津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

今日は天草・島原の乱終結の日

2011-02-28 19:02:22 | 歴史

 原城攻撃は28日総攻撃が予定されていたが、27日鍋島藩の抜け駆けがきっかけとなり決戦の火蓋が切られた。態勢はほぼその日のうちに決した。28日の早朝陳佐左衛門が誰とは知らず首をとり、これが大将天草四郎のものであった。この日を以って天草・島原の乱は多くの犠牲者を出して終結した。363年の刻を刻んだ。
細川家は多いに面目を施すことと成るが、膨大な戦費がその後の藩の経済を苦しめることとなる。

 この戦がもたらした悲喜こもごもを、諸家の先祖附などでうかがい知った。

 天草島原の乱は、徳川家による天下平定後の始めての内戦であり、一方徳川家が倒れて日本最後の内戦(西南の役)を熊本はその舞台として経験している。
これらの戦いの結果として、安定した新しい時代が訪れた。多くの犠牲者に想いを致さなければならない。
                             (今日は妻の60うん歳の誕生日でもあります)

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今日は利休忌

2011-02-28 13:49:26 | 歴史

 天正19年2月28日の今日、千利休が自刃する。久しく利休最後の手紙として、二月十四日付の松井康之に宛てたものが紹介されてきた。忠興と織部が十三日淀の船着場で利休を見送ったことに対する、お礼とも言うべき書状である。その後発見されたという芝山監物宛ての手紙が、現況利休最後のものとされる。利休の心の奥底が伺える、悲しい文面である。

         「〆 芝監物殿まいる 尊報」

            御詠に、又一入涙斗ニ候 返し
               おもひやれミやこをいでゝ今夜しも
                 よどのわたりの月の舟路を
          
            返々御詠ながめ返し仕かね候まゝ御使を待せ申候
            いつもと申候ながら今夜又宮古の名残旁々ニ候
            宮古出ての淀の川舟とよミ候をいもひだすにも猶々
            なミだに候 やがて/\待申候/\ ことさら天き
            も能成候 かなしく候/\ かしく
               十五日

 427年の刻を経てなお、我々の心情を揺さぶる文面である。
綿考輯録は巻十に、「秀吉公猶も憤り深く、終に切腹可被仰付ニ定り候、依之忠興君より山本三四郎正倶を介錯人に被仰付(以下略)」と記す。蒔田淡路守が介錯役を勤めたとされるが、これは単なる検死役ではなかったのか。忠興の深い愛情が見て取れる。

利休忌としてのお茶会は新暦に近い3月28日、各地で行われるという。

                            (今日は妻の60うん歳の誕生日でもあります)

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細川家家老・有吉家の史料公開

2011-02-28 10:13:05 | 新聞

今日の熊本日々新聞から

      細川家の250年詳細に 三家老・有吉家所蔵品 一般公開へ準備すすむ
  
 熊本藩主・細川家の家老を務めた有吉家の22代有吉登聖さん(53)が、同家に伝わる文書や美術品を一般公開する準備を進めている。関ヶ原の戦いや細川家の肥後入國に関する記録などほぼすべて初公開の史料で、細川家と側近の足跡の一端がうかがえる。有吉家は松井、米田家と並ぶ細川家三家老の一つ。明応六年(1497)から細川家に仕え始めたという。有吉さんは陸上自衛隊第八師団副師団長。昨年三月、熊本に赴任したのを機に自宅に保管している文書など25点の公開を思い立ったという。「先祖以来覚書(三冊)」は、関ヶ原の戦い直前の細川家初代・幽齋の田邊城籠城戦など、明応六年から寛延元年(1748)まで約250年にわたる細川家と有吉家など家臣の動きを詳細に伝えている。城中や大広間で行われる礼式の重臣達の席次などを記した「年中行事抜粋」、軍令や隊列の組み方、軍役を記録した「家記」、蒔絵装飾箱に納められた源氏物語五十四帖などもある。美術品では網田焼や古小代焼の茶わんなど。所蔵品は北熊本駐屯地(熊本市八景水谷)内も3月24日オープンする郷土資料館に展示される。
                                    (全文引用)

         お話はかねがね伺っていたがいよいよ資料館がオープンとなる。
         記事の中にある「年中行事抜粋」は、熊本史談会で現在も勉強中の
         初出の第一級資料である。皆様もお気軽にお出かけになられ、直接
         御覧になられるようおすすめ申上げる。

 

上記記事の内容について、訂正方のご連絡を頂戴した。(コメント一部再掲)3/2記

家老展として有吉の文書類を展示するのは、3月19日~26日昼までです。それ以降は企画展示コーナーの内容が入れ替わってしまいます。入れ替わった後は、梅津美次郎大将(最後の陸軍参謀総長)の関連資料になる予定です。

コメント (3)
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松江城秘録(八)

2011-02-28 09:43:29 | 歴史

        (八) 庄林隼人新美八左衛門御暇被遣候

  一、庄林隼人・新美八左衛門御暇被遣候通皆共かたへ被仰下候 
     閏五月廿三日之御書六月三日ニ此地参着致頂戴翌日四日ニ
     則申渡候 庄林儀ハ志水新丞所へ召寄西郡要人・奥田権左
     衛門私共より之使二仕被仰下候通右両人を以申渡候
     八左衛門儀ハ(澤村)大学所へ召寄是も要人・権左衛門私
     共使二仕申渡候 屋敷をあけ申候儀ハ翌日あけ申庄林ハ新
     丞所迄のき申候 八左衛門儀ハ本妙寺之寺内ニ旦那寺御座
     候ニ付而是迄のき申候 四五日■迄仕両人共二爰元罷出川
     尻より舟ニ而のき申候 庄林儀ハ筑後立花領内へ参申由ニ
     御座候 矢島石見せかれ主水庄林淡路時より懇二申通ニ付
     頼参居申候由申候 新美儀ハ女子ハ長崎へ遣シ其身ハ江戸
     へ罷越子共なと御存之方へ預ケ置大坂京二可罷在と申由ニ
     御座候 此両人儀被仰下候御書之御請何も一所二可申上候
     へ共帯刀かたより之書状差上候ニ付而俄ニ私かたより御飛
     脚差上候間先私一人にて右ノ様躰申上候
  一、此衆相易儀無御座候御國中御城内一段御無事御座候此
     中雨ふり不申てりつゝき申候ニ付在々田畠はし/\いたミ申
     候由申候處ニ此四五日少ツゝ夕たち仕候熊本廻ハさしたる
     夕たちにても無御座候得共在々ハ所ニより田畠ノたりニ成
    申候不とハふり申候所も御座候由申候如何様雨を催申候間
    ふり申にて可有御座と申儀水之御座候處ハ無残世の中之由
    申候當國ハ少てり申分いよ/\御座候由何も申候此等之趣
    宜預御披露候恐惶謹言    
       六月十九日                松井佐渡守
              林 外記殿


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