津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「太閤記」と肥後国衆一揆まつり

2011-02-21 14:31:27 | 歴史

 報告するにはいささか時期を失したが、2月13日和水(なごみ)町では「肥後国衆一揆まつり」が三加和総合支所隣接の多目的広場で行われた。今年は第34回目というから歴史あるイベントである。
        http://kumanichi.com/news/local/main/20110213006.shtml

天正十五年九州平定を終えた秀吉は、肥後国に割拠する国衆に対して大変厳しい内容の所領安堵の朱印状を発するとともに、肥後国の新たな国主として佐々成政を派遣する。その折成政に対して「制書」五箇条を発したとされる。

          一 五十二人之国人に先規の如く知行相渡すべき事
          一 三年検地有るまじき事
          一 百姓等痛まざる様に肝要の事
          一 一揆起こさざる様に遠慮あるべき事
          一 上方普請三年免許せしめ候事
             右之条々相違無く此旨を守らべく也
             仍而件の如し
                天正十五年六月六日 秀吉御朱印
                                     佐々内蔵助とのへ

成政は入国するとすぐに、「三年検地有るまじき事」の一条に反して検地を始め、そのことが国衆の反発を招き「国衆一揆」に至っている。この「制書」が小瀬甫庵が著した「太閤記」の記述のみにしか存在しないもので、その信憑性が問われている。(この時期の朱印状や書状の宛名が、「羽柴陸奥守」「羽柴肥後侍従」とあるのに対し、太閤記では「佐々内蔵助」とあるのがおかしいと指摘する学者がある。)

責任を追及された成政は、秀吉により切腹を命ぜられる。一方国衆も大方の所領を没収されてしまう。喧嘩両成敗を最初から目論んだ、秀吉の狡猾な作戦であったのかもしれない。

一見のどかで楽しそうなまつりには、肥後の中世以来の数多くの小領主の没落という歴史の真実がそこにある。

「三年検地有るまじき事」の一条が、小瀬甫庵の創作によるものだとする昨今の考え方だが、ひょっとすると本当かもしれないと考えると成政の評価も随分違ってくるのである。

 

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