津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

八條家

2011-02-11 09:48:38 | 歴史

 細川重賢公と時代を同じくする宇土細川家の当主は細川興文公である。
一時期「老中」にという話が出るほどの人物であった。女・埴が重賢の息・治年の室となり、埴の弟・立禮が治年の養嗣子となり宗家に入って齊茲となった。以降宗家の血は宇土家の血といっても過言ではない。

 さて、興文の正室は八條中納言藤原隆英女於敬である。わずか六年で離別している。
八條家で思い出されるのは、細川光尚の継室についてである。父・忠利は室・保壽院の実家である小笠原家から迎え入れたいと考えたらしい。右近殿息女とあるから忠利からすると姪(義兄の娘)でもあり、小笠原家側も了解されたことであったらしい。ところが何処からの申し入れなのか、八條家からの話が舞い込んでくる。忠利の困惑振りをうかがわせるいくつかの手紙が残されている。寛永十五年九月頃のことである。
天草島原の乱も一段落した頃のことであるが、頓挫した理由が今ひとつはっきりしない。
寛永二十年正月には、嫡子綱利が清高院の腹から誕生することになる。

 小笠原家の姫が何方なのか、八條家の姫が何方なのかこちらも判らない。

八條隆英の室は吉田兼治(幽齋の娘婿)のひ孫兼敬の娘である。兼治の子・兼従(萩原家祖)は宇土細川家二代行孝を預かり京において養っている。(この理由も良くわからない)
諸家の係累をたどると、興文と八條家の関係も降ってわいた話ではないように思われる。

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コルビジエを論ずる

2011-02-10 10:39:38 | 徒然

 お聞き苦しいかと思うが私事である。
私が一歳半の頃父は死んだ。故に父のことについてはほとんど知らない。
結核で死んだのだろうと思うが、母は一切語らなかった。知っていることと言えば、早稲田の建築を出て、台湾総督府で建築技師として働いていたことくらいである。

 子供達のために先祖のことを書き残したいと思い、父の早稲田における資料がWEB上で見つけられないかと考え、名前を打ち込んで検索してみた。こちらはヒットしなかったが、思いがけない事柄に遭遇し吃驚してしまった。
「再論日治時期台灣官方営繕組織」というサイトに父親の名前があった。
           1936 年(任府技手) ■■■■
又、「臺灣建築會」というものがあり、その会誌に父親が投稿した記事(目次のみ)があった。

臺灣建築會誌,第3輯第6號 (昭和6年11月)      日治時期臺灣研究古籍資料庫。
                    ル・ コルビユジエの事ども: 附アンドレ・リユルサ  ■■■■ 
  
 同      第4輯第3號・音響學的建築平面及斷面計畫に就ぃて 
   同      第4輯第4號. 室內に於ける音波の波及狀態を知る方法に就いて

 コルビジエや
建築の音響について論じている事について、驚くとともにほほえましく感じた。
上記の記事によると昭和6年(1931)にはすでに台湾に居り、1936年に「総督府の技手」に任ぜられた事となる。そんな中で、1935年7歳年上の姉は台湾で生まれた。いつ帰国したかも定かではない。(除籍謄本で判るのか?)1942年1月私は東京で生まれたが、父はすでに罹病していたのだろう。
思いがけなくWEB上で父親の生き様を知りえたのは大変驚きだった。

 私も導かれるように建築の道に進んだが、まさか父親がコルビジエについて論じているとは思いもよらなかった。同じ建築を志した者として、その内容を知る術はないかと思案中である。

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春到来

2011-02-09 09:57:10 | 新聞

 この冬は雨が降らず乾燥しきって一雨欲しいと思っていたら、昨日はわずかばかりの恵み雨が降った。「新燃岳」の降灰被害地では土石流発生の恐れがあるとかで、こちらは雨が降らないようにと願っておられることだろう。
インフルエンザが流行しはじめたし、我が家では乾燥肌の息子が「かゆいかゆい」と背中をぼりぼりしている。乾燥注意報も解除されてなんだか空気もしっとりした感じがする。

 立春がすぎても風は冷たいが、ついつい「春は名のみの風の寒さよ ♪」と歌いだしてしまう。
2/5の地元熊本日々新聞の「新生面」を読み返していたら、この「早春賦」の作詞者・吉丸一昌氏と、三男喜直氏の話が載っていた。(以下新聞からの受け売り・・・)
喜直氏は「夏の思い出」「小さい秋見つけた」「雪の降る町を」など、夏・秋・冬を主題とした名曲を作り出されたが、春だけはないと言う。「父の早春賦にまさる曲を作ることは出来ない」と話されたいたそうだが・・・・・・良い話だ~と、くしゅんとしてしまった。

 「おもだか」を植えている水盤に、昨年、切り落とした「せり」の根を植えてみたのだが、これが見事に芽を出した。春到来である。
(おもだかの為には良くないかもしれない・・・・どうしようかと思案中)

 

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護貞さまのお名前

2011-02-09 08:33:54 | 歴史

 細川家は13代齊護公のお子様から、「護」の字が通字となっている。
護前、護順(13代韶邦)、護久(14代)、護明(津軽藩主・承烈)、護美の五兄弟である。
護久の子が、護成(15代)、護全(護美養子)、護晃(男爵家創立)、護立(16代侯爵)の四兄弟、護立の子・護貞(17代)から、護煕(18代)とつづき護光さまへと至っている。

 護貞さまの「貞」の字について、その御著「思い出の人々・揮麈憶往録」には次のように在る。
 私の名の「貞」の字は祖母がつけたのだそうだ。二代忠興の夫人ガラシャが大坂玉造邸で自殺したのが旧暦の七月十七日であったが、私が生まれたのが新暦の七月十七日で、その縁起から貞節の貞をつけたと聞いたことがある。

 2月2日のブログでご紹介した、「遊行七恵の日々是遊行」というサイトの永青文庫の展覧会【鴎外・漱石と肥後熊本の先哲たち】 を紹介する一文に、「護貞さま」の命名に関する手紙が出品されていたが記されている。

 竹添進一郎 書簡・蓑田喜太郎あて
【1912年夏に生まれ来る細川家の赤子の名前をいくつか考え、その候補を書いたのが内容。中に「護貞」があった。】

 竹添進一郎は「井々」の号で読んだほうが通りが良い、高名な漢学者である。
    http://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E6%B7%BB%E9%80%B2%E4%B8%80%E9%83%8E
 蓑田喜太郎は号を耐軒と称し、細川家の家扶を務めた人で、護立公の信頼厚かった人である。
通字「護」を冠したいくつかの名前が井々の手によりつくられ、この中から護久公夫人(鍋島)宏子様がお選びになったと言うことであろう。
どのような名前が並んでいたのかも、ちょっと気になる。

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ガラシャの覚悟

2011-02-08 08:55:50 | 歴史
 文禄4年(1595)豊臣秀次の事件に際し、忠興は血判などにより連座の嫌疑を受け、一時は賜死の処置さえ囁かれ絶体絶命の危機に至った。家老・松井康之の奔走により事なきを得たが、その折の細川家の覚悟を示す次のような一文が残されている。
「被請御検使御切腹被成由相聞候ハゝ即刻 御前様 御子様江御生害を奉勧御屋舗を焼払候様ニ与被仰付候」

 ガラシャの生害はこの五年後のことである。
「関東軍記大成-巻之九・丹後侍従内室自害」は、ガラシャの最後に臨んでの心境を次のように表現している。
「我が父明智日向守謀叛を企て、信長公を弑し給ひし時、忠興の離別に逢ひて、丹後の山家に隠れ居たりし頃、主君を殺したる人の娘なりと、賤山かつにも譏られて、余りの口惜しさに、自害せんと思ひ立ちしが、与一郎未だ幼少なり。今少し生きたてゝ、忠興に返しなんとする内に、又呼返れて、年月を送り、近き頃は、諸大名の奥方、淀殿へ参る事ありしを、自ら身を恥じられて、参りもせざりしが、今又、城中へ入りて、人に面を晒す様なし。只、心能く自害せん・・・・」としている。この様な思いがガラシャにあった事は事実であろう。しかしながら、この著者は「此説の虚実定かならず」としている。
介錯を務めた小笠原少斎は、このことをして「やむなし」と判断したようにあるが、ガラシャの覚悟は、「細川家の覚悟」の元にあったと考えるべきであろう。
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北岡自然公園(旧・妙解寺)入口が変ります

2011-02-07 16:38:38 | 歴史

 熊本市役所のサイトでは案内もないようですが、北岡自然公園(旧・妙解寺)の入口が2月14日より変更になります。まさしく以前の妙解寺の正門が入り口となりました。
九州新幹線開業に向けて、整備が行われていましたが、これを機会に入り口が正式な場所にもどったということです。駐車場は元の場所(旧入口)のままだろうと思われますが、少々歩いていただくことになりそうですね。立春を過ぎてさすがに暖かさも増してきました。
どうぞお出かけ下さい。

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清原マリアと小侍従

2011-02-07 09:09:04 | 歴史

 ガラシャ夫人に近侍し受洗の橋渡しをしたとされる、清原マリアを清原枝賢の娘とするのは、フロイスの「日本史」に記述によるところだそうだ。その名前「おいと」は、石山本願寺の侍大将であった宇野主人が著した、「宇野主人(水)日記」の「オイトノカタ」によるとされる。
しかしながら資料が乏しくコメントが出来ない。
 一方小侍従については、ガラシャ夫人に面差しがよく似て代理として秀吉に面談した事などでよく承知をしている。のち平田(松本)因幡に嫁ぎ娘一人(屋々)をなした。こちらは先祖附からはっきり伺うことが出来る。

 昭和55年9月毎日新聞社は、大坂築城400年まつりにちなみ、「愛と信仰に生きた細川ガラシャ展」を開催している。その時現存が確認されている、ガラシャ夫人の手紙15点を展示したとされるが、今後再びこのような快挙が起こりうるであろうか。
        ・こじじう殿          五通
        ・まつもとのこじじう殿    二通
        ・松本殿こじじう殿      一通
        ・松本殿ないぎ参る     三通        ?
        ・まつもとのかもじ殿    一通        ?
        ・ゑもじ殿           一通  (越中=忠興のことか)
        ・そうしゅん殿         一通  (   不明   )
        ・ひこのしん■         一通  (娘屋々の婿・平田彦之進)
 このうちの八通が小侍従宛てであるとされている。展覧会の図録に其の全てが紹介されていて今では大変貴重な資料である。

 いろんな著作やサイトで清原マリア=小侍従としているのは明らかな間違いである。
いったい何時ごろどのような形でこの二人が混合されることになったのだろうか。
よくよく検証もせず、人様の間違った説を引用しているサイトなど多く見られ、間違いが増殖している。多いに心していただきたいと思う。

【宇野主水日記】[うのもんどにっき]
     
宇野主水著、上松寅三編纂校訂、『石山本願寺日記 下巻』所収、清文堂出版

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沙汰の限り・・・

2011-02-06 15:32:22 | 些事奏論

 ついに大相撲大坂場所の中止が決まった。大方が予想していた所だろうが、くるべきものが来たと言うところか・・・
私も熊本で行われた地方場所を土俵近くで見たことがある。まだ小錦が活躍していた時代だが、その大きさや迫力にすっかり魅了されたことだった。鴉のぬれ羽色のまわしの美しさや、鬢付け油の香りなどまさに相撲の世界にのみ残された「日本」を再確認させられた。

 今般の不祥事は、八百長を認めた「千代白鵬」が、熊本(山鹿)出身であるというのも、ショックである。先の疑惑の時には「木瀬部屋」が廃業に追い込まれたりしている。

 熊本にはかつて「相撲の神様・吉田司家」があったが、これも何かしら不祥事に巻き込まれて絶えてしまった。藤崎宮の参道にあった吉田家の跡はマンションに生まれ変わって、往時を偲ぶ術もない。家老から諫言を受けるほど相撲が大好きであった綱利公だが、「沙汰の限り・・・」とでも仰っているか。

 よっぽど性根をすえての調査や改革が行われないと、国技の行く末は闇の中である。
なんだか政治の世界もご同様か・・・・どちらも待ったなしでお願いしたい。

 

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有吉家文書「年中行事抜粋」(廿三)御在國年五節句御禮式(二)

2011-02-05 10:22:19 | 有吉家文書
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「三藐院 近衛信尹―残された手紙から」

2011-02-04 17:06:44 | 書籍・読書
  三藐院 近衛信尹―残された手紙から
  前田 多美子
  思文閣出版

 「熊本史談会」でいつも講師をお願いしている下津先生は、加藤清正臣・下津棒庵のご子孫である。今般、近衛信尹が細川休無齋(忠隆)に対して下津棒庵の消息を尋ねる文書が、益田孝著「古文書・手紙の読み方」に掲載されていることをお教えいただいた。

           先日之古今者如何成
           候哉途中故不能返礼
            心外候棒庵はいつかたに被居
           候哉用之事候間此者に
           人をそへられ候て可給候かしく
              六月四日

                   休無齋   ●(信尹花押)

 時代が判らないが、人間関係が大変興味深い。
三藐院 近衛信尹―残された手紙からに、この手紙が紹介されているかどうかは別として、これは読まねばなるまいと購入の手配をした。

 信尹(信輔)は一時期(文禄三年~五年)勅勘を蒙り薩摩の坊津に流されている。その時期幽齋が薩摩を訪れている。
【藤孝君、文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、(中略)御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、(以下略)】と綿考輯録は記す。
幽齋が帰った翌年文禄五年七月、近衛信尹(信輔)は勅勘を赦され薩摩を離れる。その折阿蘇惟賢が随従して京へ登る事になる。そのときの紀行文が有名な「玄与日記」である。一名「阿蘇黒齋玄与近衛信輔公供奉上京日記」とよぶ。一行が京へ入ると、幽齋が駆けつけていることがこの日記から伺える。

 阿蘇家は惟前と叔父惟豊が守護職をめぐって争ったが、これに敗北した惟前は島津家を頼った。惟前の子・惟賢も秀吉の九州征伐に際し、矢部の浜の館を脱して島津家へ奔った。当時島津家には勅勘を蒙った、近衛信輔が流謫の身を置いている。幽齋が鹿児島を訪れた時、当然ながら惟賢との対面もあったであろう。歴史のめぐり合わせの不思議さを感ずる。

 

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有吉家文書「年中行事抜粋」(廿ニ)御在國年五節句御禮式(一)

2011-02-04 11:48:18 | 有吉家文書

一五半時之揃ニ付麻上下着五時出仕之事
一御機嫌伺無之候事
一同席不参之面々并隠居より之使者者差出
  相成候間相揃候上坊主より知せ候得ハ御用番
  口之間二枚屏風之角西と南ト壱間之所
  直ニ座着使者は坊主衝立之陰より
  繰出候得ハ北之壁付東頭ニ罷出謁候
  事
      但御一門衆使者御在國者御小姓頭
      之方江差出ニ相成候間御請詰所へ答ハ
      いたし候由之事
一右使者謁相済候得者機密間より申上之
  書付二通当代一通隠居同差出候間御請書上之箱ニ
  入坊主を以御用人江遣候事
一御禮相始候節ハ御小姓より案内有之
  御一門衆同席三家嫡子 見習出方無之人共 一同ニ多門
  より御立之間外東板椽を通り中柱
  御間江罷出佐野御間御椽側御使番列座之前を罷通坐着風鳥
  御礼口より入御杉戸を後ニ〆南頭ニ座着
  御一門と同席中之間タ不及欠席致坐着候 右中柱迄通筋
  出仕之面々坐着ニ相成居候得共会尺ニ
  不及罷通候事 此儀書付ハ同席風鳥之御杉戸後ニシテ
一御出座之節大御目附平伏之様子を見
                 坐着致し候付御向詰無之と決
  何れも平伏之事
一御座着之被遊候を奉見上候而一同ニ九曜之御間
  御敷居内ニ入壱畳目ニ而一同ニ御禮申上候
  尤御一門衆ハ二畳ニ進御祝儀申上候段
  丁口より 御一門衆不参之時ハ同席丁口より申上 被申上夫より御一門衆始
  九曜之御間南之御入側江列座之事


             只今書き込み中 

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又々 地震の間

2011-02-03 13:09:24 | 建築

 建築の設計を生業としてきた者として、「地震の間」とはいかなる建物であったのか大変興味がある。ガラシャ夫人が最後を遂げられたのは、玉造の御屋敷の「地震の間」であったと「関ヶ原記」や「小須賀覚書」は記している。

 豊前時代においても小倉城内に建設されていたことが「奉行日録」などで確認できる。
熊本の花畑邸に於いては、数葉の絵図にその所在を確認できるし、江戸藩邸にも見受けられた。

 現在彦根城の整備が行われているが、その一環として「楽々圓保存整備事業」があり、この中に「地震の間」その他の整備が23年度から6年間に亘り行われると言う。
この建物は「地震の間」と呼称する唯一の遺構建築ではないかと思われる。
数種の論文が確認されるが、さきがけとなったのが昭和15年4月に地震研究所の斎田時太郎氏が発表された「彦根城楽々園地震の間について」である。
詳細な測量を行うとともに、地震の間としての構造的仕様の確認作業を行っている。
複雑なプランが入り組んだ一画にある、「八畳、四畳、二畳半のへやと東西の廊下・縁」からなる小さな数奇屋造りの建物である。床面が足堅という135×360(㎜)という大きな部材で縦横に固められ、小屋裏を高くしてここに筋違いを入れてあるという。また水平方向には15㎜の麻縄がタスキがけ(ブレーシング)に入れられていると言う。
  細川家の御花畑邸の「地震の間」がどのような構造であったのか、現在では知る由もないが、その間取りから見る限り「楽々園」同様壁面の耐性がまったくない構造である。
とても大きな地震に耐えうる構造とは考えられないが、「楽々園の地震の間」は、当時の匠達の耐震に対する想いが見て取れてる。

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免許更新

2011-02-02 17:30:52 | 徒然

 誕生日前後一ヶ月が車の免許更新の期間である。誕生日後二週間以上経過したので、そろそろ行かずばなるまいと午前中出かける。シートベルトの違反を何度かやっているので、違反者講習2時間と相なった。おまけに有効期間が3年となった。つい先日「もみじマーク」に変って「クローバーマーク」が登場したが、まだ私は対象者ではないが来年はこれを付けなければ成らない。(義務ではないが・・)そして次の更新時は高齢者講習を受けなければ成らない。 
「交通の教則」をみると、交通法規が随分変っていることに驚かされた。「普通免許」だったのが「中型(限定)免許」となったし、免許証の裏面にはいわゆる「臓器提供」に関する意思表示欄などが設けられている。
あと三年後「免許証返還も有かなー」とか、「臓器提供はどうかなー」とか、いろいろ考えさせられる講習だった。

 皆様も被害者・加害者のいずれの当事者にも成られません様、とにもかくにも「安全第一」でお過ごし下さい。

 

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私事で恐縮ですが・・・

2011-02-02 16:04:02 | 徒然

 先ごろ先輩から、熊本近代史研究会創立50周年記念号の「近代熊本」を御恵贈いただいた。「韓国併合100年、大逆事件100年特集」とある。佐々友房の弟・正之が、「九州日日新聞」に明治43年8月13日~26日まで連載した、「韓国と熊本県人」という記事に我が祖父の名前が登場していた。日韓併合条約調印の直前の記事である。祖父は「朝鮮語学校」の校長をしていた関係で、若干触れられている。
日韓併合に対し祖父がどう考えていたのか、今では知る由もないが、九州大学の稲葉継雄氏は論考「旧韓末『日語学校』の日本人学校」(昭和63年国立教育研究所紀要)で祖父を取り上げ、「国士」だと評されている。
併合の積極論者であったのだろうかと、いささか呆然とする。

 何か情報はないかとググってみると、これとはまったく関係ない事柄に遭遇してこちらにも驚いてしまった。「遊行七恵の日々是遊行」というサイトに、永青文庫の展覧会【鴎外・漱石と肥後熊本の先哲たち 平成20年1月5日(土)~3月16日(日)】 についての記事があった。ここに狩野直記が祖父に宛てた手紙が出典されていたという。それも文庫設立に対して「永青文庫」ではどうかと相談をしたらしく、その事に対しての返事であるらしい。祖父は当時細川侯爵家の家職を務めていたが、狩野直記は妻の叔父という関係である。ともあれ、永青文庫命名に関してこのような文書が残されていたことに驚いている。

        yugyofromhere.blog8.fc2.com/blog-entry-1062.html

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有吉家文書「年中行事抜粋」(廿一)御発駕ニ付而為御見立大津御一宿江罷出候式(ニ)

2011-02-02 15:03:36 | 有吉家文書

一翌朝御供揃之前ニ御用人間へ罷出
  居候事
      但罷出宜時分ハ御用人より知らせ有
      之候得共見計前廣ニ罷出居候事
一御発駕前ニ被召出候間御用人より案内
  有之御帰國之節之通御居間へ罷出
  御手熨斗長のし頂戴例之面々江
  御意之趣被為在候間奉伺直ニ下り候
  事
      但御人拂之御用も有之候ハヽ前条
      之通候事
一夫より御用人間へ控居候ヘハ御意之趣之
  稜付御用人より差出候事
      但右稜付者手廻之ため堂免ニ
      取置候儀も有之候事
一御供廻り之時御居間御次之椽より
  下り御路地内御向側中門際ニ罷出居
  御居間より被遊御出候を奉見上
  下坐御駕之戸明候所ニ而御辞儀仕夫
  より御駕御通ニ相成御路地外迄
  罷出御跡ニ而元之如上御用人間江
  罷越候事
      但手傘草履御路地江下り様家
      来心得等諸事御迎之通候事
一供者御次小姓より致世話廻候得者
  御発駕後ハ早速御玄関江供相揃
  候之様急而可申付置事
一右之通ニ而相済旅宿江直ニ致着替
  罷帰候事
一帰宅之上只今罷帰
  御意之趣有之候間明日於御殿
  可相達段御用番江以紙面申達
  候之事
一翌日寄合平服ニて例刻出仕御一門衆
  同席中三家嫡子於詰間例之通
  御意申達夫より於口之間例之面々
  右同断之事

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