津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

和敬塾+永青文庫+新江戸川公園

2011-02-13 14:40:11 | 徒然

 

 永青文庫や新江戸川公園、和敬塾を含めた旧細川邸の敷地は、高田老松町・高田豊川町・関口臺町にまたがる、12.5ha(約37,800坪)の土地である。写真の二本の老松が町名の由来になっている。かつて東京のS様からお贈りいただいた、昭和21年の東京市小石川区の地図は、私の貴重な財産となった。この写真の二本の松の位置は、切絵図(雑司ケ谷音羽絵図)にも「鶴松・亀松」の表記があり、現在の目白通り和敬塾入り口あたりだろうか。   http://map.goo.ne.jp/history/map.php?st=100&kr=27

 昭和42年町名変更により目白台1丁目になった。ちなみに永青文庫は1丁目1番1号である。この場所はかっての家政所の跡だそうだから、わがじい様が勤めていた所である。
     http://www.eiseibunko.com/history.html
 邸内にあった職員宿舎(?)が、何処にあったのかがいまだ判らない。何方かご存じないだろうか。

 護立公がお建てになった、通称「細川侯爵邸」は、戦後オランダ軍に接収され、その後和敬塾となった。
     http://www.wakei.org/honkan/index.html
     http://homepage2.nifty.com/matsuken/sanpo01.htm

 庭園部分は現在「新江戸川公園」となっている。ここにあった学問所「松聲閣」のことを調べていたら、次のような資料に遭遇した。平面図もあってこれはGOOD。 http://www.city.bunkyo.lg.jp/var/rev0/0021/3698/tyousahoukokusyo.pdf
今後どのように活用されるのか期待するところである。
 
 早稲田方面に出るために母は苦労して胸突坂を上り下りしたと言う。
今でこそ舗装された道だが、昭和10年代どのような有様だったのだろうか。
元気なうちに今一度訪ねてみたい胸突坂である。(タモリ氏にレポートしてほしいな~)

 若干の思い違いがあり一部訂正す 2/14 18:47

コメント
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