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三藐院 近衛信尹―残された手紙から |
前田 多美子 | |
思文閣出版 |
「熊本史談会」でいつも講師をお願いしている下津先生は、加藤清正臣・下津棒庵のご子孫である。今般、近衛信尹が細川休無齋(忠隆)に対して下津棒庵の消息を尋ねる文書が、益田孝著「古文書・手紙の読み方」に掲載されていることをお教えいただいた。
先日之古今者如何成
候哉途中故不能返礼
心外候棒庵はいつかたに被居
候哉用之事候間此者に
人をそへられ候て可給候かしく
六月四日
休無齋 ●(信尹花押)
時代が判らないが、人間関係が大変興味深い。
「三藐院 近衛信尹―残された手紙から」に、この手紙が紹介されているかどうかは別として、これは読まねばなるまいと購入の手配をした。
信尹(信輔)は一時期(文禄三年~五年)勅勘を蒙り薩摩の坊津に流されている。その時期幽齋が薩摩を訪れている。
【藤孝君、文禄四年六月太閤の命に依て薩州御下向、薩摩・大隈・日向を検考なされ候、(中略)御逗留の中、(島津)龍伯・義弘饗応美を尽され、茶湯和歌連歌の御会等度々有、(以下略)】と綿考輯録は記す。
幽齋が帰った翌年文禄五年七月、近衛信尹(信輔)は勅勘を赦され薩摩を離れる。その折阿蘇惟賢が随従して京へ登る事になる。そのときの紀行文が有名な「玄与日記」である。一名「阿蘇黒齋玄与近衛信輔公供奉上京日記」とよぶ。一行が京へ入ると、幽齋が駆けつけていることがこの日記から伺える。
阿蘇家は惟前と叔父惟豊が守護職をめぐって争ったが、これに敗北した惟前は島津家を頼った。惟前の子・惟賢も秀吉の九州征伐に際し、矢部の浜の館を脱して島津家へ奔った。当時島津家には勅勘を蒙った、近衛信輔が流謫の身を置いている。幽齋が鹿児島を訪れた時、当然ながら惟賢との対面もあったであろう。歴史のめぐり合わせの不思議さを感ずる。