津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

台雲様

2009-03-21 16:02:08 | 徒然
 「丹羽亀之允言上之覚」に、台雲様という名前が度々登場する。最初は僧侶の名前かとも思ったが、文脈からするとどうも違う。細川立孝の院号を泰雲院というから、多分当て字で台雲としたのだろうと思ったりもした。処が同じ文中に「中務殿」として立孝が登場してくる。立孝ではないとすると誰なのか・・・。

 この文書に係わってから一年ほど経過するが、ひょんな事から解決した。
ある本を読んでいたら、「妙解院羽林臺雲宗伍」という文字が眼に飛び込んできた。細川忠利の戒名である。ここに「臺雲」という文字があった。たった今しがたのことである。「あゝ、一年掛かった」という悔しさと、不思議な安堵感に包まれている。
改めて文章を読むと、他には考えられない事に気付くのだが・・・まだまだ勉強が浅い。
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「謹而致言上候」 丹羽亀之允言上之覚・一号

2009-03-21 10:29:00 | 歴史

  「丹羽亀之允言上之覚」十二通の内の第一号、三齋死去(正保二年十二月二日)直後の、
 十二月九日に書かれたものである。
 (上妻文庫・同名文書より)

               謹而致言上候
        此言上極月十日ニ宇右衛門所江遣候此趣要人ハ不存候
          言上之儀者被存候宇右衛門飛脚江戸へ持参申候
一、清岩和尚今度此表登り被申候時 三斎様御暇乞之節被申
   候ハお三事如何思召候哉其外仰置度事御座候ハゝ可仰置候
   拙僧も證拠可立申与被申候得ハ 三斎様被仰候ハお三事
   宮松殿と被仰合 三斎様御格別ニ可被遣方も無之候間御知
   行諸道具共ニ御譲被成候と被仰候得者清岩被申候ハ目出
   度儀ニ候/慥ニ承届候と被申候得ハ御酒出御祝候/其時堀田加賀守殿へ
   此由申候得と被仰候と聞申者も御座候/又聞不申者も御座候とて
   今度御遺言之書物指上ヶ申候時長岡河内守・佐方与左衛門
   志方半兵衛三人之内ニ而せんき仕由ニ御座候/河内者加賀守殿へ
   申候得と被仰候と申候/与左衛門・半兵衛ハ不承候と申たる由にて御
   座候/河内ニ北ノ丸殿と同意ニ罷成候由申候/甘利宮内・魚住万五郎両

   人江御遺言之書物持せ指上申候与右三人之者共申候間定而宮内
   万五郎致持参指上可申候/河内ニ北ノ丸殿談合ニ而御遺言之書物
   究申候由承申候/堀田加賀守殿へ 三齋様御遺言ニ如此
   三齋被申置候と申候而 三齋様御印を付加賀守様へ甘利宮内
   致持参中屋敷ニ而井門亀右衛門孫ニ渡シ加賀守様へ遣申候可申
   儀ニ御座候間田中左兵衛ニ被仰付亀右衛門ニ加様之儀者無之哉
   と被為成御断申候而如何可有御座哉亀右衛門孫中務殿御懇
   ニ被懸御目候と申候/此言上速ク御座候へ共今日九日之四ッ迄ニ承候故
   致言上候佐方与左衛門今月五日ニ勘解由与私ニ申候ハ北ノ丸へ
   伺不申候而者成不申事も御座候/女儀ニ而候得ハ与ク不参迷惑仕候/
   何共先へ不参候事共ニ而難仕与志み/\と悔ミ申所へ河内・半兵
   衛参候故申留申候/多分加賀守殿へ申候得と 三齋様被仰候と
   の儀与左衛門・半兵衛ハ聞不申候河内ハ聞申候と申候付与左衛門先へ

   不参候事有之与申たると存候事
一、今月五日ニ甘利宮内・魚住万五郎参候時得御諚申候覚出又御
   遺言之書物とて二通奥より持参り勘解由ニ見候得と申し候得共
   勘解由被申候ハ御遺言之書物見候儀ニ而無之与被申候間見候へかし
   若御老中の心得ニも成可申哉見候而も善悪之落着被申事ニ而無
   之候間見候得と申候得共勘解由被申候者見不申候分ヶ有之と
   被申候故達而不申候/私存候ハ見候而御心得ニも被持参儀茂御座候て
   宮内万五郎其表江着以前ニ申上度存見被申候得与申候事
一、三齋様御前ニ詰御右筆仕候田代喜兵衛与申者御座候/此者は
   台雲様と 三齋様之御間申さまたけ御中も態ク被為成候由御
   座候/先年 三齋様御死去被成候ハゝ 三齋様御知行中務
   殿へ可被進様ニと被仰候 台雲様と被仰分御座候時之 三齋様
   御談合人此喜兵衛ニ而御座候由ニ御座候 台雲様与 三齋様

   御間悪敷被為成り候事喜兵衛申犯候と申候間喜兵衛儀此説熊
   本被召寄候而者如何可有御座候哉言上候事
一、三齋様御知行中務殿へ可被遣との御約束之 台雲様御書物
   爰元ニ御座候と河内勘解由私ニ申候/加賀守様兼而御約束可有御
   座候と承候/柳生但馬守殿と中務殿別而能御座候由申候又中務
   殿林外記ニ御懇之由爰元ニ而取沙汰仕候/定而御内意を請罷可
   仕与存候得共若御意も不被為成能御座候得者御心持ニ可被為成
   与奉存申上候事
一、河内守儀爰元ニ而承候ハ 三齋様御手前不為成候事河内参事
   ニ心を付不申うつけたる故皆下々みたりニ仕候故御勝手被為詰候と
   申候/又中務殿江戸へ被成御同道中務殿御目見候之御才覚に
   上様御出頂之方へ御音信ニ大分金銀を御遣被成候故金銀へり
   申と申候/爰元の様子如此ニ申聞ものハ重而可致言上候此等之

   趣宜願御披露候恐々謹言
       極月九日               丹羽亀之允
         藤崎作右衛門殿

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ガラシャ と マリア

2009-03-20 15:23:58 | 歴史
 又々ガラシャねた。ガラシャの受洗に影響を与えたとされるマリアについて、略系図に落としてみた。

                                    伊也(藤孝女)
                                      |
 吉田兼倶---+--兼政---兼満====兼右---+--兼見---兼治
         |                  |
         |                  +--梵舜
         |                          +--いと(マリア
         |                          |
         +--清原宣賢---+--業賢---+--枝賢---+--国賢
                    |       |
                    |       +--長治(平野氏)--長泰
                    |
                    +--兼右
                    |                 +--伊也
                    +----女             |
                         |-----細川藤孝---+--忠興
                     三渕晴員               |
                              明智光秀---玉(ガラシャ

 文禄二年(1593)二月四日付け兼見卿記に、次のような一行が有る。
      「侍従女房衆与一郎内儀へ昨日見舞、今夕帰宅」 
侍従女房とは、幽齋女・忠興の妹伊彌(伊也)のことである。永禄十一年(1568)の生まれであるから、この年26歳。与一郎内儀とは、いわずと知れたガラシャ夫人(玉)である。永禄六年(1563)の生まれでこの年31歳。二人の間でどのような会話がなされたのだろうか。

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電子図書館

2009-03-20 12:14:32 | 歴史
肥後細川藩に関する以下の作品を、電子図書館で読むことが出来ます。


 ■阿部一族---森鴎外
     青空文庫 www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/673_23255.html
 ■興津弥五右衛門の遺書---森鴎外
     青空文庫 www.aozora.gr.jp/cards/000129/card45209.html  
 ■都甲太兵衛---森鴎外
     津々堂電子図書館 www.shinshindoh.com/tokoutahi.htm
 ■灰塵--------徳富蘆花
     津々堂電子図書館 www.shinshindoh.com/kaijin-1.htm 
 ■小壺狩------薄田泣菫
     青空文庫 www.aozora.gr.jp/cards/000150/files/4352_9545.html
 ■恩を返す話---菊池寛
     青空文庫 www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/495_19923.html
 ■べんがら炬燵---吉川英治
     日本ペンクラブ。電子文藝館 www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/novel/yoshikawaeiji.html
 ■或敵打の話---芥川龍之介
     青空文庫 www.aozora.gr.jp/cards/000879/card73.html
 ■糸女覚え書
     青空文庫 www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/58_14823.html

                          他にも有りましたらお教え下さい。
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糸女覚え書

2009-03-20 12:10:07 | 書籍・読書
 「印象派それとも・・」に続く、ガラシャねたである。
芥川龍之介に「糸女覚え書」という、短文があるのをご存知だろうか。
電子図書館・青空文庫で読むことができる。
          www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/58_14823.html

 これは細川ガラシャの最後を、糸なる召仕の女の回想として書かれている。「霜女覚書」を真似た、芥川のギャグみたいなものである。糸(芥川)は、ガラシャを特段の美人だとはしていない。そして賢ぶる人だと容赦ない。そんな深窓の佳人は、髪をきりりと上げて、死出の旅に望もうとする。まさに其の時、美麗の若武者がいよいよ最後が迫ったことを少斎に告げに来る。若武者にそのような処を見られたガラシャが、頬を染めたというのである。糸は「おん顔を耳の根迄赤あかとお染め遊ばされ候。わたくし一生にこの時ほど、秀林院様の御器量をお美しく存じ上げ候こと、一度も覚え申さず候」と述懐する。

 創作だから、これが芥川のガラシャ像だと理解しながら読むと、なかなか味わい深いものが有る。輿入れ以来始めて少斎に逢うし、その少斎が虫歯で歯痛であるとの設定など、笑わせてくれる。司馬遼太郎の「胡桃と酒」のガラシャ夫人よりも、余程親しみがもてる。
ご一読をお薦めする。
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品切重版未定「北国の雁」

2009-03-19 16:09:02 | 歴史
 いますごく読みたい本があるのだが、品切重版未定だそうな。2004年が初版だというが、まったく知らなかった。なんとか手に入れようと思案中。
                      北国の雁・清原宣賢の妻
                         著者: 千草子
                       発行年月日:2004/02/27
                         サイズ:四六判
                         ページ数:257
                        定価(税込):2,310円

【内容紹介】   「講談社BOOK倶楽部」のサイトから引用

大儒者清原宣賢(のぶかた)の妻の生涯!
みずみずしい室町ことば、自然と共振れする室町ごころ。高貴なる女人翠子を描く秀作。

はかなき此の世を過ぐすとて
海山かせぐとせし程に
万の仏に疎まれて
後生我が身をいかにせん

生涯で何一つ、うしろめたいことのない者はいない。それを懺悔する歌をうたうことで、同じ思いで冥界に旅立った人を救うことができる。それを信じるからこそ、念仏とともに歌いつづけるのである。翠子の腰からも、カラコロリンと鈴の音が唱和していた。雪の冷たさも、夜の冷えこみも翠子には感じられない。去りゆく貞信たちの跡をしたい、一度だけ「さらば」を言うために山道をたどっている気がする。(本文から)
        「日本の古本屋」の書籍検索でたった一冊の本をゲットしました。感激・・ 20:00



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印象派それとも青邨派

2009-03-19 14:17:21 | 歴史
 ガラシャ夫人を描いた二人の偉大な画家、堂本印象と前田青邨、皆様はどちらがお好きだろうか。過日民放で放映された「歴史サスペンス」の細川ガラシャをみて、時代考証のお粗末さにあきれ果ててしまった。その最後は、邸内の教会らしい場所で最後の祈りをささげ、其の部屋で短刀を小笠原少斎に手渡して胸を差させるというものである。大坂玉造教会の堂本印象画伯の絵を思い出した。どうやらヒントはここから得たのではないか。祈りをささげるガラシャを、部屋の外から眺める武士がいる。少斎であろう。私達が承知するガラシャの最後は、こういうものではない。

 一方、ローマのバチカン近代美術館に収蔵されている前田青邨画伯の「細川ガラシャ夫人」像は、いかにも品格にあふれてすばらしい。私はこの絵からガラシャ夫人を想像するのである。いつの日か実物が里帰りして、展観の機会がないものかと念じている。
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八代・三齋周辺の女達

2009-03-18 11:25:30 | 歴史
 「丹羽亀之允言上之覚」に登場する三齋周辺の女達である。

一、千百石         中務殿御母儀(圓通院・清田主計鎮乗入道素閑女幾知)
一、千石           中務殿御内儀(恵照院・五条中納言菅原為適卿女鶴)
一、五百石         北ノ丸殿(立法院・加来兵左衛門女)
一、弐千石         おさん(三齋養女・源立院・加来佐左衛門女佐舞又ハ三、後行孝室)

一、弐百石         おすき
    右ハ甘利宮内女房
一、弐百石         おより
    右ハ吉田兼庵女房
一、百石           おひさ
    右ハ長岡河内娘
一、百石           おたら
    右ハ加来佐左衛門女房田中又助めひの由
一、弐百石         おせひ
    右ハ飛鳥井殿御娘御万様之御孫子御万様御養候而吉田殿御よめ被成候由

 圓通院と立法院は共に三齋の側室である。
圓通院は立孝(立允・中務)と、細川刑部家初代興孝の生母である。のちに宇土を離れたと見られ、墓は刑部家の墓所慈眼庵(泰勝寺近く)にある。      一般人の立ち入りは出来ないようで未見
立法院は家老長岡河内と共に、三齋の遺言として行孝とお三の結婚、また遺領並びに遺品の相続に努力している。お三と立法院は、姪-叔母の関係である。立法院とお三は小川の御茶屋に移り、宇土立藩の時期までここで過したのであろう。
この報告書が書かれた頃(正保三年三月)といえば、中務(細川立孝)の死後十ヶ月ほどである。恵照院はまだ八代にあったのだろうか。貞享五年七月京都で亡くなった。(66歳・墓所本能寺)

「おすき」は三齋の祐筆・甘利宮内の女房、夫と共に離国したものと思われる。
「おより」は吉田神社の隠居・兼庵の女房、兼庵とともに三齋のよき話し相手であったろうと思われるが、兼庵たちが三齋の遺骨を京都高桐院に納める為上洛したが、この時期京都へ帰ったのであろう。
「おひさ」は家老・長岡河内の娘、三齋死後の八代の仕置きに奔走した父親と共に、長崎
へ行ったのであろうか。
「おたら」がよく分からない。加来佐左衛門の女房であれば、お三の生母であろうか。
田中又助の姪とされるが、田中又助とは幽齋女伊也(吉田兼治)の娘(徳雲院)婿、田中半左衛門(長束大蔵大輔正家子)の子息である。ひょっとすると、吉田家の血が流れているのかもしれない。おたらがお三の生母であれば、お三にも吉田家の血が流れている事になる。そうすると三齋のお三に対する溺愛振りが理解できるのだが、真実やいかに。

「おひせ」については、3月10日のブログ「おひせ様」で書いた。
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細川家と二つの火鉢

2009-03-18 09:27:09 | 歴史
その一 
諸大名が登城した際、大広間には特別に「細川火鉢」というものが別に一つ置かれたという。三齋の時代に始まり、光尚の時代まで三代続いたが、綱利代に入り綱利幼少にて登城が途絶えた為、この時期に中止になったらしい。外様なれども外戚同様の特別の扱いがなされていた事が窺える。(綿考輯録・巻二十六から)

その二
目白の下屋敷(旧・高田老松町76番地--現・目白台1丁目1番地?)を切絵図でみると、細川邸の門前に鶴亀と名付けられた二本の老松が描かれている。鶴の松は見上げるように高く、亀の松はやや低くて平らであったそうだ。明治5年、高田四ツ谷町の内と高田四ツ谷下町を併せ、さらに旧土井能登守(越前大野藩6万石)、小笠原信濃守(播磨安志藩1万石)、細川越中守(肥後熊本藩54万石)の下屋敷と武家地を合併した。そして町名を高田老松町としたが、その町名の由来はこの縁起のよい老松からとったとされる。鶴の松は明治38年頃枯れ、亀の松は昭和8年頃枯れた。何時の頃か、どちらの木が採用されたのか、松の老木は大きな火鉢となって名残を留めている。
細川護貞様の著書にその写真がみうけられる。
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頓挫

2009-03-17 16:43:31 | 徒然
 三齋の死の直後の八代の有り様を、藩庁に書き送った「丹羽亀之允言上之覚」をタイピングしているが・・・・とんと進まない。読めない字が多くて、■表記ですすめていたら、■だらけになってしまった。一つ一つ「くずし字辞典」で潰していくのだが、最近はこの作業のほうが主になってしまったようで、公開には程遠い。

 さてこの「丹羽亀之允」何が原因か知らないが、陽明学徒が追放されたと同時期(寛文九年十月六日)「御暇」が出ている。先祖附を読んでいないので、はきとした事がわからない。「丹羽亀之允言上之覚」を後年編した同名源吾正名の後書きによると、「子無之及老年御知行差上益城郡木倉在江引入候由・・・」と記している。
 三齋死去後の三齋に仕えた侍衆の、離国する者、宇土支藩立藩に伴い宇土へやられる者、本藩へ帰る者、悲喜こもごもの模様を眺めてきた亀之允にとって、晩年の感慨は如何なものであったのだろうか。

 59頁ほどのものだが、進捗率10%で頓挫している。
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細川-三渕-土御門-津川(斯波)-織田

2009-03-17 09:01:13 | 歴史
 細川元有--+--元常======藤孝---忠興---忠利---光尚
        |               ↑ 
        +--晴員           |
            ↓           |
 三渕尚員===晴員---+---藤英  |
                |       |
                +---細川藤孝(幽齋)
                |
                +---招(大徳寺高桐院一世・玉甫)
                |
                +---元中(南禅寺長老)
                |
                +---女 (宮川・武田宮内少輔信重室)
                |
                +---女 (佐々木越中守室)
                |
                +---好重--重政--之直--+--之政==重澄・・・→細川家臣・三渕家                   
                |                |        ↑
                |                +---重澄・・・・・  
                | 土御門久脩            
                |      |--------泰重 泰重卿記・編者
                +--------女       |
                             +--● 
       織田信長・弟                |
           織田信包-----織田信重   |
                        |-----+--津田三十郎長相・・・・・・→細川家臣・津田家
                   +-----●
       斯波管領家       |
           斯波義近---+---津川辰珍・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・→細川家臣・津川家
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永代口止料

2009-03-16 22:53:20 | 徒然
 「おい、口止料をよこせ」
 「・・・・うん?」
 「口止料だよ」
 「・・・・・・・」
 「それも、永代口止料だ」
 「・・・・・・・」

 山口瞳の小説「居酒屋兆治」に登場する、兆治と岩下なる友人との会話である。但し店ではなく、岩魚釣りに出かけた山小屋での話なのだが・・・岩下の浮気についての兆治の戯言である。

 政治の世界ではN建設の献金問題で、首筋がヒヤヒヤしている人が多かろう。「よこせ」ではなく「口止料です」などという話はなかったのかと、このフレーズを思い出してふと考えた。
(ただしこの言葉は、ぐぐっても絶対出てこない。山口瞳の造語である。)

 
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清正井戸

2009-03-16 19:10:46 | 歴史
 池波正太郎の「江戸切絵図散歩」を読んで、明治神宮が加藤清正の屋敷跡であったことを知った。そして加藤家没落後、井伊家屋敷になったというから、江戸城桜田門前の井伊家屋敷と同じ事に驚いた。明治神宮は一度だけ尋ねた事がある。まったく歴史には興味がない時代で、早々に退散すると原宿あたりをウロウロしたものだ。明治神宮のサイトを見ると、清正井戸なるものが残されているという。
           www.meijijingu.or.jp/midokoro/3.html
もっと早く歴史に目覚めていれば、見学できたのに・・・。それにしても桜田門前にしろ、明治神宮にしろ、加藤家の屋敷跡に井伊家が入ったというのが、何か因縁めいて面白い。細川家の龍口屋敷の造成に当たっては、桜田門前の加藤家から土をもらった事が判っている。池波正太郎氏の一文によると、ここには池や沼もあったらしく、萱や枯れススキを投げ込んで、子供達や百姓を集めて大賑わいの内に踏み固めさせたという。いかにも秀吉子飼いの人らしい振舞で、クスリとさせられる。
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陽明学徒・朝山次郎左衛門

2009-03-16 17:08:52 | 歴史
 肥後の陽明学は、朝山次郎左衛門が京都より師石川吉左衛門を伴ってきた事に始まる。(高野和人著・北嶋雪山の生涯より) 陽明学は幕府にとっては「異学」とみなされ、寛文七年の巡見使の九州巡国に際し、肥後における陽明学の状況が幕府に報告されたものと考えられる。藩主綱利の側近であった朝山次郎左衛門も、容赦ない処分を受けた。幕府の強い意思が考えられる。

        【武家家伝_朝山氏  www2.harimaya.com/sengoku/html/asayama.html 】

       +---妹--------石川吉左衛門
       |
       +---永田亮智
               |---次郎左衛門
   +--朝山幸綱----●
   |
   +--朝山意休庵--------------------伊織
   |                          
   +--朝山景吉=========次郎左衛門----(主膳)----斎之助
   |
   +------●
         |
     平野九郎右衛門(如元)

 次郎左衛門は師・石川吉左衛門と共に離国、京都に至った。伊織は願い出てお暇をいただき行動をともにした。石川吉左衛門は母と妻、四人の子を肥後に残した。嫡子・理兵衛が寛文十年召し出されて藩士となった。朝山家は次郎左衛門の孫の代に至り召し出された。この事件は、藩主綱利の叔父に当たる長岡元知がその処分に異議を唱えて諫言し、永蟄居の処分を受けるなど、細川家一族にとっても少なからぬ余波を蒙った。


1、斉助・景吉 
    原城にて武功之面々御褒美被下候 寛永十五年九月朔日 千石加増
      (1)側小姓・御扈従役歟 五百石 (於豊前小倉御侍帳)・・斉 
      (2)御児小姓并御伽衆共 五百石 (肥後御入国宿割帳)
      (3)御詰衆 弐千八百弐拾石一斗三升 (真源院様御代御侍名附)
      (4)二千八百二拾二石        (真源院様御代御侍免撫帳)
      (5)御小姓頭    同上
2、次郎左衛門(養子・斉助長兄幸綱の孫) 
      (1)有吉頼母允組 御小姓頭 弐千八百拾石余 (寛文四年六月・御侍帳)
      (2)寛文九年十一月御暇遺候 陽明学徒追放による
           寛文九年十月七日 御暇  (※)
           寛文元年八月~寛文九年(御暇) 小姓頭  讀史総覧より   
    名は幸和、自全と号す。年三十六にして致仕し、洛西嵯峨に隠棲す。
    篤く聖学を信じ、就中王陽明良知の学を尚べり。
    天和二年四月十二日歿す。年四十九。
3、斎之助(次郎左衛門子主膳の子・景隆) 細川斉茲公御書出(天明八年)百五拾石
    朝山静全 名は景隆、斉之助と称す。藩に仕へ京都留守居役を勤む。
    文化三年九月歿す年九十三。
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愛宕下藪小路

2009-03-15 14:34:46 | 歴史
  
  財団法人・首都高速道路技術センターのサイトのコンテンツ「愛宕山周辺の変遷」から引用
                     www.tecmex.or.jp/history.html

 綿考輯録に「今年(慶長七年)於江戸初而御屋敷拝領被成候」という一文がある。(巻十七--忠興公・上p423) これによると、「或説ニ、忠興君初而於江戸御拝領の御屋敷ハ、愛宕下藪小路之由」とある。北野隆・熊本大学名誉教授によると、翌八年に上屋敷たる龍口屋敷が普請に入ったとされ、通常「愛宕屋敷」「三齋中屋敷」と呼ばれる御屋敷の普請は、元和八年からはじまったとされる。

 切絵図(芝口南西大久保愛宕下之図)をよくよく見ると、愛宕山の前の道路は「此ヘンハアタゴ下ヒロ小ジト云」と書き込みがある。現在の「愛宕通り」である。ここに加藤越中守の屋敷がみえるが、これが「三齋屋敷」であろう。武州豊嶋郡江戸庄図にある場所と一致する。そして南側の道には「○三才小ジ(三齋小路カ)」とあり、北側の道路に「○ヤブ小ジ」とあった。時代は違うが、すぐ近くに宇土細川家屋敷(細川豊前守)が見える。(田ムラ小ジ)

 いろいろ検索していたら、安藤広重の浮世絵「名所江戸百景」の「愛宕下藪小路」に出会った。広重のこの絵は、かっての三齋屋敷周辺の模様が描かれているのだろう。さて左の建物は何か。右手に描かれている小川から此の場所が推定できるのか。いろいろ謎ではあるが、当時の雰囲気が見て取れて大変興味深い。

(春ハ名ノミノ風ノ寒サヨ・・外出もしたくなく、こんなことをしながら日曜の一時を過しています)


   追記:3/15pm18:45  問題は解決いたしました。説明文を全文引用しました。
              www31.ocn.ne.jp/~hira/atago-ukiyoe.htm
愛宕下藪小路 愛宕神社下の愛宕通りから芝方面
『愛宕下絵図』を見ると、新橋を南に行き、2ツ目の四ツ辻のところに「ヤブ小ジ」と記されている。現在の港区虎ノ門1丁目あたり。今はない桜川で、左手の屋敷は土方備中守の屋敷。右の竹が見えるのは、江州水口の加藤越中守の屋敷で、同家で鬼門除けのために竹を植えたので、藪小路の名が出たという。広重は、静かに雪が降る景色とし、桜川の中央に濃い藍を用いて、水の深さ流れの強さを強調している。この加藤越中守屋敷が、かっての細川三齋屋敷である。

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