津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

又々 地震の間

2011-02-03 13:09:24 | 建築

 建築の設計を生業としてきた者として、「地震の間」とはいかなる建物であったのか大変興味がある。ガラシャ夫人が最後を遂げられたのは、玉造の御屋敷の「地震の間」であったと「関ヶ原記」や「小須賀覚書」は記している。

 豊前時代においても小倉城内に建設されていたことが「奉行日録」などで確認できる。
熊本の花畑邸に於いては、数葉の絵図にその所在を確認できるし、江戸藩邸にも見受けられた。

 現在彦根城の整備が行われているが、その一環として「楽々圓保存整備事業」があり、この中に「地震の間」その他の整備が23年度から6年間に亘り行われると言う。
この建物は「地震の間」と呼称する唯一の遺構建築ではないかと思われる。
数種の論文が確認されるが、さきがけとなったのが昭和15年4月に地震研究所の斎田時太郎氏が発表された「彦根城楽々園地震の間について」である。
詳細な測量を行うとともに、地震の間としての構造的仕様の確認作業を行っている。
複雑なプランが入り組んだ一画にある、「八畳、四畳、二畳半のへやと東西の廊下・縁」からなる小さな数奇屋造りの建物である。床面が足堅という135×360(㎜)という大きな部材で縦横に固められ、小屋裏を高くしてここに筋違いを入れてあるという。また水平方向には15㎜の麻縄がタスキがけ(ブレーシング)に入れられていると言う。
  細川家の御花畑邸の「地震の間」がどのような構造であったのか、現在では知る由もないが、その間取りから見る限り「楽々園」同様壁面の耐性がまったくない構造である。
とても大きな地震に耐えうる構造とは考えられないが、「楽々園の地震の間」は、当時の匠達の耐震に対する想いが見て取れてる。

コメント
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