津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

コルビジエを論ずる

2011-02-10 10:39:38 | 徒然

 お聞き苦しいかと思うが私事である。
私が一歳半の頃父は死んだ。故に父のことについてはほとんど知らない。
結核で死んだのだろうと思うが、母は一切語らなかった。知っていることと言えば、早稲田の建築を出て、台湾総督府で建築技師として働いていたことくらいである。

 子供達のために先祖のことを書き残したいと思い、父の早稲田における資料がWEB上で見つけられないかと考え、名前を打ち込んで検索してみた。こちらはヒットしなかったが、思いがけない事柄に遭遇し吃驚してしまった。
「再論日治時期台灣官方営繕組織」というサイトに父親の名前があった。
           1936 年(任府技手) ■■■■
又、「臺灣建築會」というものがあり、その会誌に父親が投稿した記事(目次のみ)があった。

臺灣建築會誌,第3輯第6號 (昭和6年11月)      日治時期臺灣研究古籍資料庫。
                    ル・ コルビユジエの事ども: 附アンドレ・リユルサ  ■■■■ 
  
 同      第4輯第3號・音響學的建築平面及斷面計畫に就ぃて 
   同      第4輯第4號. 室內に於ける音波の波及狀態を知る方法に就いて

 コルビジエや
建築の音響について論じている事について、驚くとともにほほえましく感じた。
上記の記事によると昭和6年(1931)にはすでに台湾に居り、1936年に「総督府の技手」に任ぜられた事となる。そんな中で、1935年7歳年上の姉は台湾で生まれた。いつ帰国したかも定かではない。(除籍謄本で判るのか?)1942年1月私は東京で生まれたが、父はすでに罹病していたのだろう。
思いがけなくWEB上で父親の生き様を知りえたのは大変驚きだった。

 私も導かれるように建築の道に進んだが、まさか父親がコルビジエについて論じているとは思いもよらなかった。同じ建築を志した者として、その内容を知る術はないかと思案中である。

コメント (3)
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