

 

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珍品のお値段

2011-02-12 10:20:12 | 徒然

 最近展覧会の図録をオークションで求めている。(10数点に及んだ)
この度は1994年1月そごう美術館で行われた「永青文庫所蔵 細川家にみる大名文化展」の図録である。これがなんと300円で落札と相成った。「やったぜ」と思ったら後がいけなかった。出品者とのやり取りの仲で、送料がゆうパックで1,100円だという。入札前に気が付くべきだったが後の祭り、振込み料金315円を含め1,715円の買い物となった。
(送付の方法や銀行が特定されていて、否応ナシである)

 届いた品物は新品といっていい。ぱらぱらめくっていたら何と内表紙が天地さかさまに閉じこんである。乱丁本である。いまさら出品者に文句を言っても仕方ないし、「珍品」だと思うことにした。なんといっても300円だから・・・・・・

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