津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「三藐院 近衛信尹―残された手紙から」

2011-02-04 17:06:44 | 書籍・読書
  三藐院 近衛信尹―残された手紙から
  前田 多美子
  思文閣出版

 「熊本史談会」でいつも講師をお願いしている下津先生は、加藤清正臣・下津棒庵のご子孫である。今般、近衛信尹が細川休無齋(忠隆)に対して下津棒庵の消息を尋ねる文書が、益田孝著「古文書・手紙の読み方」に掲載されていることをお教えいただいた。

           先日之古今者如何成
           候哉途中故不能返礼
            心外候棒庵はいつかたに被居
           候哉用之事候間此者に
           人をそへられ候て可給候かしく
              六月四日

                   休無齋   ●(信尹花押)

 時代が判らないが、人間関係が大変興味深い。
三藐院 近衛信尹―残された手紙からに、この手紙が紹介されているかどうかは別として、これは読まねばなるまいと購入の手配をした。

 信尹(信輔)は一時期(文禄三年~五年)勅勘を蒙り薩摩の坊津に流されている。その時期幽齋が薩摩を訪れている。
【藤孝君、文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、(中略)御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、(以下略)】と綿考輯録は記す。
幽齋が帰った翌年文禄五年七月、近衛信尹(信輔)は勅勘を赦され薩摩を離れる。その折阿蘇惟賢が随従して京へ登る事になる。そのときの紀行文が有名な「玄与日記」である。一名「阿蘇黒齋玄与近衛信輔公供奉上京日記」とよぶ。一行が京へ入ると、幽齋が駆けつけていることがこの日記から伺える。

 阿蘇家は惟前と叔父惟豊が守護職をめぐって争ったが、これに敗北した惟前は島津家を頼った。惟前の子・惟賢も秀吉の九州征伐に際し、矢部の浜の館を脱して島津家へ奔った。当時島津家には勅勘を蒙った、近衛信輔が流謫の身を置いている。幽齋が鹿児島を訪れた時、当然ながら惟賢との対面もあったであろう。歴史のめぐり合わせの不思議さを感ずる。

 

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有吉家文書「年中行事抜粋」(廿ニ)御在國年五節句御禮式(一)

2011-02-04 11:48:18 | 有吉家文書

一五半時之揃ニ付麻上下着五時出仕之事
一御機嫌伺無之候事
一同席不参之面々并隠居より之使者者差出
  相成候間相揃候上坊主より知せ候得ハ御用番
  口之間二枚屏風之角西と南ト壱間之所
  直ニ座着使者は坊主衝立之陰より
  繰出候得ハ北之壁付東頭ニ罷出謁候
  事
      但御一門衆使者御在國者御小姓頭
      之方江差出ニ相成候間御請詰所へ答ハ
      いたし候由之事
一右使者謁相済候得者機密間より申上之
  書付二通当代一通隠居同差出候間御請書上之箱ニ
  入坊主を以御用人江遣候事
一御禮相始候節ハ御小姓より案内有之
  御一門衆同席三家嫡子 見習出方無之人共 一同ニ多門
  より御立之間外東板椽を通り中柱
  御間江罷出佐野御間御椽側御使番列座之前を罷通坐着風鳥
  御礼口より入御杉戸を後ニ〆南頭ニ座着
  御一門と同席中之間タ不及欠席致坐着候 右中柱迄通筋
  出仕之面々坐着ニ相成居候得共会尺ニ
  不及罷通候事 此儀書付ハ同席風鳥之御杉戸後ニシテ
一御出座之節大御目附平伏之様子を見
                 坐着致し候付御向詰無之と決
  何れも平伏之事
一御座着之被遊候を奉見上候而一同ニ九曜之御間
  御敷居内ニ入壱畳目ニ而一同ニ御禮申上候
  尤御一門衆ハ二畳ニ進御祝儀申上候段
  丁口より 御一門衆不参之時ハ同席丁口より申上 被申上夫より御一門衆始
  九曜之御間南之御入側江列座之事


             只今書き込み中 

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