津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興の眼病と光寿院の死

2009-03-04 10:52:38 | 歴史
 元和四年忠興は散々である。「二月二十日時分より両眼共ニひしと見へ不申候」状態になり、一ヵ月後には「寝間を余所江出候事一切不成候」というありさまである。閏三月二日、内記(忠利)に対して書状を認めている。症状が落ち着いたのだろうか、母・光寿院(麝香)に対しても、「母にて候人ヘハ、はや目本復にて頓而下候由申入候間、可被得其意候事」と気遣っている。母への気遣いは、その住まいに対してもこまごまと申し送っている。

■(同年)四月朔日、忠利君江之御書之内
   追而申候、光寿院殿御屋敷と路地との間之土居ニ、来つゆ之内ニこから竹をうらおもてニ
   ひしと植、土居を藪ニしたて候まゝ、竹之儀才覚候てつゆの内ニうへさせらるへく候、ちいさ
   き竹程能候、なかきハ悪候、いかにもやせたる小藪か能候、其才覚不成候はかハせらるへ
   く候、竹沢山ニ候は、何方ニ而も路地へ裏之家ノ見ゆる方ニ家かくしに植度候、二畳敷・三
   畳敷ほと路地ニハまろくうへさせらるへく候、又土居の下ノ方水つき二ハ柳木をさゝせらるへ
   く候、以上

 北野隆氏の日本建築学会論文報告書「細川家文書による近世江戸屋敷の研究」によると、龍口邸は三つの建物(本屋敷・光寿院の家・居間)にわかれていたらしい。その光寿院の建物を竹の囲いで囲おうという忠興の考えである。宇土細川家の宇土の屋敷町を歩くと、あちこちに低い竹の囲いが美しいお宅が数多く見られる。あんな具合であったのだろうとその風景を思い出している。

 まさに茶人・忠興を髣髴とさせる美学が感じられる。そんな忠興の指示が間に合ったのかどうか、光寿院は六月に入り病となる。そして七月廿六日御卒去、御年七十五歳であった。忠興は「御死目二とても相候事成間敷候間・・」と覚悟をしながらも、七月十三日小倉を発している。「右之目は捨二仕、左之能方之ひとみ(略)上下へほそ長ク罷成、事之外かすみ申候」状態で、廿九日吉田に到着している。「我等心中御推量候而可被下候、取乱申候而一書ニ申入候」と、後事を忠利に託して忠興は京に十四五日滞在の後、小倉へ帰っている。そして十月初小倉を発ち、吉田に逗留して目の治療をし、十一月江戸着、廿七日将軍家に御目見している。

 元和七年正月七日忠利が家督相続、大名妻子の江戸居住令により忠利室保寿院が江戸に下るのは八年十月である。
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綿考輯録に見る江戸屋敷--白銀(金)御屋敷 ?

2009-03-04 08:51:33 | 歴史
 元和二年
■忠利君より江戸表之事、追々被仰上候二付、(六月)廿八日御書の内
  屋敷之儀被申越候、竹中屋敷は道を隔候間、取申ましく候、朽河屋敷被望候由、被申
  越候間、此屋敷被主付候へと申遣候、あら屋敷とられ、地形つきなとたてられ候ハゝ、
  十五貫にてハ中々調ましく候、其上人を不被遣も第一徳ニ候、是非是を被取候へ、我等
  へ程近候間、互之ためにて候由、われ/\かたよりも申遣し候、猶々異見可被申候、此
  屋敷於被主付ハ、我等借り候銀子之内少ハ用ニたち可申候事
■   同  七月十日
  屋敷之儀先度も被申越候、則人を遣シ、定而可為参着候、就夫、藤泉州へ被語候へハ、
  泉州則被申上候へハ、何方ニ而も替屋敷可被下由御諚之由、先以忝儀ニ候、我々初而
  望候ハ堀伊賀屋敷ニて候、何とて前田大和屋敷と被申上候様ニハ仕なされ候や、一興
  成儀ニ候、明屋敷を望候ハて、ぬしのある屋敷を望候様ニ可被思召候、其上前だ屋敷ハ
  高ク可有之候、旁不可然候事ニ候間、前田無何心分ニ而被、打置事成候ハゝ、其分ニ可
  被仕候、とても買候程ならハ、堀淡路屋敷ましにて候、兎角先書ニ如申候屋敷を仕度候
  間、可被得其意候、但遠路ニ而候間、跡ニ何と成共成候ハゝ可為其分候事
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