津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

春到来

2011-02-09 09:57:10 | 新聞

 この冬は雨が降らず乾燥しきって一雨欲しいと思っていたら、昨日はわずかばかりの恵み雨が降った。「新燃岳」の降灰被害地では土石流発生の恐れがあるとかで、こちらは雨が降らないようにと願っておられることだろう。
インフルエンザが流行しはじめたし、我が家では乾燥肌の息子が「かゆいかゆい」と背中をぼりぼりしている。乾燥注意報も解除されてなんだか空気もしっとりした感じがする。

 立春がすぎても風は冷たいが、ついつい「春は名のみの風の寒さよ ♪」と歌いだしてしまう。
2/5の地元熊本日々新聞の「新生面」を読み返していたら、この「早春賦」の作詞者・吉丸一昌氏と、三男喜直氏の話が載っていた。(以下新聞からの受け売り・・・)
喜直氏は「夏の思い出」「小さい秋見つけた」「雪の降る町を」など、夏・秋・冬を主題とした名曲を作り出されたが、春だけはないと言う。「父の早春賦にまさる曲を作ることは出来ない」と話されたいたそうだが・・・・・・良い話だ~と、くしゅんとしてしまった。

 「おもだか」を植えている水盤に、昨年、切り落とした「せり」の根を植えてみたのだが、これが見事に芽を出した。春到来である。
(おもだかの為には良くないかもしれない・・・・どうしようかと思案中)

 

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護貞さまのお名前

2011-02-09 08:33:54 | 歴史

 細川家は13代齊護公のお子様から、「護」の字が通字となっている。
護前、護順(13代韶邦)、護久(14代)、護明(津軽藩主・承烈)、護美の五兄弟である。
護久の子が、護成(15代)、護全(護美養子)、護晃(男爵家創立)、護立(16代侯爵)の四兄弟、護立の子・護貞(17代)から、護煕(18代)とつづき護光さまへと至っている。

 護貞さまの「貞」の字について、その御著「思い出の人々・揮麈憶往録」には次のように在る。
 私の名の「貞」の字は祖母がつけたのだそうだ。二代忠興の夫人ガラシャが大坂玉造邸で自殺したのが旧暦の七月十七日であったが、私が生まれたのが新暦の七月十七日で、その縁起から貞節の貞をつけたと聞いたことがある。

 2月2日のブログでご紹介した、「遊行七恵の日々是遊行」というサイトの永青文庫の展覧会【鴎外・漱石と肥後熊本の先哲たち】 を紹介する一文に、「護貞さま」の命名に関する手紙が出品されていたが記されている。

 竹添進一郎 書簡・蓑田喜太郎あて
【1912年夏に生まれ来る細川家の赤子の名前をいくつか考え、その候補を書いたのが内容。中に「護貞」があった。】

 竹添進一郎は「井々」の号で読んだほうが通りが良い、高名な漢学者である。
    http://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E6%B7%BB%E9%80%B2%E4%B8%80%E9%83%8E
 蓑田喜太郎は号を耐軒と称し、細川家の家扶を務めた人で、護立公の信頼厚かった人である。
通字「護」を冠したいくつかの名前が井々の手によりつくられ、この中から護久公夫人(鍋島)宏子様がお選びになったと言うことであろう。
どのような名前が並んでいたのかも、ちょっと気になる。

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