津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

ガラシャの覚悟

2011-02-08 08:55:50 | 歴史
 文禄4年(1595)豊臣秀次の事件に際し、忠興は血判などにより連座の嫌疑を受け、一時は賜死の処置さえ囁かれ絶体絶命の危機に至った。家老・松井康之の奔走により事なきを得たが、その折の細川家の覚悟を示す次のような一文が残されている。
「被請御検使御切腹被成由相聞候ハゝ即刻 御前様 御子様江御生害を奉勧御屋舗を焼払候様ニ与被仰付候」

 ガラシャの生害はこの五年後のことである。
「関東軍記大成-巻之九・丹後侍従内室自害」は、ガラシャの最後に臨んでの心境を次のように表現している。
「我が父明智日向守謀叛を企て、信長公を弑し給ひし時、忠興の離別に逢ひて、丹後の山家に隠れ居たりし頃、主君を殺したる人の娘なりと、賤山かつにも譏られて、余りの口惜しさに、自害せんと思ひ立ちしが、与一郎未だ幼少なり。今少し生きたてゝ、忠興に返しなんとする内に、又呼返れて、年月を送り、近き頃は、諸大名の奥方、淀殿へ参る事ありしを、自ら身を恥じられて、参りもせざりしが、今又、城中へ入りて、人に面を晒す様なし。只、心能く自害せん・・・・」としている。この様な思いがガラシャにあった事は事実であろう。しかしながら、この著者は「此説の虚実定かならず」としている。
介錯を務めた小笠原少斎は、このことをして「やむなし」と判断したようにあるが、ガラシャの覚悟は、「細川家の覚悟」の元にあったと考えるべきであろう。
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